見出し画像

言葉のかたち

 去年担当していた男性、T氏は、七十代から耳が聞こえづらくなり、八十七歳の今はほとんど耳が聞こえない。補聴器をつけてもかなり大きな声・音しか認識できないので、話をするときには筆談が多かった。わたしはいらなくなった紙をクリップボードにはさみ、ボールペンを持参してT氏の家に行った。わたしが挨拶・聞きたいこと・伝えたいことを紙に書くと、T氏は紙に書かれた言葉じっと眺めたあと「今日は体調がいいですよ」「血圧も安定しています」と言ったり、「昨日のお弁当にはたけのこが入っていました」と言う。T氏の耳は音をとらえることはできないけれど、言葉はとてもスムーズで、声もあたたかで柔らかだった。返事を聞いたあと、また紙に聞きたいこと・伝えたいことを書く。そしてT氏は言葉をみつめて、返事をしてくれる。
 訪問が終わり、事務所にもどってから「今日はA4の用紙四枚分の会話だったな」と対話に使った紙を数えてファイルに閉じた。「今日は四枚分の会話」「今日は六枚分会話した! たくさん話すことがあったな」「今日は三枚か……ちょっと少ないな」と考えながら、会話が「枚数」になって、目に見える形になることを、おもしろいと思っていた。宙にふわふわ浮いて行き交うだけの言葉を、留めておいて「見える形」にすることもできるし、会話の時間を「量」にすることもできる。「今日は一時間話をしました」という記録とは別に、「A4用紙四枚分の会話でした」と言うこともできる。

 別の時期に担当していた女性、F氏は、八十代から視力が低下して、わたしが訪問していた八十五歳の頃は、ほとんど目が見えなくなっていた。「輪郭はわかる。あなたの形もぼんやりと。明るい、暗いもわかる。でも、部屋の中に何があるか、庭や道に何があるかはわからない。服の柄もわからない」とつぶやきながら、六十年暮らしたという家の中を、ゆっくりと壁を伝いながら歩き、移動する。「住み慣れているから、何がどこにあるかわかるの」と言うけれど、食べ物をこぼしてしまったり、小さなゴミが散らばってしまったりすることもある。わたしはときどき、その人のオレンジ色のじゅうたん(ひまわりの模様がある)に掃除機をかけることがあった。ひまわりの黄色い色は褪せ、コーヒーのしみができていた。
 ある日のこと「とても困っているの」とF氏が言った。いつも使用している時計が故障して、今が何時かわからなくなってしまったのだ。四角い形の時計はてっぺんのボタンを押すと、「いま〇時〇分です」と時間を伝えてくれるしくみになっている。突然止まってしまって、ボタンを押しても何時なのか、いまがいつなのかわからない……どうしよう? わたしが時計を見ると、いつも点滅しているデジタルの文字の表示がない。ひょっとして、と思って電池を取り換えても、やっぱり反応しない。どうやら故障だ……。
「ずいぶん長いこと使っていたから。ないと困るのに。新しいものを買うお金はない。これは高価なものだから……」
 とF氏は言ったけれど、自治体の給付事業で、同じ機能の時計が給付されることがわかった。急いで手配すると、思いがけなく早い時期(確か三日程度)に、時計が職場に届いた。小さな箱に入った、黒いタイプのもので、今まで使っていた時計より使いやすい気がする。電池を入れ、日付と時刻を合わせたあとで、F氏のもとに届けた。F氏は箱から黒い時計を取りだすと、両手で時計の形を確かめたあと、てっぺんのボタンを押した。
「二時十七分です」
 音声が聞こえたときに、F氏は「あっ」と言って、手の中の時計を両手でぎゅっと押さえるようにした。そして、手のひらを時計の形にそって、何度も撫でた。長い間、黙ったままそんなふうに時計を確かめ、ボタンに沿って指をそっと動かしていた。手のひらと、指が動くのをじっと見ながら、わたしは、F氏の気持ちが伝わってくる気がしていた。何も言わなくても、手のひらと指は「ありがとう」という形だった。言葉の「ありがとう」とは別のかたちの「ありがとう」を知ることができた、とても不思議で嬉しい体験だった。