業を飲みこんだ人

古川緑波『ロッパの悲食記』(ちくま文庫、1995年。)

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令和の現在、古川ロッパ(※筆名は「緑波」を使ったそうです)の名を聞いて、ああ、と思う人がどれほどいるでしょうか。

私も、なんとなく、エンタツ、アチャコ、エノケン、ロッパという固有名詞の並びで記憶しているだけであり、昔々のコメディアン、という知識しかありませんでした。この本を読むまで、ロッパが大変な美食家であることも知りませんでした。(うーん、これは小林信彦の『日本の喜劇人』を読んでみたくなったぞ…)

さて、本書は昭和の前半を代表するコメディアンの筆者が、食へのこだわりを切々と描いた日記抄とエッセイからなっています。

正直なところ、エッセイの部分はそれほど面白くはありません。著名人にありがちな食エッセイに過ぎず、取り立てて心惹かれるところはありませんでした。天丼はゴマ油でこってり揚げた下司な味がいいとか、富士屋ホテルのランチメニューを片端から食べてみたとか、そういうたぐいの語りです。まぁ、ちょっと下品な嵐山光三郎といった趣でしょうか。

本書の目玉は何といっても、戦中の日記抄です。これは読ませる。筆者は美食家であると同時に、大変な日記魔でした。日記の中でも特に、昭和19年という戦局が悪化の一途をたどった時期の食にまつわる記事を抜きだして編集したものです。本書に収めるにあたり、筆者がコメントを追記したところもあります。

印象に残った記事をいくつか引用してみます。

北野劇場での公演のため、大阪に出向いた二月一日(火)の記事はこんな感じ。

 宿の朝食。飯にキビが入ってて、食えない。まだ東京から持参の握り飯の残り三つばかりあったので、それを茶碗に入れて、生卵をかけて食ったら、冷たいの何のって。食後、女中おはなさん、自分の配給の牛乳を沸かして呉れる。有りがたい。北野劇場初日。新大阪ホテルのK君に頼み、食事を届けさせたが、魚のフライ一皿のみ。それで、楽屋の丼めしを食う。これじゃ、声が出ないよ。(p.17)

最後の「声が出ないよ」に筆者の悲痛な叫びが聞こえます。しかし、結構食べている。筆者は「冷たいめし」が相当イヤなようで、飯が冷たいことについての愚痴がこの後もよく出てきます。

この年の七月、とうとうサイパン島が陥落し、東条内閣が総辞職します。戦局はますます悪化し、筆者のいる東京も空襲の恐怖にさらされます。八月十一日の記事にはこんな風に書いてありました。

今日初日千日前常盤座出演。それが、昨夜半、空襲警報発令、大騒ぎだったから、初日が延びるのではないかと、思っていたら、午前三時五十分、警戒警報も解除となったので、予定通り初日が開いた。三回公演、満員なり。(p.58)

この二日後、筆者は四十二歳の誕生日を迎えており、この切迫した状況下で、相当なごちそうを食べたようです。

わが第四十二回の誕生日。ひたすら働いて過ごせり。常盤座三日目。本日四回なり。吉本林氏約束通り、楽屋へ、毎日弁当のうまいのを届けて呉れ、嬉しい。夜は林氏の招待で、上方へ。沖すき、石焼き、その他豪華版。(p.58)

沖すきってなんでしょうね…。魚のすき焼きでしょうか。うまい弁当の中身は何だったのか、その他豪華版にはどんなメニューがあったのか。なんとも気になります。

こんな具合で淡々と日常が記されていきますが、全体を眺め渡すと、著名人であったせいもあり、時局を考えるとかなり恵まれた食生活を送っています。それでも、大食漢であった筆者には不十分だったようです。

日記からは、戦争が日常を少しずつ、しかし、着実に侵していく様子がうかがえます。気づいたときには、死が隣にいる。恐ろしいことです。

それにしても、筆者はこの時代によくまぁ、洋食ばかり食べていたなとつくづく思いました。飲む酒もウィスキーばかりですし。脂っこいものと甘いものが大好きだったようで、そりゃ、糖尿病にもなるわ。肝臓は大丈夫だったんでしょうか。昭和の前半期に糖尿病なんて、貴族か王様の病だったのでは?

私もすっかりメタボになってしまい、保健指導を受ける身なので、本当に他人事とは思えません…。しかし、メタボで指導を受けるというのも、日本が平和であればこそですね。

食へのこだわりとはまさに人の業です。しかし、立川談志風に言えば、人の業を肯定するのが笑いなのでしょう。日記からは、うまいものも、まずいものも、すべて業として飲みこんだ筆者の姿が浮かんできました。


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