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「第三者の目」芹沢光治良『みちのだい』14号の記事を読んで

はじめに

 ひとつ前の記事で天理教婦人会の『みちのだい』15号の古い記事のことを書いたが、その対談の元となっている14号に書かれた記事「第三者の目」芹沢光治良を読んでみた。『みちのだい』編集部からの依頼で書いたもののようだが、文末に「万一この文章が編集者にご迷惑をかけるようなことがあれば、ぼつにしていただいて結構です」と断っているところから、芹沢氏は『みちのだい』に載せられるものではないとも思っていたのかと感じる。
 内容的にはある大学の文学部の助教授の友人との会話が中心で、未信者である友人からの質問に答える形でいろいろ問題提起している。ハッピの話から貧困の話について、その後、おさづけの話に続いていく。後半はその若い助教授が核心を突いた話を芹沢氏に語っている。
 今とは時代が違うのかもしれないが、教内の出版物に、これだけのものをよく載せられたものだと感じる。当時の編集部の方々にも、いろいろ問題意識があったのかとも思えてくる。

復元すべき大切なこと

その若い友人は、世界中の宗教学者が過日日本に集まってした会議にも関係があったらしく、会議が終わったあと訪ねて来て、いろいろ話の末、天理教について言った。
友 「私は天理教を少し勉強しましたよ。敗戦後、天理教は復元といって、教理の復元をしましたね。そして、復元された教義は、立派ですね。教組の道が立派だったからでしょうが……。しかし、復元すべき大切なことを忘れていますね。というのは、天理教の教会制度など一切が、所謂明治教典にもとずいて成立しているものでしょう?教会制度についても根本的に復元すべきなのに、手をふれないで安易に教会制度の上に坐り込んでいるようですね。ここに、天理教のゆきずまりがあるんじゃありませんか。社会は教祖がゆめみたように、人間が解放されて、神の前に同じ子供であるという人権を認められ、結構になって行くのに、教団のなかでは、人間が平等でなく、同じ神の子ではないような扱い方が充満してますね。人間の解放も、人間の尊厳も、全てなおざりにされていますね。教団は無知と不合理の世界みたいですね。それでは新しい信者はもうできませんよ。言葉をかえれば、大神は教団から出て、社会に直接働きかけて、人間をしやわせにしようとしているように考えられますね。

『みちのだい』14号 78頁

 この文章で大切だと感じたのは「天理教の教会制度など一切が、所謂明治教典にもとずいて…(中略)…ここに、天理教のゆきずまりがあるんじゃありませんか。」という部分である。天理教のことを研究されている方や、歴史も、ご存じの方にはよく知られたことだと思われるかもしれないが、「応法の道」として教祖の教えとは違う明治政府の意向に合わせて編集された「明治教典」があり、天理教は教祖本来の教えとは違うものになっていた。「明治教典」に関しては前の記事「古い天理教青年会機関紙『あらきとうりょう』を読んで、感じたこと…。」でも書いたが、教祖の教えとは程遠いものだった。
 それで敗戦後、「復元」ということで教典も新しくして、教祖の教え通りに戻そうとしたわけであるが、「教団組織」は逆行していたわけで、そのことを痛烈に批判している。しかし、教会制度に関して大きな改革などは筆者の知る限り、今までされておらず、現在に続いて来た。「ゆきずまり」の原因は明治教典にもとずいた教会制度にあるのだと指摘しているが、全く変わらずに現在まで続いて来たと言える。
 芹沢氏の友人が言うように、安易に教会制度の上に坐り込んでいられなくなっているようにも感じる。この話から、もう60年以上過ぎているのである。

都合の悪い第三者の声は聞こえない

 この記事の中で芹沢氏と友人は更に重要な問題について話し合っている。友人は第三者の目で天理教のことを客観的に見て発言しているようだが、筆者も頷けることばかりである。文末まで引用することにする。

社会が進んで、教団がおいてきぼりになると、その宗教はただの形骸になることは、宗教の歴史が教えているが、天理教はその点で、復元をしなければ、現状が頂点で、下り坂になりますね。」
僕 「それは重大な問題で、軽々に論じられないね。」
友 「重大な問題だから、天理教人は一日も早く真剣に考えなければならないと思いますがね。私は天理教が衰微したって、人類が幸福に向かっていればそれでいいですから、平気ですが。」天理教がその問題を解決してーーー教理は立派だが実際はどうもと、世人からそっぽを向けられないようにならなければ、人類の幸福について発言権がないばかりか、人類の進歩に邪魔物になりますよ。」
僕 「そうだな、人類が危機に直面しているような今日、それについて何等の働きかけもできないようだったら、その宗教は、神からも見すてられるだろうね。」
友 「ほんとうに、天理教が世界の最後の教だというなら、今こそ天理教の改革が内からなされなければ、いけない時じゃありませんか。」
私はこうした第三者の目が正しいかどうか、知りません。
しかし当事者には、時々物の大体が見えないことが多いし、都合のわるい第三者の声は聞こえないことも多いので、書きしるして、皆さんに考えていただきたいのです。
私に何か書くように、もとめられた編集部は、ちがった文章を期待したかも知れませんが、万一この文章が編集者にご迷惑をかけるようなことがあれば、ぼつにしていただいて結構です。  (作家)

『みちのだい』14号 78頁

 読んでみて、いかがだろうか。全くその通りだと言わざるを得ないようにも感じる。この文章から既に60年以上が経っているが、「その宗教はただの形骸になることは、宗教の歴史が教えている」との通りになってきていると感じる。また、「天理教が衰微したって、人類が幸福に向かっていればそれでいいです」というのも頷ける。教えが残り、皆がそれを実践していれば、教団がどうなろうがかまわない話である。
 しかし、組織が大きくなっているだけに生活の基盤そのものが、天理教の組織という人も大勢いるわけだから、ことは簡単ではない。私もよく耳にしたが、「教理は立派だが実際はどうも」という人が確かに多い。本当に「最後(だめの)教え」であるならば、包み隠さず、全てを公表し、正しく伝えていくことが大事であって、明治教典以来の悪しき、教会制度を無くし、本来の姿に復元を目指していくことが何より大切だと思うのだが。

おわりに

 読んでみていかがだったでしょうか。このNoteで天理教の歴史や、教理や教会制度について何度も書いてきましたが、何となく閉塞感を感じたり、何かおかしいけど、どういえば良いのだろうという人も多いように感じています。私はそれをただ代弁しているに過ぎないのかもしれません。自分で調べ、文献にもあたり、研究していくことによって、その閉塞感や何かおかしいことが、だんだんはっきりしてくるものかとも感じています。
 芹沢氏が60年以上前に「当事者には、時々物の大体が見えないことが多いし、都合のわるい第三者の声は聞こえないことも多いので、書きしるして、皆さんに考えていただきたいのです。」と言った気持ちと同じかもしれません。最後まで読んでいいただき、ありがとうございます。
 
 読んでいただき、ご感想を聞かせていただければ幸いです。


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