【戦国イクメン】幼い息子たちの将来を心配する毛利元就
僕が死んだら、子供たちはどうなるんだろうと、ふと想像して心配になる事があります。
そういう思いは、あの過酷な戦国時代の父親たちにもあったようで、今回は毛利元就のオハナシです。
毛利元就は、いち地方豪族から、たった一代で、現在の中国地方の大半を支配下に置いた戦国大名です。
自分の息子たちを周辺の有力な豪族の養子に出して、毛利家に取り込みながら勢力を拡大していき、陶晴賢を劣勢の中、厳島の戦いで破り、中国地方での覇権を手中にします。
そんな策謀、戦さに長けた毛利元就も、戦国時代にありがちな兄弟との家督争いで、弟の相合元綱を誅殺したと言われています。
父親も早くに亡くしており、それ以外の兄弟も若くして亡くなるなど、親兄弟には恵まれなかったようです。
そんな元就ですが、自身は男子9人、女子2人と子宝に恵まれました。
ただ、それは逆に、家督争いや派閥争いなどの火種ともなります。
家督継承者の多くは、ライバルとなりそうな自身の兄弟を誅殺する事がよくあります。
もしかすると、元就の脳裏に、自身が弟と骨肉の争いをした過去が浮かんだのかもしれません。
長男の隆元、次男の元春、三男の隆景に宛てて「三子教訓状」という手紙を書いて、毛利家の今後や兄弟の有り方について長々と諭します。
三子教訓状でひたすら兄弟関係を諭す
元就の三本の矢の逸話で有名な隆元、元春、隆景は同じ母親ですが、その他に側室を母とする歳の離れた男子が6人もおります。
長男の隆景と四男の元清では28才も歳が離れています。
なので、元就が亡くなれば、生殺与奪の権は、毛利家の次期当主である隆元たちが握る事になります。
歳を取ってから生まれた子供は可愛いと聞きますので、元就も幼い下の子どもたちの将来を心配していたと思います。
そこで、隆元、元春、隆景に「三子教訓状」を与えて、その辺りの心構えについて、できる限り息子たちの気分を害さないように諭します。
「三子教訓状」第九条
今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。
4男元清、5男元秋、6男元倶を虫けらのような子どもという表現を使って、上の兄弟たちのプライドを傷つけないようにしながら、その将来に少しでも憐みを掛けてやって欲しいという事を日本的に遠回しに伝えています。
直接的に意訳すると「隆元たちの方が立場が上なので、父の願いとして、下の弟たちを見守ってやって欲しい」という内容だと思います。
戦国時代の中国地方の覇者である元就も、人の親であるというのがよく分かる手紙です。
まとめ
元就は、下の弟たちの事だけではなく、妹たちの将来も心配をしており、面倒をみてやるようにと、この手紙に書いています。
女子の権利がとても弱い時代にも関わらず、遺産の相続なども毛利家中では認められていたそうです。
また、隆元が早くに亡くなり、孫の輝元が家督を継いだ後、元就は隠居しようとしますが、輝元から「私を見捨てるのですか?」という手紙を貰って、隠居を取り消して、輝元のサポートを続けたりと、イクジイな面を見せています。
ただ、元就のイクメン・イクジイな行為は、毛利家を残すためにしていた当然の行為だと言ってしまうと元も子もないので、戦国時代でも、現代と同じような親心があったとしておきたいと思います。
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