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寂しさは今までもこれからも続いていくだろう。という話

そういえばずっと寂しいという感情を持っていると、数年前に気がついた。それからその寂しさをどうしたらいいのか考え続けている。

幼い頃は両親からの愛情を姉や妹に取られているような気がして寂しかった。どうしたら私に注目してくれるのか、誰よりも優秀で自慢の娘になる選択をしてきた。
母は自分のように生徒会長にさせたいんじゃないのか、生徒会長になった。海外留学をしてほしいんじゃないのか、海外留学をした。本人よりも嬉しそうな周りの人たちがいてそれが嬉しかった。

人生の転機になったのは17歳の海外留学。
たった1年間の留学期間中に価値観のコアの一部が形成されたと言える。常に日本の現状に問題意識を持ち、課題を解決しなければと模索していた。

本を読み、大学で勉強し、人に話を聞き、それを行動に移す。何かを成し遂げたわけではないし、これから成し遂げられる明確な予定もない。ただ答えのわからない問いを追いかけながら、周りの同年代と確かに距離が離れていくのは感じていた。

同年代の悩みや考え方を聞いているとよく「この思考の段階もう終わったな。」と思う時がある。「私には思っててもできないや〜。」「相変わらず、すごいね」なんて聞き飽きた。私が今までやってきたことは誰だってやろうと思えばできることなのに、やってこなかっただけじゃないか。今まで向き合ってこなかった自堕落を見ないようにして簡単な褒め言葉で終わらせるな。アドバイスは欲しがるくせに、結局は行動に移さないやつが何人もいた。見下してるわけでも優越感を抱くわけでもなく、こんな時ただただ寂しくなる。

生き方は変えたくないのに、同年代の仲間を欲しがるのはどうしてなのだろうか。中学生くらいまではみんな一緒だったのに、一緒に歩いていってくれると思っていた仲間が、そうじゃなかった喪失感は何回味わっても寂しいものだった。距離が開き、また寂しさが増え、その寂しさをどうやって埋めればいいのかに悩む。

尊敬している人にこの話をしたらすごく共感してくれたことがある。そして「自分が先に行ってしまったのなら、いつか迎えにいけばいいんだよ。」と教えてくれた。寂しさが半分くらい軽くなった。私が歩みを止める必要はないし、周りも自分たちのペースで必ず人生を進んでいくことになる。どこかでまた一緒に歩けたり、交差することになったら、それほど幸せなことはない。

島に来てからはもっと寂しかった。ここって日本だよな?と疑うくらい違う価値観に出会い、違う価値観のメンバーと仕事をし、ちょっとずつ譲り合いながら生活している。でもちょっとした価値観の違いで自分がすり減るのを感じる。「小さい島だけどここにはいろんな価値観の人がいる。必ず誰か分かり合える人がいるよ。」私をよく気にかけてくれる島の人が言ってくれた。だから私は島を諦めないでいられていると思う。

では今、ここで私が抱えている寂しさはどう消化すればいいのだろうか。楽しい時間を共有してくれる同年代の友人はいるし、尊敬できる人もいる、時たま感じる喪失感は贅沢なものなのだろうか。
この感情の対処法を見つけられない限り、この寂しさは続いていくだろうし、それでいいのかもしれないとも思う。

それでもやっぱり令和ロマンのM-1優勝に、ラランドのさーやが喜んでいるのが涙が出そうになるほど羨ましい。(詳細はさーやの個人チャンネル1本目を見てね)


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