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残った人生は「居直り」で

 人間がこの世に生まれてくるのも、神のせわどりが、あればこその話で、反対にいくら死にたいと思っても、息を引き取るのも神の思惑があればこそのことなのかとも思う。
 「もう生きていたくない。死にたい。でも自分では死ねない」と繰り返すご婦人を相手に、今日も一日過ごしてきた。
 思わず、「そんなに死にたきゃ、もう我慢せずにどうぞ。」と口にしたくなってくるのを、グッとこらえて、「何を言ってるんですか。」となだめ続けて、もう一年以上が過ぎた。

 そんなことばかり言っていたら、人が離れていくのも当たり前だし、何を言っているのかと思うが、ご本人さんは一人ぼっちになって、寂しい思いもあるのだろう。しかし、けっして一人ぼっちでもなく、近くに息子家族もいれば、心配してくれて毎日、連絡してくれる友人もいるようだ。私には甘えているようにしか思えない。

「どんなにがんばったところで、あと20年くらいしか生きられないじゃないですか?急がなくてもお迎えは来るんだから、それまで陽気に暮らせばいいだけのことじゃないですか。家もお金も不動産も、あの世まで持っていくことはできないし、散財したところで使いきれない財産もあるじゃないですか。何をもったいないことばかり言ってるんですか…。」

 私がこのように話したところで、何も心には響かないようだ。同じことを繰り返すばかりで、聞き役に徹するしかない…。
 聞けば「いのちの電話」にも時々かけているようだ。しかし、そんなことをしても親切に話は聞いてくれても、何の解決にもならない。本人もそうだと思っている。
 口酸っぱく「自分が心の向きを変えないと、何も変わらないし、皆もそう思っているはずですよ。」と一年以上、伝え続けてきたが何も変わらず、毎日、一人で人目を避けるように自転車で、あてもなく出かけているという。

たいないゑやどしこむのも月日なり
       むまれだすのも月日せわどり

                   『おふでさき』第6号 131

 昨日から一日中、ずっとこの「お歌」が頭の中をかけめぐっている。不幸にも事故で亡くなる人は跡を絶たない。この前まで元気だったのに、今はもうこの世にいないといったことも日常的に起こっている。世の常である。

 この世には理不尽なことで命を無くしている人もいれば、生きたくてしかたがなくても、死んでいく人もいる。自ら命を絶つなど、とんでもない話である。私にすれば何と、もったいないことで、自己中心なのかとしか思えない。人は生まれてから、どれだけの人に世話になり、どれだけの人に愛されてきたかという自覚がなさすぎる。軽々しく「死にたい」などと口に出すことではない。

 そのご婦人と同じような年齢で3年前に癌で亡くなった人のところへ通っていたが、もう少し生きたかったと無念の思いで亡くなられたのかと思っている。抗がん剤治療も空しく、お迎えが来てしまったが、最後まで希望を捨てないでいた。それでもお迎えは来てしまうのである。

 誰にでも、うれしくなること、怒りたくなること、悲しくなること、楽しくなることは、繰り返しやってくる。マイナスなことばかりに目を向けて、落ち込むより、プラスのことに目を向け、陽気に暮らしていく方がいいのではないだろうか。

 あと20~30年もすれば、私もお迎えが来るだろうし、その前には免許も返納しなきゃいけないだろうし、好きな趣味も十分に楽しめなくなっているだろう。いや、それがもっと早く来るのか、遅く来るのかはわからない。
 逆に「お迎え日」を知ったところで、今日一日を充実して過ごしていこうという思いしかない。人は「達観」とも言うが、そんなかっこいいものではない。単に「居直っている」だけの話だ。

 今までやってきた経験やキャリヤを活かして、人のため、社会のためになるように、残った人生を過ごしていくだけのことだ。
 若い人から年寄りまで、毎日いろいろな人と話しながら楽しくやっている。幸せ者だと自覚もしている。だから幸せのおすそ分けも、自分の仕事なのかとも思う。


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