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エントロピーを切り裂くナイフ、それがフュリオサだ ~マッドマックス:フュリオサ感想~

私にとって語り尽くせぬ映画、「マッドマックス 怒りのデスロード」。
この映画については過去、別の記事でも話をしたくらいには大好きな映画です。
そんなマッドマックスの新しいサーガである、「マッドマックス:フュリオサ」、さっそく見てきました。

最高。ただこの感想です。
マッドマックスの(正確には怒りのデスロードの)世界観を拡張しつつ、別のキャラにスポットを与える、番外編として完璧な映画です。
また、イモータン・ジョーの”国”の統治がさらに細かく見せられており、この世界の奥行きが広がりました。特にガスタウンとバレットファームが見れたのはよかったです。この世界の中での人々の生きざまがありありと描かれていました。
また、この世界における集団形成を見ると、別の見え方もあります。イモータン・ジョーを”専制君主国家”、ディメンタスを”遊牧民国家”として見ると、例えばディメンタスたちの強さはモンゴル騎馬民族に近いものを持っているし、一方で行政システムの完成度はイモ―タン・ジョーのほうが上回っているなど、面白い視点もあると思います。

とにかくこの映画、本当に素晴らしいポイントが多すぎて語りきれんのです。
今、こうやって書いているときも、どこを語ろうかなと迷っております。
ではこの映画の素晴らしいポイントは何にあるかというと、何よりも「自由意思」であるのです。
そのことを本作の主人公とヒールであるフュリオサとディメンタスから見ていきます。



フュリオサとディメンタス、異なる二人

主人公であるフュリオサは故郷、「緑の地」から人さらいにあい、結果として母を壮絶な殺され方で亡くし、自身も自由を失います。
彼女からあらゆるものを奪ったのが、ディメンタスです。
奪われる側と奪う側として全く境遇の違う二人ですが、それだけではない。この二人は全くすべてが異なっているのです。
例えば、ディメンタスはべらべらとしゃべり続けるが、フュリオサはほとんどしゃべらない。中盤は全くセリフがないくらいです。
もちろん性別も違うけれど、同時に父と娘といった関係になるように、ただの男女の差だけではない非対称性がここにはあります。
二人の態度も異なります。フュリオサは孤独を、ディメンタスは群れることを選ぶし、知識を利用するのと、ひけらかすというヒストリーマン(フュリオサと一緒に囚われていた老人)への対応も異なる訳です。
そして、フュリオサは忘れず、ディメンタスは”Dementia:認知症”の名の通り、忘れる。まさに物語最後のシーンはその象徴でしょう。

この二人はどこまでも異なっているように見えるのですが、ただ、一つだけ共通する項目があります。
それは、種と人形です。

思い出の人形、刻まれた種

この種と人形というのは、二人ともにとって重要なモチーフです。
種はフュリオサにとって「緑の地」との繋がりであり、希望であり、懐かしき故郷を思い起こさせる品です。
一方でディメンタスにとっての人形は「死んだ子供の形見」と彼は言います。大切な思い出との繋がりを示す代物なのです。
どちらも二人にとって、決して手に入らない、重要な過去との繋がりを持ち続けるアイテムであります。

……なのですが、実はちょっと違うのです。
ディメンタスの人形は、パンフレットによると「彼が子供時代から持っているもの」なのだそうです。
もしかしたら子供の形見、というのも彼の妄言なのかもしれないわけで、何を信じていいのやら。
一つ言えるのは、種も人形も二人にとって「幼い日の大事な思い出」であることでしょう。

しかしながら、このアイテムでは共通する二人ですが、扱いに二人の差異が出てきます。
ディメンタスはただ大切に、身に着けるだけ。フュリオサにも人形がどれだけ大切なのかを説明するだけです。
一方、フュリオサは種を髪の中に隠し、ときに口の中で種を食いしばって、自身の屈辱と決意を刻み込んでいきます。
人形はディメンタスにとって大切な対象でしかない、ただの過去なのですが、フュリオサの種は過去だけではなく今を刻み込み、未来を示すため、臥薪嘗胆としての役割も持っているのです。

最後の復讐のシーンで、ディメンタスは「俺たちは同じだ」と言います。
同じ奪われた者同士だ、と。
あの荒野に奪われたことのない人間はいない。
けれど、同じ「奪われたもの」に対する思いも向き合い方も、フュリオサとディメンタスは決定的に異なっているのです。

エントロピーの中のフュリオサ

物理学では「乱雑さ」の程度を意味する言葉にエントロピーがあります。
簡単に言えば、部屋が散らかっているとエントロピーは高い状態にある、と言えるのです(物理学者の方に言わせると違うかもしれませんが)。
マッドマックスの世界観はこのエントロピーがある意味、マックスなまでに高まっています。
そこに様々な集団が入り乱れ、ぶつかり合ってカオスが狂気に至る。
ジョーの政治、ディメンタスの目論見、ジャックの存在。
そういった要素が複雑な系を成し、物語のエントロピーを高めていきます。

そんなカオスのなかで、フュリオサだけがシンプルなのです。
ただ、復讐を遂げ、緑の地へ行く。
高エントロピーの中、彼女の挙動だけがずっとシンプルでありつづけます。
純粋な復讐だけが、この物語に貫かれていのです。

適応ではなく、反抗こそが自由意思である

マッドマックスというのは反抗の物語である。
それは、この狂った世の中、世界に対してあらがい続ける人々の物語だからなのです。
マッドマックスサーガのすべてに通じ、それはジョーも含めて、この狂った世界の中であらがい続けいます。
マックスは放浪しながら生き残るという反抗を続け、イモ―タン・ジョーはシタデルを中心とするシステムで環境への抵抗を続ける。
フュリオサは己を貶めた運命に反抗する。
では、ディメンタスはどうなのでしょうか。
彼だけは、この世界に適応したのです。これまでに掲げた彼の特徴は、この狂った世界で生きるために最適化されている、と言えます。
資源が少ないなら奪うしかなく、言葉で相手を弄して従わせ、もはや狂いきった世界では記憶などは役に立たず、今この瞬間を生きていくだけで十分なのです。だから、彼は忘れていく(Dementia)のです。

このような状況で適応することは、生存戦略として理にかなっていると言えます。
しかし、それでもなお、と自分の在り方を自分で決めることにこそ、人の美しさがある。
フュリオサもディメンタスと同じように、忘れてしまってもよかった。ただのウォーボーイズの一人になって生きていく道だってあったのです。
けれども彼女はその道を選ばなかった。
自ら、茨の道を進み続けることを、忘れることなく選び続けた。
過去、現在、未来を通底する感情を貫き続け、忘れず、秘して成し遂げる意志の美しさ。
辛く苦しい道を選び続けるという選択をする、人間の自由意思
フュリオサはまさにその結晶なのだ。
研ぎ澄まされたナイフのような結晶を美しく描き出している。
だからこの映画は面白く、傑作なのです。

それはエントロピーの爆発を生み出した前作、怒りのデスロードとは違う切り口です。
カオスを切り裂く、冷たく鋭いフュリオサの意思を描くための物語であり、その対照としてのエントロピーが、今回のマッドマックスなのです
この点では「前作とは違うなあ」と感じられる方が多いのも頷けます。
なぜなら、前作はエントロピーの高まりを楽しむのに対し、今作はフュリオサの意思を見せるためにエントロピーが必要なのですから。

復讐の果てに

復讐譚において、どうその復讐をおさめるかは難しいところです。
例えばハムレットやニーベルンゲンでは全滅エンドにしてカタルシスを得ようとします。
本作では、彼女はその種を彼(のアソコ)に植え付けて復讐を完遂しました。
ただ恨みを晴らすだけではなく、未来を選ぶことにしたのです。
奪われたものはもう帰ってこない。けれど、種を植えることで未来に希望をつなぐことができる。
そうやって復讐を完遂した彼女だからこそ、続く「デスロード」でスプレンディッドたちを解放しようとしたのでしょう。
それは、個人の感情の昇華によってのみ、人は誰かのために動けるのだ、というもう一つの自由意思を示してもいるのです。

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