【黒田官兵衛の野望】秀吉死後の生存戦略の成功と失敗
豊臣政権という市場での優位性確保を目指す黒田官兵衛
豊臣政権の樹立における初期段階において、諸大名との取次を行う秀吉の側近集団がいました。
豊臣秀長や千利休、杉原家次、蜂須賀正勝、浅野長政たちの中に、黒田孝高こと官兵衛も属して、豊臣家の譜代大名として政権運営を援けていました。
官兵衛は、毛利家との外交交渉に、蜂須賀正勝とともにあたったことで、その後、毛利家中の小早川隆景や吉川広家とのネットワークが生まれました。
このネットワークは、天下分け目の関ヶ原でも活かされる事になります。
九州征伐では、平定後に、商業都市である博多の復興を監督するなど、全国統一の初期段階において、かなり重要な仕事を任されていました。
秀吉から側近として重用されていた官兵衛は、なぜ秀吉の死後に、徳川家康に近づいて、豊臣政権の崩壊を招いたのでしょうか。
今回は、関ヶ原のころの、官兵衛の行動について、考えてみたいと思います。
創業メンバーの退場と官兵衛の生存戦略
秀吉による天下統一を支えてきた側近たちにも、統一事業が進むにつれて大きな変化が起こります。
親戚筋の宿老でもあった杉原家次が亡くなった後、後を追うように血縁者を含めた創業時のメンバーが亡くなっていきます。
1584年 杉原家次
1586年 蜂須賀正勝
1591年 豊臣秀長
1591年 千利休
1595年 前野長康
特に、実弟の秀長がなくなったあとからは、粛正のような形での退場が増えていきます。
1595年の豊臣秀次の事件では、最古参の前野長康も切腹させられるなど、古参の譜代メンバーであっても容赦をしないことを見せつけられました。
この時、浅野家も長男の幸長が連座してしまい、処分を受けています。
そして、秀吉の死の直前のころには、豊臣政権の中枢も、石田三成や増田長盛など若手の奉行衆が存在感を増し、外様大名との取次を行うなど世代交代が進んでいました。
官兵衛も、文禄の役において、秀吉の怒りを買うなど、政権中央との距離が、さらに広がりました。
どの時代においても、建国の創業メンバーは、創業家の権力強化や派閥争いなどによって、粛正の対象になりがちです。
官兵衛の黒田家も、秀吉の死後に、そのターゲットに含まれていく可能性は高そうです。
のちの徳川幕府においても、家康の死後に、側近だった本多正純が粛正されているので、こういった事は珍しい話ではありません。
秀吉死後の黒田家の生存戦略としては、現状の豊臣政権の構造を変革させる必要があったように思います。
官兵衛は、豊臣政権という市場において、徳川家とアライアンスを組んで、奉行衆を排除し、再び市場での優位性を確保しようと考えたのかもしれません。
成功しすぎた調略による失敗
官兵衛は、息子の長政を通じて、豊臣譜代大名を徳川方へ引き入れていき、さらに吉川広家を通じて、石田方の毛利家の戦力低下を図りました。
多数派工作を仕掛けた結果、創業時からの豊臣恩顧の大名の多くが、徳川方へと参加するという不思議な状況が生まれました。
石田三成を支持するのは、奉行衆など小身大名と、有力外様大名たちで、黒田家を筆頭に、浅野家、蜂須賀家、細川家など、かつて取次役を担って、政権の中枢にいた家のほとんどが、家康を支持するという歪な構図になりました。
この多数派工作が成功しすぎた結果、関ヶ原での戦闘が一日で終わってしまいました。
官兵衛の戦略では、1ヵ月ほど戦が長引く間に、九州および中国地方を平定し戦果を挙げて、100万石近い加増を受けて、豊臣政権における徳川家のように、政権内で重きをなす地位を手に入れるイメージだったのかもしれません。
官兵衛は、家康を中心に、黒田家や浅野家などの豊臣政権の古参メンバーが、大老のように参画する新しい豊臣政権の枠組みを考えていたのではないでしょうか。
しかし、関ヶ原での膠着状態を狙っていたものの、毛利家が動かなかった事、小早川秀秋が裏切った事で、想定が崩れたしまったようです。
豊臣政権内部では、家康の一人勝ちのような状況となり、権力を徳川家に独占される事になりました。
豊臣政権から徳川政権という市場に代わり、アライアンスを結ぶ関係から、パワーバランスが大きく崩れ、関連会社化される流れが出来ました。
市場・環境の変化と戦略の転換
豊臣家から徳川家へと権力が移行されていく事で、官兵衛も戦略の転換が必要になりました。
関ヶ原の戦いで苦戦する徳川家を救う形で、足利尊氏のように九州から攻め上って、大阪城を開城させる事で、大きな功績を作り、豊臣政権で重きをなす戦略から、徳川家が支配していく新しい市場の中での生存戦略を考えねばならない状況になりました。
官兵衛は、それまでの戦略を捨てて、政治には一切関わらない姿勢を保ち、徳川家にとって害意のない存在になる戦略へと転換しました。
豊臣政権の古参の譜代大名から、中央政治から遠く離れた、一介の外様大名になりました。
黒田家は、17万石から52万石という大領を得て、官兵衛個人にも加増の話がありましたが、その褒賞を断って、中央との関わりを断って完全な隠居生活を送ります。
政権中枢への復帰の戦略を捨てて、徳川政権にとって害意のない存在である事を示し、新しい市場での黒田家の生き残り戦略へと専念していきます。
まとめ
関ヶ原の戦いでの官兵衛の戦略が、豊臣政権の中枢への復帰のためだったとすると、結果的には失敗でした。
黒田家は、大藩の外様大名として、中央政治と関わらぬまま260年を過ごして、福岡にて幕末を迎えます。
しかし、黒田家が明治維新まで生き残れたのは、幕府内の政争に巻き込まれて改易や転封をされなかったおかげとも言えます。
そう考えると、豊臣政権への復帰戦略は失敗しましたが、新しい徳川政権下での生存戦略としては、官兵衛は黒田藩の基礎作りに成功しました。
結果として、不確実性が高い環境の中で、見事なまでの戦略転換とも言えます。
現代も、戦国時代と同様に、変化のスピードが速く不確実性の高い環境だと考えると、官兵衛のような躊躇や迷いのない戦略の転換は見習う余地があると思います。
ただ、官兵衛が一切政治から手を引くスタンスを取った事で、立花宗茂や毛利勝信、吉川広家など官兵衛を頼りとする者たちが、苦境に立たされる事になりました。
そして、自身の生存戦略によって、結果として大恩ある豊臣家の没落を招いた事については、評価を下げる要因になりかねないと思います。
ちなみに、創業時の側近メンバーの浅野家、蜂須賀家、黒田家の後継者たちは、親のように政権の中枢には入れず、現場での軍の司令官という立場となっています。それが反石田三成の派閥となっている点は、とても興味深いです。
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