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精神科医の仕事は「サイズ違いの靴を履いてサイズが違うと言うこと」 ~伝えること伝わること#2~

割引あり

先日、東京文フリに出展しました。
一次創作で、しかも小説などの文芸のみのイベントに参加するのは初めてでした。
イベントは盛況で、自分のサークルにも少なくない方が足を運んでいただきました。
出した本自体は在庫がありますので、他のイベントで頒布予定です(個別でほしい方はお声がけ頂けば幸いです)。
次回の東京文フリ39にも出店予定ですので、よろしくお願いします。

さて、このイベントに出店していた時に、とある方からこんなことを聞かれました。

「精神科医ってコミュニケーション能力が必要ですよね」

問われた時、自分の中でメタ認知が暴走し、「あー」とか「えーと」とかしどろもどろになった挙句、

「諸説あります!」

というクソつまらない答えを返してしまいました。
つまらなくても捻った答えを出せよ……と内心うなだれております。アドリブの練習も必要そうですね。

今回の「伝えること 伝わること」は、
「精神科医にコミュニケーション能力は必要なのか」
を考えていきたいと思います。
ちなみに、今回の結論は

「諸説あります!」

という、やっぱりクソつまらない結論になってしまいましたが、なぜそうなったかを読んでいただければ幸いです。



コミュニケーション能力とは何だ

話を進めていく前に、コミュニケーション能力自体を定義する必要があります。
ありますが、コミュニケーション能力が多様な定義の仕方があるので、これだけでnoteの記事を数回分を費やす必要があります。
なので今回は暫定的な定義を行ってから話を進めていきたいと思います。

コミュニケーション能力とはコミュニケーションを円滑に進める能力である以上、その目的は「コミュニケーションという行為の目的の成就」です。
となると、コミュニケーション自体の目的を考えなくてはなりません。
日常の場面を想定すると、この目的は理解・共感することです。
相手からの話を聞いて必要な情報を理解したり、相手の感情を共感したりする。あるいは逆に自分から情報を発信して理解してもらい、感情を共感してもらう。
これがコミュニケーションの目的と言って、ひとまずはよいでしょう。

日常レベルでのコミュニケーションの場合、基本的には双方の立場から言語・非言語的な手法を介して理解・共感を行います。
注目すべきなのは、双方の立場というのが大きくは移動しないということです。自分のいる立場へ相手から言葉・表情・ふるまいなどが投げ込まれます。自分の場所でそれらをキャッチし、相手を想像し、考えます。
いうなれば、これは外から相手を観察する行いです。

この定義におけるコミュニケーションを最低限のところでできないと日常生活でも困ることにもなると思います。
精神科やカウンセリングなどでの臨床でこの能力は必要にはなります。ですが、さらに一歩進んだスキルが必要になります。
それは、「相手に合わせること」です

「相手に合わせること」

通常のコミュニケーションは、自分の立場から相手を観察し理解・共感することを目標とします。
臨床においては、この自分の立場から脱し、相手の立場に入って、相手の感じ方に合わせていきます。
これは単純な想像ではなく、自分自身の感覚や価値観などを忘れ、相手の感覚などにチューニングして、相手と同じように感じようとするコミュニケーションです。
精神分析家の松木邦裕先生のお言葉を借りると次のようになります。

話されているクライエントの経験や在り方に、我を忘れて没入するのです。

耳の方向け方 松木邦裕著 P48

臨床において、コミュニケーションは双方向の理解ではなく、クライアント・患者への理解が何よりも重視されます。
故に、強い共感的なコミュニケーションが発生し、求められます。

他人の靴に足を入れる勇気

松木先生の言葉にあるように、「我を忘れ没入」して聞くことは、自分というものが薄れ、相手に深く感じ入ろうとするコミュニケーションです。
私という感覚などを置いておき、相手と同じように感じようと心血を注ぎます。
すなわち、「putting oneself into someone's shoes」という言葉に表せられる聞き方です。
この言葉はこちらの記事でも紹介しましたので、改めて紹介いたします。

ここで注意が必要になるのは、相手に強く共感するということです。
強い共感というのは相手へ深く入れ込んでしまう恐れがあります。
精神分析の初期には、セラピストがクライアントと肉体関係を持ってしまったという事例もありました。現在であれば非倫理的な行いとして糾弾されます。

ここまで話すと難しそうですが、このレベルならある程度のカウンセラーや精神科医はできているのではないか、と思います。自分もおそらくできています。
そして普通の生活でも発生しうることでもあります。
例えば物語への強い「感情移入」というものがそうでしょう。
また普通に熱の入った相談であれば、相手の気持ちに入れ込んで涙したり、怒りを覚える経験をした方も多いのではないでしょうか。
臨床では、このコミュニケーションを意図して行っているのです。

なぜ、もるげんは質問に即答できなかったのか

精神科やカウンセラーがこういった相手に合わせるコミュニケーションを行っていることを話しましたが、それがすべてかと言われたら違うのです。
そう、ここからが私が冒頭の問いにすぐに答えられなかった訳でもあります。

「putting oneself into someone's shoes」、誰かの靴に足を突っ込むことが臨床でのコミュニケーションではありますが、共感していればいいわけでもないのです。
我々はクライアントや患者が感じるさまを理解しようとします。ですが、そこはどこまで言っても誰かの靴。どうしてもサイズ違いなのです。
ですから、どんなに相手を理解しようとしても「なんか違うなあ」という感覚があるはずです。
この「なんか違うなあ」こそが重要であり、これを必要に応じて相手に言うことが、我々の仕事の一つでもあります。
相手と自分は別々の人間である以上、同じように理解はできません。完全な相互理解は不可能です。だからこそ、違いをちゃんと理解することこそ、相手を深く理解するためのきっかけなのです。

本当にわかるためには、まず何がわからないかが見えて来なければわからない(中略)この何かがわかる時、そして新しい視野が開かれる時、理解は一段と深まる(省略)。

新訂 方法としての面接 土居健郎著 P29

そして、分からないところは分からないと聞くしかない。そうすると、相手も「たしかに、なぜだろう」と考えることになります。考えると、相手は新しく自分を見つめ直すことになり、治療が進みます。
すなわち、精神科医やカウンセラーの仕事は、サイズ違いの靴を履いて「サイズが違う!」とツッコむ仕事なのです

この「サイズが違う!」という感覚は相手に合わせすぎていれば忘れてしまいます。
そして、この疑問は実は、通常のコミュニケーション能力の対極にあるともいえます。

「当然」に気付くこと

イギリスの哲学者・言語学者のポール・グライスはコミュニケーションにおいて、量、質、関係、様式の格率(原理)を守っている、と提唱しました。この4つの格率を「協調の原理」と言います。

人間はコミュニケーションにおいて無意識に原則を守り、暗黙の了解を発生させています。
これらの原則を細かく見れば、コミュニケーションを円滑に行うために必要な原則だと分かります。
円滑というのは滞りないこと。
当然であることを、認識せずに、そのまま運用することです。
人間には当然を当然だと思う力がデフォルトで備わっています。その時は当然だと思っていても、後から考えたら「いや、あれはおかしかったなあ」と思い直した経験があるのではないでしょうか。
そして、冒頭に私はコミュニケーション能力を「コミュニケーションを円滑に進める能力」と定義しました。コミュニケーション能力は、この当然さを当然であるとする能力でもあります。
当然を当然とするからこそ、コミュニケーションは円滑になり、双方向的に理解や共感という目的を果たしやすくなります。

こころの臨床では、意図的にこの「当然」を意識させることが重要になります。
重要なのは無意識に当然だと思っていることを、「本当にそうなのか」と意識の上に上げ、検討することにあるのです。
協調の原理から脱して、協調しないコミュニケーションを行います。
そのためには、我々精神科医やセラピストが「当然」だと円滑にコミュニケーションしてはいけないのです。「当然」に気付かねばならないのです。
つまり、精神科医の仕事を全うするなら、通常のコミュニケーション能力が邪魔になる場合があるのです。

日常の会話ならそんなことを考えなくてもよいでしょう。
しかし臨床では必要になる場面があります。
故に、臨床のコミュニケーションは通常のコミュニケーションとは異なる、ある種の不自然さを包含しており、そしてそれこそが治療的な意味合いを含んでもいるのです。

相手に合わせ、相手と違うものを見る

ここまで精神科のコミュニケーションを話してきました。
「相手に合わせ」ながら、「相手に合わせない」部分を大切にする、二律背反的なコミュニケーションが必要なのです。
ここまでお読みいただいた皆さんなら、ふむ、確かにこれなら冒頭の問いに悩むだろう、と思われるでしょう。
しかし、しかしながら、話はこれで終わらないのです……。
実際の臨床では全例にこの「相手に合わせ、合わせない」コミュニケーションをしているわけではないのです。状況によって、その深度は異なります。
例えば、統合失調症の急性期なら相手に合わせすぎる対応はしません。症状を確認し、共感的にはなりましょうが、入り込みすぎるのは双方に危険です。
しかし、症状が治まったときに、こういう深い聞き方をすることはもちろんあります。
不眠だけの症状が軽い患者なら、相手に合わせすぎることもない、いわゆる普通のコミュニケーションでよいかもしれません。
その一方で、認知症の方でも時に、相手に深く合わせてコミュニケーションを行うこともあります。

コミュニケーションは臨機応変に、その取り方を変えなくてはなりません。
なので冒頭の答えは「諸説ある」にしかならないのです。
ただ、こういう「どうコミュニケーションを取るか」という視点、メタコミュニケーションとでもいうべきスキルは間違いなく必要だと思います。
そういう意味では結局、「相手に合わせる」必要があるのです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
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参考文献

本書は傾聴技法がわかりやすくまとまっています。精神科初学者の方に是非お勧めしたい一冊です。本書を中心としたnoteを近いうち書く予定です。

おなじみ土居先生の一冊。B6判でページも少ないですが、読み返すたびに新しい発見のある名著です。「甘えの構造」で有名ですが、こちらも手に取りやすいのでお勧めです。

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