知らないところ
今から十五年ほど前、はじめて宮古島に行ったとき、不思議な場所に行った。
わたしは宮古島のことはまったくわからず、すでに何度も訪れているという人に連れられ、車で伊良部島というところへ移動した。わたしのほかに、連れてきてくれた男性、もう一人女性がいて、みんな同じ年だ。早めの夏休みで、浮かれて海で泳ぎまわったあとは、ぐったり疲れて車のシートにしずみこむ。会話が止まって静かになると、車のプレイヤーからわたしの持ってきた、レムリアの「HUNK OF HEAVEN」が聞こえ、窓から見える景色や、においや、湿った空気と混ざりあい、眠くなるように安らかな気分になる。
到着したのは伊良部島の「通り池」という場所だ。曇り空で霧のような雨が降っていたけれど、眺めはとても美しく、海に近い緑色の陸地に、ぼこんとくぼんだように見える池は、青い色がくっきりとしている。すこし離れたところ、岸壁に近い、海から近い場所にも、穴のあいた場所があった。じっと見ていると吸い込まれそうだ。緑の草の生えている陸地から、灰色の切り立った岩と岩の奥、岸壁の底の方に澄んだ水が見える。わたしたちは陸地に腹ばいになって、奥の水をのぞきこんだ。陸地はしっとりしていて、はらばいになった体は霧のような雨にすっぽりと包まれる。のぞきこむ、その奥深くから淡い白い煙のようなものが見えた。煙のようなものは、奥からほわほわと立ちのぼって、近くまでくるけれど、ここには届かない。
「なんだか、RPGの一場面見たいやね」
「たしかに……」
「ほんま、ゲームみたいなあ」
わたしたちはしばらく眺めたあと、立ち上がって車にのりこみ、宮古島のホテルに向かった。陸地に空いた深い穴は、海につながっているのだろうけれど、どこか別の場所へつながっているようにも思えた。別の場所、というのがどこかは思いつかなかったけれど。
今年の七月に、病院から帰宅した高齢の女性、Y氏は、急性期の治療を終えて療養病床へ転院する予定だったけれど、家族の強い希望で自宅へ戻ってくることになった。病院で行うケアを自宅で行うために、サービスを調整しなくてはならないし、自宅の環境を整えたり、費用の概算を出す必要もある。事情があって非常に急いでいたし、家族の準備も大変だった。やっとの思いで自宅へ戻ってきたときには、退院許可が下りてからすこし時間が経ってしまっていた。
退院の日、自宅へもどったY氏に会いに行ったとき、彼女は深い眠りについており、点滴のチューブをつけて、顔つきが(自宅で会っていたときと)ずいぶん変わっていた。それでも病院でお会いする表情と、自宅での表情は違う。家の、クリーム色のシーツと、桃色の柔らかいかけぶとんに包まれて、おだやかに見えた。
「Yさん」
と声をかけると、まぶたがぴくっと動いた。入れ歯をはずした口はまるく開いて、あたたかな息がもれる。頬は痩せてげっそりとこけてしまったけれど、触れるとあたたかい。手を握るとそっと握り返してくれる。Y氏の顔をみつめ、まるく開いた口の、その奥の暗さを見つめていると、とつぜん、完全に忘れていた伊良部島の穴のことを思い出した。深くて暗い穴と、ほわほわとあらわれる水蒸気。どこへ繋がっているのだろう? と不思議になった気持ち、すべてがなまなましく思い起こされる。Yさんは眠ったまま、口と鼻から息を吸い、暖かな息を吐いている。伊良部島の陸地に空いた穴と、Yさんの口の穴、どちらも暗くて、どちらも底があって、どこかに繋がっているのに「どこへ繋がっているのかわからない」。どうしてそんなふうに思ったのか、よくわからなかった。
しばらくしてY氏はこの世界から去ってしまった。わたしは最後に顔を見に行ったけれど、Y氏の歯のない口はすぼまり、きれいに閉じていた。いつもの上品な、きれいな顔だ。Y氏がいなくなると同時に、Y氏の穴はなくなってしまう。でも、どこかに「繋がる」穴や場所があるのかもしれない。そんなふうに考えた。帰り際に頬に触れると、ひんやりと冷たい。その冷たさは、指先にしばらく残っていた。