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ブラック企業で疲弊して、自死を選ぶ歌詞の「夜に駆ける」(YOASOBI)が社会現象になった意味を考えてみた

〈ありきたりな喜び〉=“普通の幸せ”を手に入れるのが難しい。そんな社会になってしまった現代の日本。そして、騒がしい日々に疲れて、笑えなくなった人々が、沈むように、溶けていくように、夜に駆け出していくーー。

苦しい状況に対して声を上げることもできず、受け入れてしまっている人が多いのではないか。

音楽ユニット・YOASOBIの楽曲『夜に駆ける』を、約半年前から聞き始め、日々リピートして聞き続け、そのたびにいろんな考えを巡らせてきた。そして、紅白歌合戦への出場が決まったタイミングで、この楽曲が“社会現象“といってもよいと思えるほどの大きな反響となった意味をまとめ始めた結果、冒頭の考えに至ったのだった。

YouTubeで1億回再生を突破し、近所の子どもたちが口ずさみ、僕の実家の母親までもが知っている。この拡散ぶりは、かつてのようにヒットチャートを経由してお茶の間にも届いたというより、インターネットを介したバイラルが世間の隅々まで行き渡ったという、非常に新鮮な出来事のように思える。

この楽曲は「タナトスの誘惑」という小説を題材に制作されている。主人公である「僕」が自殺しようとする「君」を救おうとしていたら、いつしか自分が自死に向かってしまう。

「君」という存在が、自身にとっての死神だったという構造の歌詞になっているのだが、自殺願望を持ち、飛び降り自殺未遂を繰り返す女の子を止めようとしていたら、ブラック企業での心無い言葉に触れる生活に疲れて、笑えなくなってしまい、ついには「夜空(=死)」に向かって駆け出した……という物語だ。

ダークなテーマでありながら、アップテンポで、ボカロ特有の言葉数が極めて多い、疾走感の強い楽曲に仕上がっている。後半で歌詞が反転、2サビでは非常に珍しい半音下に転調、さらにラストでは元のキーから1音上げる転調というトリッキーな工夫がふんだんに用いられている。

音楽好きもうならせるウェルメイドな曲になっており、すばらしいボーカリストの存在、一見すると共依存する男女関係にミスリードされた仕掛けもあいまって、本来のダークなテーマが分厚いオブラートに包まれているのだが、本質的には、かなり現代的な、極めて社会的病をテーマを扱っている楽曲なのだ。

(このテンポを落としたバージョンも聞くと、ボーカルのうまさが際立つ)

この楽曲を繰り返し聞きながら、これだけ暗いテーマの曲がこれだけ多くの人に聞かれていることの意味を考えて、ふと背筋が凍るような思いをした瞬間があった。

作者は「原作小説の滲み出るような厭世観、そこから生まれるドラマを僕なりにポップな音に落とし込」んだというが(「小説を音楽にする新生ユニットYOASOBI、第1章シングル「夜に駆ける」待望のDL配信スタート」BARKS、2019年12月15日)、若年層の支持が大きい反面、全方面には広がりきらなかったカゲロウプロジェクトなどに比べて(WEB発作品の“信頼度”がいまほど高くなかった時期的な理由もあるだろうが)、明らかに大きな広がりを見せている。

少し強引な接続かもしれないが、この思春期特有の厭世観が若者に受けている側面にとどまらず、この曲は、多くの人にある種の共感をもって受け入れられているのではないかと思ったのだ。

国民の平均年収は下がり、税及び社会保険の負担は増加。非正規雇用は増え、格差は広がり続け、自殺者も増加。コロナウイルスによる死者よりも、自殺者数が多い。明らかに異常な事態だ。

10年前、20年前にJ-POPの文脈でこの歌詞が紡がれたとしたら、それはフィクションたりえたのかもしれないが、2020年現在、この作品は現実をそのままトレースしたかたちになってしまっている。

そんな状況で、流行っているからと興味を持ち、この曲を聞いてみたところで、

〈いつだってチックタックと鳴る世界で何度だってさ 触れる心無い言葉うるさい声に涙がこぼれそうでも〉

〈もう嫌だって 疲れたんだってなんて 本当は僕も言いたいんだ〉

〈騒がしい日々に笑えなくなっていた〉

このあたりの「僕」がブラック企業で働き、自身の輪郭がすり減っていき、なにも考えたくなくなっていく描写の歌詞で、つい自分を重ねてしまった人も多いのではないだろうか。

『梨泰院クラス』『ザ・ボーイズ』のように持たざる者が巨悪に向かって立ち上がる物語が生まれ支持を得るのではない。

消極的に、自死を選んでしまう作品が、これだけの大ヒットになっていることに、なんというか、日本らしい現象だな…と感じてしまった。

おかしいことには、おかしいと声を上げる。これができる人の数が非常に少ない国だと感じている。そして、とても不思議なのが、声を上げた弱者の側が、なぜか“不遜”というか、良くないことだとみなされ、批判を浴びてしまうことすら、少なくない。

たとえば労働争議を頑張っている人々に対しては「嫌ならやめればいいだろう」、給与の未払いや給与アップに関する訴えについては「自分の市場の価値が低いだけだろう」と冷笑し、性的暴行の被害を訴える女性に対して、まったく関係ない人々がセカンドレイプに明け暮れる。なぜなのか。

本来、批判する理由を持つのは、搾取ーー労働者が文化的な生活をするために必要な賃金を得ることをよしとせず、彼らの賃金を減らして、懐に入れるーーことをのぞむ悪徳経営者や加害者だけのはず。

ほぼ同じ状況にいる弱者のはずの人々が、なぜだか本当に意味がわからないけど、連帯せずに、攻撃する側に回ってしまう。労働者としての自分の首をもしめることになっている。

次の被害者を産まないために、次世代の労働者が少しでも待遇がよくなるために、人類の文化をすすめるために踏ん張ってくれていることに、感謝こそすれ、誹謗中傷を受ける理由は、1ミクロンもないはず。

こんなことを考えているときに、以前ラジオで聞いた、イギリスの高校生たちが、社会に立ち向かったエピソードを思い出した。

たとえばコロナ禍のイギリスでは、大学入試の統一試験が開催できなかった。11月6日放送の『アシタノカレッジ』(TBSラジオ)でのライターのブレイディみかこ氏によれば、先生が「この生徒ならこのくらいの点数をとっただろう」とつけた、みなし評点を、学校ごとの過去3年間の実績を加味した独自の算出方法が採用されたという。

しかしこの算出方法により、公立高校の生徒はもともとのみなし評点より下がり、いわゆる私立の名門校の生徒たちは下駄を履いた点数が算出された。

どんな学校にも優秀な生徒はいるにもかかわらず、学校の平均に足を引っ張られ、格差が広がってしまう。貧しい地域の生徒が階層を移動することなく、格差が固定されてしまう。そんな状況に対して、当の高校生たちが怒り、声を上げたというのだ。

デモを開催し、ラジオ番組などにも電話して、「格差が固定されることで、労働者階級の活躍の幅が狭まってしまう。こんな世の中をつくってしまって、イギリスからビートルズのような存在が生まれると思いますか?」などと訴える人もいたとか。

親たちも、周囲の人々も、彼ら、彼女らの活動を応援する。日本だったら、「デモなんて行ったら目をつけられるよ(誰に?)」「そんなことする時間があるなら、勉強するか就職活動をしなさい」などと言われ、なんなら「うるさい」と迷惑がられ、周囲からも冷笑されるのが関の山。というか、自分の学生時代の実体験だけど。

ラジオを聞きながら、なんというか、なぜこういうことができないのかなと眩しくて直視できないように感じてしまった。

そんな社会で一風変わった楽曲が人気を博した際に、強い興味を持って、状況を注視した時期がある。

今年10月に改名してその歴史に幕を閉じたアイドルグループの欅坂46も、世間の多くの人にリーチした曲を持つ。

〈君は君らしく行きていく自由があるんだ 大人たちに支配されるな〉

〈不協和音を僕は恐れたりしない〉
〈一度妥協したら死んだも同然 支配したいなら僕を倒してから行けよ〉

勇ましい歌詞の楽曲も多く、ライブ会場では腕を振り上げて歌う若者たちがとても多かった。こういう楽曲を好んで聞く人たちが、どのような動きをするのか、非常に興味を持っていたのだけれど、メッセージに共感しているようにも見える人たちの、投票を含めた社会的活動にはつながらなかったように感じた。

この理由をどう見るか、2017年末の週刊SPA!のインタビューで、衆院議員の枝野幸男氏に尋ねたことがある。

「彼らから見ると、私達も含めて“戦うべき大人”なんです。(中略)地道に信用を広げていくしかない」との言葉を返され、選択肢を提示できていない現状を自戒しているように感じた。

しかし、若者に限らず、選択肢をただ待つのは、あまりにも消極的だ。

そして、勇ましい言葉を歌いながらも、消極的であり続けた先に、生活に疲弊して自死を選ぶ楽曲が、大ヒットをしている。

自分でもかなり強引だとは思うが、非常に後ろ向きな大きな流れを見出してしまい、やるせない気持ちになったのだった…のだけれど、世代的・社会的な搾取によって、日々の生活で精一杯の人たちに、政治に注視して、行動を起こせというのは、酷なのかもしれない。

では、この流れの先で、どう振る舞うべきなのか。

そのヒントは、韓国で起こっている“フェミニズム文学”の隆盛にあると考えている。

韓国も日本と同様に男性優位社会だが、映画化作品も大ヒットした「82年生まれ、キム・ジヨン」を起点とした、社会通念と戦う女性たちの物語が続々と生み出され、“社会現象”となっているのだ(その一方、我が国で売れているのは最も近しい人を人間扱いしない「妻のトリセツ」……)。

「82年生まれ、キム・ジヨン」は、ごく平凡な、とはいいつつ、どちらかといえば恵まれている社会階層に属するひとりの女性の“ありふれた人生”を描いた作品。

結婚および出産を機に仕事を辞めて、育児と家事に追われるーーという“普通(とされてきた)”の女性の人生が、どれだけの性差別が突きつけられてるのか。そんなことをあらためて可視化した。とても他人事だとは思えないと感じさせる。

日本でも20万部を突破していることを考えると、表立って声を上げることができないまでも、心の内で葛藤し、もがく人の数は決して少なくない証左ではないか。

そして、著者のチョ・ナムジュがこの次に発表した作品が「彼女の名前は」。9歳から69歳まで「六十人余り」の人々からのインタビューをもとに、年代も立場もそれぞれ違う28編の物語が紡がれた。

11月17日の「アフターシックスジャンクション」(TBSラジオ)にて、「韓国文学のプロがススメる!『82年生まれ、キム・ジヨン』以降で本当に読みたい韓国文学はこれだ!特集」で紹介されていたことで、手にとってみた。

(まだリンク先から聞けるっぽいです)

まだ全編読み切ってはいないが、冒頭の「二番目の人」という章からすでに、とても重要な言葉が登場する。

ある公共機関で働くなか、係長からセクハラに遭った女性社員が、会社に訴えても、係長の味方をされ、信頼できる弁護士とともに世間に訴えても、いわれのないバッシングを受けてしまう物語。日本人としては、伊藤詩織さんのケースがフラッシュバックする内容だ。

物語のラストに、主人公と同じ相手から昔セクハラを受け、戦わずに退社した先輩が登場する。主人公に対して、「あのとき私が黙ってやりすごさなければ、あなたを同じ目に遭わせることはなかった」と謝罪するのだ。

そして主人公の、恨んではいないが、「黙ってやりすごす二番目の人にはなりたくなかった。三番目、四番目、5番目の被害者をつくるつもりは、ない」という言葉で章がしめくくられる。

この本を読んだすべての人が、同じように戦い、声を上げられる、上げるべきとは思わない。

しかし、「アフターシックスジャンクション」にて、翻訳家のすんみ氏は、この作品を「いまより半歩先へ進むための勇気がもらえる」と紹介していたのだが、的を射たフレーズのように感じる。

いくつかの章を読んだ時点で、まだ勇気とは到底呼べないが、立ち上がる原動力になりそうななにかが、自分の中のどこかに芽吹いた実感がある。

自分の仕事としては、半歩先へ進む勇気を芽吹かせる企画、原稿を生み出し続けるしかないのだろう。

優れた作品が生み出されている韓国でも、社会は簡単には変わっていない。『82年生まれ、キム・ジヨン』に対して、「事実を歪曲している」と批判する層も少なくないうえ、今作の映画で主演が決まった女優がバッシングを受けたり、この本を読んだとSNSで発進しただけで「フェミニスト宣言をした」と、彼女の写真を燃やし、切り裂いた動画を拡散されたケースもあるという。(「『82年生まれ、キム・ジヨン』はなぜ支持される? 翻訳者・斎藤真理子さんが徹底解説」好書好日、2019年2月5日)

結局のところ、大きな文脈の空中戦で論じ続けるよりも、それぞれの生活のなかで、小さな一歩を進めていくほかはない。

それが、〈チックタックと鳴る世界〉で時間に追われ、〈心無い言葉うるさい声に涙が零れそう〉で、〈もう嫌だって 疲れたんだってなんて 本当は僕も言いたいんだ〉と憔悴する人たちでも、できることなのだと思う。

そして、もし「次の被害者をつくるつもりはない」と決意し、半歩先へ歩みを進めようと立ち上がる人がいるなら、応援ができないまでも、冷笑しない。

これ以上〈夜に駆け出していく〉人を増やさないために。


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