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親の介護と実家の話+自分のこと(10)

投稿が少し間が空いてしまいました。1つ前の記事の続きはまた後日書きますので今回は母のことを書きます。

以前の私の部屋に置いてあった置物

娘としては母親については語り尽くせない程の想いがありますので何回かに分けて書くことになると思います。(6)でも書きましたが祖母は母を連れての再婚でした。だからなのか母は一旦中学を卒業してすぐ働いていましたが18歳の時に上京し夜間学校で高校・短大を卒業した人でした。

そして年齢を計算すると学校を出てからすぐ父と結婚したのだと思います。なんでこんな甲斐性のない父と結婚したんだろうと思っていましたが若い時の父は、なかなかイケメンだったので、私のイケメン&ダメンズ好きは母譲りなのかなと思います。

とても勤勉で世話好き・キレイ好きの母でしたが、許せないことがあるとすぐ仕事を辞めてしまうようで働いた会社は10社以上でした。それも私はとても似ていると思います。また勉強好きでいろいろな資格も持っていました。と言っても国家資格とかではなく民間資格ばかりでしたが・・・。

1人っ子の私は母に甘えて育ったと思います。私が1人暮らしをしても、結局週末行き来するような感じで意味がないので1年半くらいで実家に帰ってしまいました。私が子供を産んでからも、しばらくはだいぶ世話になりました。しかし母が身体の不調を訴えるようになり、1年以上不調の原因がわからず悩んでいましたがパーキンソン病と判断されてからは、私は母を頼れなくなりました。パーキンソン病も初期の頃は薬による調整であまり健常者と変わらない生活ができていたのですが、やはり進行するといろいろな面で不都合が出てきます。薬が切れると動けなくなったり、幻覚が見えたり、うつ病のような症状が出てくるようになります。

2023年の1月中旬から父が入院してから1人で暮らすようになって少し経ってからはうつ病の症状がひどくなっていきました。1人での暮らしと住んでいる家の借地権更新の期限が迫っていることが母の不安を増長させたのだと思います。真夜中に不安になり、苦しくなるかどこかが痛くなるのか、頻繁に人を呼び訪問看護の人も対応してくれなくなりました。ついには毎晩のように救急車を呼ぶようになってしまいました。むやみに救急車を呼びものじゃないと言っても、我慢できず呼んでしまうようでした。私ももっと対応してあげれば良かったのかもしれませんが、苦しい・痛いと言われても看護・医療も何にもなす術がなく、その状態が収まるのを待つしかありませんでした。それに対しても母のイライラが募っていったようでした。

その状態の時には敏腕ケアマネさんに変更していて、私もちょうど介護休業を取得していた時でした。そんな時、ケアマネさんから施設紹介コンサルタントという人を紹介してもらい施設入所を検討し始めました。また施設を考えるきっかけの1つに母は今年に入ってから大きな収入を得ることができたこともあります。その話は合法ではありますが、あまり公にしていいことなのか躊躇する部分もあるので、また別に機会にお話しますが、施設に入所しても数年は困らない金額を手にしたことが、母も施設入所の思いを強くさせたのでした。

そもそも施設紹介業というの仕事が世の中あることに私も少しびっくりしました。コンサルさんの話だと有料施設自身が自分で入居者を探すことができないので、特養待ちの人なども含めて高齢者施設入所希望の人の金額やサービスなどの条件を聞き施設を紹介する。いわば入居希望者と施設のマッチングサービスです。しかも入居者から一切支払いはなく施設から紹介料をもらうようです。公共機関では対応できない隙間の仕事なんだろうなと感じますが、必要な人にとってはとてもありがたいサービスだと思います。

さて長くなりましたので、今日はこの辺で。


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