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関ヶ原編【小早川家臣】アルコール依存症の秀秋を支えた家臣たち

天下分け目の戦いの中での部下たちの決断

小早川秀秋というと、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍から東軍に寝返り、徳川家康による権力掌握を決定づけた張本人として有名だと思います。

関ヶ原の戦いでの貢献度から、備前51万石の大領を得たものの、1602年に21歳で急死してしまい、無嗣断絶となり、小早川家は取り潰しとなりました。

アルコールによる内臓疾患、肝硬変が原因だと言われていますが、死因ははっきりとしていません。

ただ、アルコール依存症になったのも、豊臣家の後継者候補であった事で、幼少のころから酒を伴う接待を受けていたのが原因でした。

また、秀秋は、豊臣政権の都合で、短い期間に転封や減封を繰り返しており、家臣を雇ったり、召し放ちも繰り返しています。

この不安定な秀秋及び小早川家を支えた重臣たちがいます。

現代で言えば、企業における取締役や部長にあたる存在です。

武将名   役職   概要
松野重元  鉄砲頭  後に徳川忠長に仕える
稲葉正成  家老   妻の福が後の春日局
平岡頼勝  家老   黒田家と縁戚関係にある

今回は、社長秀秋の行動に対する部下たちのそれぞれの判断や動向を紹介したいと思います。


信念を持って寝返りに反抗した松野重元

松野重元は、信頼に足る人物として、秀吉の評価も高く、豊臣姓も授かっており、秀秋の重臣として附けられました。

当初、西軍として行動する秀秋を支えて、関ヶ原の戦いの初戦の伏見城攻略戦でも活躍を見せていました。

しかし、突如、秀秋が東軍へ寝返り、友軍の大谷家へ攻撃を始めると、その行動に反発し戦線を離脱して、そのまま小早川家から出奔します。

豊臣家への義理をはたさない秀秋の姿勢へ、退社するという行動で諫めようとしたのかもしれません。

寝返りという行為は、小早川家及び秀秋のブランド力を低下させてしまいました。

世間での評判が悪化するのと反比例するように、重元は忠義者だと評価が高まる皮肉な結果となりました。

重元は、その後、田中吉政に1万石クラスの家老として招聘されました。

これは部下として、私利私欲なく、経営者が進むべき道を、信念を持って示そうとした行動を、田中家に評価されたようです。

ただ不運なことに、その田中家が無嗣断絶となりますが、その後、三代将軍の徳川家光の実弟である忠長に仕えることになりました。

将軍一門の家臣として招聘されるということは、業界内では高い評価を受けていた証明だと思います。


寝返り策を支持した稲葉正成

稲葉正成は、美濃の稲葉家の一門で、義父とともに秀吉に仕え、秀秋の家老として附けられました。

妻の福は、後年、家光の乳母として強力な発言権を持った春日局です。

正成は、同僚の平岡頼勝による東軍への寝返り戦略を支持し、関ヶ原の戦いで東軍を勝利に導きました。

しかし、51万石への大幅な加増にともない新規に召し抱えられた家臣たちとも対立が生まれ、小早川家から離れ、故郷の美濃に蟄居します。

現代でも起こりうる急激な事業拡大にともなう古参社員と中途社員間のトラブルの見本のようです。

または、行状の良くない秀秋を諫めた事で、蟄居を命じられたのが主な原因だとも言われています。

御家安泰のために寝返りを支持したものの、思い描いたような組織形態にならなかったのかもしれません。

秀秋の死後に小早川家は改易となり、正成は浪人となります。

後に、妻が徳川家光の乳母となった事をきっかけに、1607年に徳川家に召し抱えられ、大名にまで登りつめました。

その後も、改易されたりと、色々ありますが、稲葉家は、幕末まで大名として存続しました。

御家のため寝返りを先導した平岡頼勝

平岡頼勝は、秀吉の指示により、稲葉正成と共に、秀秋の家老として附けられました。

妻の従兄弟が黒田長政であったことで、古くから黒田家とのつながりがあり、関ヶ原の戦いでも長政-頼勝のラインを通じて、東軍への寝返りを先導しました。

秀秋が生き残っていくには、徳川家の権力掌握に力を貸して、恩を売っておくのが得策だと考えたようです。

家督承継の時に、他の後継者候補が粛正されるのは、古今東西の常識のようなものでしたので、それを防ぐための寝返り策だったのかもしれません。

頼勝は、戦後も2万石の家老として、秀秋を支え続けました。

寝返りの同志の正成が蟄居させられたり、出奔する家臣が増える中も、秀秋が亡くなるまで家臣として仕えました。

秀秋の死により小早川家が改易されると、2年ほど浪人し、徳川家の直臣として召し抱えられて、1万石の大名として返り咲きます。

寝返りという行為に賛否はありますが、2倍近い業績(石高)アップを達成した点は、経営陣の判断として評価されてもよいかと思います。

また、最後まで支え続けた点も、責任を全うした良い家臣であったと評価してもよいでしょう。

ただ、世間での秀秋の評価は下がり、現代でも裏切り者のレッテルを貼られています。

ブランディングという視点では、大きな失敗となりました。


まとめ

アルコール依存症の秀秋を、家臣たちは、それぞれの考えの元で支えていました。

豊臣家への忠義の重要性を示すために戦線を離脱した松野重元、小早川家の発展のために積極的に寝返り工作をした平岡頼勝、それを支持して行動した稲葉正成と、支え方も三者三様で、その後の生き様も三者三様でした。

他家で家老となった重元、家康によって大名として取り立てられた頼勝、そして妻の力で大名になれた正成と、それぞれの評価の元で出世をしております。

支え方は違っても、そこに信念がある事が重要だと思います。

また、それを他の人たちも、しっかりと見ているという事がこの事例からも分かります。

しかし、時を経て、徳川家でも、稲葉正成の妻が家光の乳母となり、松野重元が忠長に仕えるという運命の糸があり、これこそ歴史の妙とも言えそうです。


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