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笑う社会の行方

太田省一『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書、2021年)

【概要】
1980年代初頭、世に漫才ブームが到来する。テレビを通じて社会を席巻したブームがもたらしたもの、それは「笑い」がコミュニケーションツールとなる時代であった。人と人の間に浸透するボケとツッコミ。阿吽もツーカーもボケとツッコミに取って代わられてゆく。それは日本が「笑う社会」に突入したことの表れであった。本書では、「笑う社会」がいかにして生まれ、そして、現在に至るまでどのような変容を遂げてきたのか、タモリ、たけし、さんまという、いわゆる「お笑いビッグ3」を軸にたどってゆく。

◆古き良き1980年代?

 「笑い」が日本社会の中心となったと本書で説かれている1980年代。それは、高度経済成長期が終わり、不景気を経過した後にやってきたバブル経済の浮かれ具合が背景にあったのでしょうか。
 それとも、笑いを通じなければコミュニケーションが取れないほど、人と人の関係が変容していたのでしょうか。私個人を振り返ってみれば、テレビにかじりつき、今の時代であればコンプライアンスのきつい鎖の中で放映不可能な笑いを堪能していたように思います。
 本書でも軽く触れられていましたが、「笑う社会」を作り出したのは、端的にはフジテレビ(的なるもの)ではなかったかと思います。思えば、ビッグ3が世に出た「俺たちひょうきん族」も「笑っていいとも!」もフジテレビが生み出していますし、その後に続くとんねるずやウッチャンナンチャン、ナインティナインもすべてフジテレビの番組が火付け役ではなかったでしょうか。
 1980年代、それは究極的には「フジテレビー的なるもの」の時代と言っていいでしょう。世の中もバブルに突入し、社会全体が「フジテレビ化」していきました。時代と寝たテレビ、それがフジテレビだったのではないでしょうか。フジテレビは「面白くなければテレビじゃない!」を社是(?)とします。面白さ、享楽性、軽薄さ、刹那性をとことん追求した番組づくりでした。そして、それは社会の空気を色濃く反映したものであると同時に、社会の側もまた、フジテレビが生んだ笑う社会の空気を取り入れていったのではなかったでしょうか。お互いがお互いを笑い合う。1980年代の日本社会とフジテレビはそんな蜜月だったと思います。
 
 フジテレビ=関東が生んだ笑う社会に、関西で頭角を現したダウンタウンが介入しにくかったのは必然かもしれません。こんなところにも、日本の「西と東」の差が如実に出ています。日本という国の東西は、実は別の国と言ってもいいくらいの差があることに現代のわれわれは意識的ではありませんが、中世の日本では当たり前の認識でした。1980年代とそれ以降の笑いについてみるとき、西と東の際を強く感じてしまいます。
 
 最近、アマゾンでも『風雲!たけし城』が復活してましたが、あの時代の空気をいま再現したところであまり面白くないんだろうと思います。笑いは時代の中にあってこそ笑える。社会が変質してしまえば、笑いも変質するのは当然のことです。

 タモリ、たけし、さんまがどのような来歴をたどり、80年代という時代の中で一種の現象になっていったのか、本書ではそれぞれの軌跡がしっかりと描かれています。

 ビッグ3として括られる3人ですが、お笑いの原点やスタンスの差異と共通点が比較しながら描かれており、すっきりまとまっていました。この原点における差異が現代に至ると大きな振れ幅となります。ビッグ3の現在が全く異なるポジションにあることがよく分かりました。

◇変化の90年代

 90年代はいわゆる第3世代のお笑いの時代となります。なかで、本書ではダウンタウンに比重を裂いています(もちろん、とんねるずやウンナンにも目配りはされていますが、ダウンタウンとの比較において語られています。)ダウンタウンの登場と、なかんずく松本人志によるお笑いの変容。それは、笑う社会の、いや、日本社会の変質を背景としていました。
 
 笑う社会が転回したのは、『ごっつええ感じ』の登場でした。ここを舞台に繰り出される松本と浜田の笑い、特に前者による笑いは、一般受けするものでは決してありません。しかし、ここに「松本の笑いがわかる人/わからない人」という線引きが行われ、大衆の側に笑いを読み解く力、いわば「笑いのリテラシー」が求められるようになっていきます。
 
 松本の笑いはやがて「一人ごっつ」という形でさらに先鋭化していきます。そして、90年代の末期にいたり、ごっつええ感じが終了しました。これは一つの時代の終わりでした。
 
 視聴者=大衆がお笑いをいわば読み解く形で参加することに喜びを覚えていた時代、それが90年代でした。しかし、当初は前衛だったダウンタウン、特に松本人志はやがてスタンダードとなっていきます。笑いの求道者であるかれは、「おもろい」/「すべる」の判定者(大澤真幸風に言えば、笑いの第三の審級とでもいったところでしょうか)になってしまったことで、皮肉にも終焉を迎え、新しいミレニアムに突入していくこととなります。

◆2000年代、新たなステージへ

 ゼロ年代における笑いの画期となったのは、今にも続くM1グランプリの登場でした。

 島田紳助・松本人志による新たな漫才のあり方の模索。それがM1グランプリの発端でした。吉本による笑い主導権の奪還プロジェクトという一面もあるかもしれません。
 厳しい審査にさらされるM1は「笑いの実験場」としての機能を果たします。ボケ/ツッコミの型が様々に変容していきます。
 
 この時、ビッグ3はそれぞれ確固たる立ち位置を気付いていました。たけしはお笑いから少し距離を取り映画の道へ、タモリはマニアック・知性派の道へ、そして、さんまは素人いじりやトークの笑いの道をそれぞれ進んでいます。かろうじてさんまが笑いへのコミットを続けていました。
 象徴的だったのは2018年の「好きなお笑い芸人ランキング」の順位変動だと作者は冒頭で述べています。
 これまでずっと一位だったさんまが陥落し、代わってサンドウィッチマンが首位に立ったのです。

 それは、笑う社会が違うステージに入ったことを物語っています。
 ボケ/ツッコミの変容は、社会の変容の裏返しであると作者は見ていました。M1の中で試みられた多様な笑いの実験、その果てに現在受け容れられているスタイルが「否定しないツッコミ」であると作者は喝破します。サンドウィッチマンの笑いもまた、その優しい笑い、否定しないツッコミなのです。

◇ お笑い第7世代とこれから

 コミュニケーション論でもよく言われる、いったんの肯定。
 聞き上手が話し上手。
 こんな言説をよくビジネス誌とか、モテるコツみたいなweb記事で目にします。実は、お笑いにも同じことが起こっていて、現代社会に渦巻く承認欲求が笑う社会そのものを変質させたのかと考えました。
 本書には明記されていませんが、作者はそのようなストーリーを念頭において、ゼロ年代以降の笑いの変質を描いているように思えます。

 確かに、ひょうきん族からダウンタウンに至る笑いの流れというのは、わかる人に分かればいい、わからん奴は笑わなくて結構、というスタンスがあったと思います。社会もそれを受け容れ、愉しんでいました。

 しかし、ゼロ年代以降、明らかにそのスタイルは変容したようです。
 原因はいろいろ騙れるかもしれません。家族や会社といった所属共同体の解体と、それに起因する個人の孤立化の進展……
 もっともらしくは言えますが、それを裏付けられるだけの証拠を私は持っていません。
 ただ一つ言えるのは、自分のことを拒否されたくないという人が増えたということなのでしょうか。聞いてほしい、認めてほしい、かまってほしい。
笑われたたくないが笑わせてほしい、否定しないでほしい。
 今の日本に渦巻く、この身勝手ともいえる「ほしい」が、笑いを、いや、笑う社会そのものを変質させていったのでしょう。
 
 子どもの駄々にも思える、幼稚な「ほしい」が寄り集まって、今の笑いがあるのかもしれません。すこし、暗澹たる気持ちで本書を閉じました。



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