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小説「人間の一生」 第十一章

うつわの違い

 人は生まれつき持っている「うつわ」が違うようだ。もちろん生まれ育った環境や経験によって培われていくものもある。しかし、同じ環境で育っても、個人の「うつわ」が違うように感じる。そこには、やはりその人の「徳分」というものがあるのかとも思えてくる。天性とでもいうのか、持って生まれた才能というのだろうか。言葉には表現しにくいものなのかもしれない。

「中島君、お父さんは何をしてるの?兄弟は?」
「普通の会社員です。兄弟は兄がいます。」
「ふ~ん、そうなんだ。じゃあ、次男だから自由にどこでも行けるね。」
「オヤジは技術系で、定年まで、ずっと技術畑で働いてました。」
「じゃあ、中島君が工学系に進んだのも、親の影響があったのかもしれないね。」

 中島君と知り合ってからというもの、ジロウはうつわの大きさの違いというものを感じずにはいられなかった。初めて会って、仲良くなり友達になり、いろいろと行動を共にしても、うらやましく感じることばかりだった。 
 国立の有名な大学を出て、大学院にも進み、とても優秀なのに、そんなことはおくびにも出さず、いつも飄々として、人を見下すようなことや、バカにするようなことは一切言わない。それでいてユーモアもあり、誠実な人柄でもある。彼といると楽しくもあったが、劣等感を感じたり、自分のうつわの小ささが見えてくるようで、情けなくもなった。

伝統宗教と新興宗教

 育ってきた環境が違うから、仕方がないのかとも考えたりした。ジロウは自分の家が天理教を代々信仰してきたことを、教外の新しくできた友達には知られたくなかった。人と付き合えば、自然と家族のことや親の仕事のことなど、いろいろ話すことも増える。個人情報的なことも話すであろう。相手と共通することがあれば、共感し、心を開いて個人的な話もしていくものだろうと思うが、こと宗教に関しては避けたいというか、隠したい部分でもあるのかもしれない。
 昔からある伝統宗教なら、隠す必要もないのだろうが、新興宗教といわれるような教団に所属していると、その特異性献金制度などで、友達に知られては変な目で見られると、打ち明けたくはないものかとも思う。伝統宗教といっても、厳しく戒律を守ったりする人は日本では少ないのかと思う。「うちの宗教は浄土真宗です」と言ったところで、葬儀の時に近所のお坊さんがやってきて、念仏をあげ、あとは法事の時に世話になるくらいだという人も多いのかもしれない。従って、その時にお布施をするくらいのもので、新興宗教団体のように多額の金銭を要求されたりすることはない。金に纏わることは避けられないのかもしれないが、友達に悪いイメージを植え付けないかと、新興宗教二世・三世は考えるのかもしれない。

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