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0139「卵」



「こんにちは。坂東卵です。らん。みだれる、の乱。花の蘭。英語で走るはrun。アンケート用紙、役所の申請書、会員登録、さまざまな欄。LANケーブル。川が氾濫する。欄干に手を置く。ほらご覧。たのしいな、ラン、ラン、ラン。そしてわたし。意外といろいろな意味のある音ですよね、らんって。
 わたしの、らん、は、たまご、と書いて、らん。ばん、どう、らん。なんだかすべてが強い言い切りのような名前ですよね。面、胴、籠手、みたいな。坂東統子の妹で、内臓が地球です。地球っていうのは、地球、この、のことで、みんながわたしの内臓のあちこちで生まれたり死んだりします。だから、つまりわたしは、地球の"中の人"ってことになりますね。あ、でも、内なる臓器と書いて内臓なので、そして実際、内にあるので、わたしの、なので、正しくはわたしは、地球の"外の人"ってことになりますね。だからわたしは、地球外生命体ということになるのかもしれません。あ、いえ、だいじょうぶです。ここで言ったって信じないだろうし、というかどこで言ったって大概の人は信じないだろうし、信じたところでだからなに、って感じだと思うので。
 でも、矛盾を承知で言うと、わたしは、信じてほしくもあって。もっと言うと、わたし以外のあらゆる人間、あらゆる生物、そういったものの"内"は、みんな、それぞれ地球なんです。宇宙と言ってもいいけれど、宇宙はわたしにはピンと来ない。わたしはわたしの"内"に宇宙を確認することはできない。だから、わたしの内臓は地球だけど、地球っていうのはあくまで便宜的な言葉でしかないんです。あなたの内も、あなたの内も、あなたの内にも、あなたの内にも、地球らしきものはあり、そしてわたしたちはその地球外にいる。わたしはわたしの地球で生きるみんなの仔細な情緒や機微のすべてまでは感知しきれないけれど、だからみんな、地球外生命体なんですよね。
 じゃあこの、地球外生命体であるところのわたしたちが暮らす"この地球"はいったいなんなのか、という話になりますよね。わたしの内臓……、ここでは仮に"内的地球"という言葉を当てはめますね。"内的地球"ではありとあらゆる過去や未来、さまざまな人間の生や死、生き様や死に様がバラバラに感知されます。時制がないとも言えるし、時制が無限に存在する、とも言えて、それは各々が理解しやすいイメージを採用すればいいとは思うのですが、つまりそういう、平たく言うとカオスな状態が"内的地球"で、それに対してわたしたちがいる"この地球"には、現在しか存在しません。現在しか存在しない"この地球"に、わたしもあなたも生きて、暮らしています。というより、ほとんどの人間は"この地球"に存在している自分のことしか知覚することができない、といった感じでしょうか。"この地球"に存在すると同時に"内的地球"にもわたしやあなたは存在しているのですが、その"内的地球"に存在する自分を、あなたも、あなたも、あなたも、あなたも、きっと想像することができていない。パラレルワールド、並行世界、マルチバース、なんて言葉や概念がありますが、わたしに言わせるとそれは"この地球"と"内的宇宙"のことですね。"この地球"に存在している限り、"内的地球"にも、あなたは必ず存在している。逆も然りです。SF的なお話になってしまいますが、たとえばタイムマシーンのような装置がもし発明されたとしたら、それはきっと、"この地球"から"内的地球"への帰還可能な交通回路を作り、任意の時制を観測するための機構を備えた、胃カメラのようなものになるでしょうね。あるいは、全身麻酔を施して行われる開腹手術のようなものでしょうか。"この地球"にいるわたしの存在を一度閉じ、"内的地球"から任意の時制を切除し、"この地球"に摘出する。
 試しに、と言っても、試したところでだからなに、というところではあるのですが、いくつかこの場に、"内的地球"から任意の時制を摘出してみましょうか。わたしがここで示すことができるのは、わたしが"内的地球"つまりあらゆる時制、あらゆる場所や空間で響く人々を声を、聞き取れる限りにおいて再現する程度のことなのですが。「あなたいい欠伸するねえ!」「ラピート乗ったことある?」「門司港で金物売ってたほう」「あ〜ん」「好きなんだよねフルーツ味」「もしもし、も……。もしもし」「あ、もしもし、うん大丈夫。え、もしもし?」「電車止まってるんだってさ」「震源地どこ?」「鳥肌たってきた」「眠い」「『【緊急】電話の使用を極力控えてください。被災地の方に少しでも回線を開けてください』だって。Twitterで」「あれ、あれ無い、あれ無いあれ無い財布がない……」「なえぽよじゃん」「いやでもほんとにありがとうございました」「こんな形だったんだ」「寒くない?」「ボウリング行こうよ」「はいこっちおいで。ははちょっ、ははははいはい舐めないでいま舐めないでお〜いやだったねえはいはいはい」「ほらチャイがテイクアウトできるぞ」「ビールとワインと蟹と肉があるだろ」「ほら行くぞ」「洗濯物をさ、実家で暮らしているから、からっていうのも変だけど、から、母親が洗って干して畳んでくれるじゃん」「まあ家庭にもよると思うけど」「車道を。あーデモね」「キレてたわけですよ母親に。めんどくせえことすんなと。朝メシに焼き魚が出たときなんかも、骨がめんどくせえと。遅刻させる気かよと」「めっちゃ並んでんね。めずらし」「……っはあ〜あん!ああ〜〜〜ンまじかよお〜〜〜」「じゃあ……。わたしはソファで寝るね」「ようこそ」「……なにか、むかしの、かなしいこととか、はずかしいこととか、しくじりとか。……くやしかったこととか、さみしかったこととか。……傷ついたこととか、ムカついたこととか、納得できないこととか。やるせないこと……とか……。せつないこと、くるしいこととか。そういうことばかり頭のなかを巡って。……際限なく落ち込むような日って、どう過ごしてる?」「あ、餅つきしたいな。餅つきもしたい」。こんなところでしょうか。意味がわからないですよね。わたしのなかでは、いや、"内的地球"ではこのように、さまざまな場所、人の、ありとある言葉が響き合い、つながっては離れ、いまここにいる"この地球"のわたしにとっての後景として常に鳴り続けています。わたしはそれを、"内的地球"のあらゆる声の集積や響き合いを、ショートスパン・コールと呼んでいます。
 ……。
 おそらく、人によっては、わたしのこのような話を、あるいはわたしの存在そのものを、なにか神的存在や神的事象、啓示のようなものとして理解するでしょうね。でも、これは断言しますが、"この地球"にも"内的地球"にも、神は存在しません。霊魂や、運命のようなもの、それらに近しいものは存在しますが……、というより、"この地球"のあなたが、あなたが、あなたが、あなたが、"内的地球"の自身や他者、事象をなんらかのきっかけで瞬間的に知覚する、幻視する、その混乱を、その不思議を、混乱や不思議のまま保留するのではなく、処理、理解する方法として人間は神や霊魂、運命のような概念を生み出したのだと思います。そして、わたしのような、"内的地球"を常に知覚できる人間は、"内的地球"を知覚できないその他大勢をたやすくセンドウ……扇動、先導、煽動、ええと、いや、言い換えますね。つまり、わたしのような人間は、宗教のような枠組みを用いて、たやすく人を集め、大衆に自身を崇めるよう仕向けることができるということでもあります。
 ……。
 ここまで話してきたことをまとめると、つまりわたしは、無限の時制がデタラメに発現する"内的地球"と、その外、現在の連続のみが発現する"この地球"の、境目に立ってそれぞれを知覚したり、揺れうごいたりしながら生きている、ということになります。ですがこれは、さきほども言いましたが、わたしだけに許された、特権的な能力ではないのです。わたしはたまたま、生まれたときからその回路が組み上がっていた、というだけ。"この地球"で生まれたばかりのころ……こどものころ、10代のころなんかは、これはわたしだけの特別なチカラで、あるいは特別な体質で、こんな人間、こんな知覚、こんな状態、わたし以外にはありえない、と思っていました。当たり前ですが、そういう意味ではわたしもごくごくふつうの人間、ということですね。わたしのように先天的に"内的地球"を知覚できる人間は他にも存在しているでしょうし、後天的に、ある状態、ある条件、ある資質、ある思考や閃き、認識の転換によって、"内的地球"を知覚するための回路が組み上がる可能性は、ゼロではない。その回路の組み上げ方を教えられるほどの語彙をわたしは持ち合わせていないので、あなた、あなた、あなた、あなた次第、ということになってしまいますが。可能性はゼロではない、ということだけ、ここでは言っておきます」

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