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柳田国男「山人論」、折口信夫「マレビト論」、岡正雄「異人論」の戦い

柳田国男の「山人論」、あるいは、それから転向して唱えた「常民論」と、折口信夫の「マレビト論」、岡正雄の「異人論」、その3者の理論的な争いや関係ついて、霊魂観の違いや、民俗学と民族学と違い、経済人類学・社会人類学などの観点から、簡単にまとめます。

と言っても、とても長い文章となります。



柳田の山人論


柳田国男の民俗学は、平地の農民を「常民」と表現し、その本来的な世界観を「固有信仰」として描くことが特徴とされています。
ですが、彼の研究は、「山人の研究」(1910)以来、日本の先住民である「山人」が残存しているだろうと考え、彼らを対象としようとして始めたものでした。

柄谷行人は、柳田の求めた「固有信仰」とは、決して「常民」の信仰ではなく、「山人」に由来する信仰であり、最後までそれを求めていたと書いています。(「遊動論」2014年、「世界史の実験」2019年)

柳田は、もともと農政官僚であり、民俗学の研究も飢饉をなくす目的から始めました。
柄谷は、柳田は農村が多様な産業を併せ持つ独立的運営をすることを理想とし、協同自助を重視したと指摘しています。

柳田の民俗学の研究は、1908年、狩猟・焼畑の村である宮崎の椎葉村を訪れたことで始まりました。
彼は、その村に彼の理想とする協同自助、土地の共有、平等な分配を見たのですが、それが定住しない遊動生活に由来するものであると考えました。
それ以降、彼は山の民や漂泊民に興味を持ち、その研究を始めました。

柳田は、日本の先住民を「山人」と呼び、サンカやマタギなどの、先住民ではないが山で暮らすようになった人々を「山民」と区別して表現しました。

ちなみに、「山人」と「山民」の対比は、ピエール・クラストルが「国家に抗する社会」を見出した南米の遊動狩猟民と、ジェイムズ・C・スコットが「国家から逃避する社会」を見出した東南アジアのゾミアの山岳民の対比と似ています。

柳田は「山人」を「国津神」の子孫であるとも考えました。
逆に言えば、「国津神」とは「山人」の酋長のことであると。

柳田は、当初、台湾原住民の蕃族(生蕃、高砂族)やアイヌのように、「山人」が残存していると考えました。

そして、柳田は、「山人」の信仰が「山民」の信仰に影響を与え、さらにそれが平地民の信仰にも影響を与えたと考えていました。
「山人」は、「遠野物語」(1910年)でも描かれたような、山の神、山姥、天狗、妖怪、鬼のような平地民の異人表象(幻想)となったのだと。
また、「山人」が、市の起源にもなったと。

そして、1911年から1916年にかけて、柳田は南方熊楠に「山人」の探索の協力を仰いで手紙のやり取りを行いました。
ですが、南方からは、「山人」はおらず、平地から山に入った人々しか認められないという反論を受けました。

柳田は、「山の人生」(1926)で「山人」は残存していないことを認め、「山民」にその痕跡を求めようとしました。
そして、これ以降、「山人」を取り上げることをやめ、平地の稲作農民である「常民」の信仰の探究に向かいました。

柳田の描いた常民の固有信仰(氏神信仰)は、次のようなものです。

――人が亡くなると、その霊魂は最初は荒々しい「荒みたま」だが、子孫が祀ることによって、徐々に浄化され、個性を脱していき、一つの「御霊(氏神、祖神・祖霊)」に融合していく。
御霊は、村を望む山の頂きから子孫と田を見守り、盆と正月には家に招かれた共食する。
山にいる御霊は「山の神」であり、春に田に降りて「田の神」となり、家に降りては「家の神」になる。

ですが、この柳田の「山人論」から「常民論」への転向には、折口信夫の「マレビト論」や、岡正雄の「異人論」への嫌悪、ないしジェラシーがあったと推測されます。
田中基はそう書き(「縄文のメドゥーサ」(2006年)収録の「異人論のふたり」)、安藤礼二も同様の推測をしています。(「折口信夫」2014年)

柳田の「山人」は、折口の古代学的な「マレビト論」として、岡の民族学・経済人類学的な「異人論」として捉え直されたのです。


雑誌「民族」での戦い


1927年、柳田は、若い民族学者の岡正雄を誘って、雑誌「民族」を創刊しました。
そして、柳田文庫に岡を住まわせました。
柳田は、この誌名から分かるように、日本民俗学と民族学の統合を目指していたのでしょう。

ちなみに、当時、西欧人にとって、「民俗学(フォークロア)」とは西欧に残る非キリスト教的な民俗を研究する学問であり、「民族学(エスノロジー)」とは植民地の未開人の文化を研究する学問でした。

折口は、この年、この雑誌に、「常世及び「まれびと」」という論文を送りました。
岡はこれを掲載しようとしましたが、柳田は、「マレビトなんて学問じゃない、こんなものは載せられないから折口さんに返せ」と岡に言って、掲載を認めませんでした。
ですが、岡はなんとか掲載しようと思い、折口からの返却要請にも関わらず、原稿を手元に留め置きました。

この論文に限りませんが、折口の描いたマレビト信仰は、次のようなものです。

――海の彼方(後には山中)の常世の国から、初春や収穫期に異形の姿をしたマレビト(来訪神、力のある霊)が村にやって来て、祝言を与え、饗応を受ける。
あるいは、土地の精霊との約束を切り替えに来る。
マレビトの性質を祖霊と限定することはできない。

ちなみに、柳田は、後に雑誌「民族学研究」で行った折口との対談(「日本人の神と霊魂の観念そのほか」1949年)で、折口のマレビト論を「古典の直覚からきたものとしかみない。」と言っています。

また、同誌の別の対談(「民俗学から民族学へ」1950年)で、「折口くんは直感が早すぎるが、私はそれを東洋人の長所だと思う。」と言いながらも、「学問に利用するには、誰にもあてはまる方法を使わなければならない。」と言っています。

つまり、柳田は、折口の学問的方法論を批判しているのです。

これに対して、折口は、自分はコカインを服用して神憑りのような状態で論文を書くと、堂々と主張しています。

以下、田中による見解を書きます。

岡は、柳田が折口論文の掲載を拒否した理由を、こういった方法論の問題ではなく、プライオリティ上の問題だと考えていたようです。
つまり、どちらが類似したテーマで先に論文を出すかという争いの問題です。
実際、柳田には、自身の雑誌「郷土研究」で折口の論文を留め置いて、先に自分の論文を掲載した前科を持っていました。

ところが、翌年(1928年)、岡は折口のこの論文の影響を受けながら、先に自分の論文「異人その他―古代経済史研究序説草案の控え」を同誌で発表しました。
これは、プライオリティ上の違反に当たります。

その翌年(1929年)年、岡と柳田は袂を分かち、柳田が「民族」から離れると、岡は折口の論文を「民族」に掲載しました。
その後、折口はこの論文を「まれびとの意義」と改題し、「古代研究」の最初の論文として出版しました。

柳田が「山人論」を実体論として考えていたのに対して、折口の「マレビト論」が構造論であり、方法論となっていたことに、柳田は衝撃を受けて、ジェラシーを持ったのでしょう。

一方、岡の「異人論」は、折口の「マレビト論」の影響を受けながら、経済史、経済人類学、社会学の視点から構造的に考えたものでした。

そのため、柳田は、「山人論」を棄てざるをえなくなり、常民の信仰を対置したのだと。

柳田(左)と折口(右)


岡の異人論


岡のその論文「異人その他」は、安藤によれば、「柳田国男の「山人論」と折口信夫の「マレビト論」を、「異人」という述語とともに「古代経済史」の観点から一つに総合しようとした」ものです。
そして、「マレビト論を、メラネシアの事例から再検討し、日本文化の重層的な起源の一つとして位置づけ直した。」のです。

岡は、最初に、フォークロアの考察から日本の古代経済生活をうかがう、と書いています。
そして、宗教、経済、芸術などが分化する以前の全体的現象を古代経済史研究の発足点としなければならないと書いています。
また、「異人」の概念が、社会学だけではなく、民族学、文化史、経済史、宗教史においても重要であると指摘します。

そして、異人との交易の伝承をいくつか取り上げ、そこに、相互的義務がある、神前において行われるなどの形式が存在する、とまとめます。

また、異人との交易の一形式である「無言貿易(沈黙貿易、互いに接触せずに行う交易)」について、フォーブルによれば、等価観念がある、相互義務がある、姿を現前しない、異人を鬼もしくは神と見たなどの、厳然たる形式に従うと書きます。
ですが、「無言貿易」は、交易の最初の形式ではなく、特殊な一形式であり、交易は「贈物交換」から始まると。

ちなみに、日本で、峠で行われていた中宿の交易は「沈黙交易」でしたが、柳田は、未開人ではない日本には「沈黙貿易」はありえないとこれを否定し、後に、経済学者の室田武に批判されました。(栗本慎一郎「経済人類学」)

そして、岡は、異民族との接触は、好意的贈答に始まることが多いが、「異人」は畏怖と侮蔑の混合した対象であり、悪霊とも考えられたと書きます。
これは、日本の山人、山姥や遊行祝言師などの表象にも見受けられると。

最後の節「秘密結社」では、日本の来訪神(マレビト)儀礼と似た、メラネシア、ポリネシアの秘密結社と儀礼の3例を取り上げます。
そして、リヴァーズによると、それらが秘密結社とその儀礼は外来民族との接触で生まれたと書きます。
外来民族は少し離れて住み、従来の儀礼を続けたが、そのため秘密結社化したと。

ちなみに、折口は、柳田との対談「日本人の神と霊魂の観念そのほか」で、マレビトの実体的な起源に関して次のように語っています。

「おなじマレビトといいましても、ああいうふうに琉球的なものばかりでなく…追放せられた者、そういう人たちも、漂浪して他の部落にはいって行く…」

つまり、岡が言うような多数者の移住ではなく、単独もしくは少数者の漂泊や移住を考えていました。

そして、岡の論文は、最後に、「メラネシア社会史の日本文化史への暗示」として、その特徴を箇条書きでまとます。

経済的な交換に関わる部分のみをまとめると、異人は、作物の豊作に関わって現れ、饗応を受け、特に初成物を受けることがあるのだと。
また、遊行人(異人がフォークロア化した遊行歌舞団)も、饗応を強制し、あるいは掠奪を敢えてし得るのだと。

経済人類学的には、ここには互酬の関係があることになります。

岡は、「異人その他」を原型に、ウィーン大学での博士論文「古日本の文化層」を提出しました。
岡によって「マレビト」は、環太平洋における男性秘密結社論としてヨーロッパに紹介されたのです。


岡の文化複合説


一般に、岡の主要な研究として知られるのは、日本民族の成り立ちを、複数の文化複合で、つまり、多元論的に考えたことです。

「日本文化の基礎構造」(1958年)では、次の5つの文化複合を考えるに至りました。

1 母系的・秘密結社的 ・芋栽培・狩猟民文化
2 母系的       ・陸稲栽培・狩猟民文化
3 父系的・ハラ氏族的 ・畑作-狩猟・牧畜民文化
4 男性的・年齢階梯制的・水稲栽培-漁撈民文化
5 父権的・ウジ氏族的 ・支配者文化

1は、メラネシア系の縄文人で、祖霊(マレビト)の来訪信仰、神の出現を水平的に表象する信仰を持ちます。
2は、東南アジア系の縄文人で、アマテラス神話やイザナギ・イザナミ神話を持ちます。
3は、ツングース系の弥生人で、神の出現を垂直的に表象する信仰を持ちます。
4は、江南系の弥生人で、海幸・山幸神話を持ちます。
5は、騎馬民族系、天孫族で、タカミムスビ信仰、神の出現を垂直的に表象する信仰を持ちます。

岡の理論は、柳田の「山人論」を、歴史民族学的に捉え直したものと考えることもできます。
柳田は、国津神系山人/天津神系常民という二元論で考えたのに対して、岡は民族学的に多元論化しています。

柳田の「山人」は、岡の類型では1に当たると思われます。
ですが、柄谷は、遊動民の特徴は、男系や女系ではなく、双系(ないしは、未分化)であり、柳田も直観的に双系であると考えていたと書いています。
ですから、類型の1は母型ではなく双系であると。


雑誌「民族研究」で民族学と民俗学の戦い


1949年、雑誌「民族学研究」の2月号で、座談会「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」が、先に紹介した岡のウィーン大学での学位論文「古日本の文化層」をたたき台にして、八幡一郎、江上波夫、石田英一郎が参加して行われました。

一般には、江上の騎馬民族征服王朝説が有名になりましたが、この座談会のメイン・テーマは、日本文化が複数の民族の渡来による非連続的、多元論的な成り立ちでしょう。

田中は、この対談が、柳田、折口らの民俗学に大きなショックを与えたと書いています。
そして、二人が最晩年に書いた、柳田の「海上の道」(1952年)と、折口の「民族史観における他界観」(1952年)にも、民族学的多元論への対抗という側面があったと。

この2月号の対談を受けて、同年の12月号では、柳田と折口による対談「日本人の神と霊魂の観念そのほか」が組まれました。

ちなみに、この対談で二人とも、騎馬民族征服王朝説には懐疑的な立場を表明しています。
そして、柳田は、騎馬民族が支配者層になったのなら、いつどうやって稲作を重視するようになったのかという疑問を呈しました。
柳田にとっては、皇室も常民なのです。

また、柳田は、日本が単一な民族が成長したものとは思っていないが、その中の「数が多いか、力があったか、知能が進んでいたか、ともかく最も重要な一種族」が、柳田の言う「固有信仰」を伝えてきた、と述べています。


柳田と折口の霊魂観の戦い


この12月号での対談のメイン・テーマは、民俗学vs民族学ですが、それ以上に二人の民俗学理論の間でも火花が散りました。

MCの石田が折口に、「マレビト」には「祖霊」という観念が含まれているかと尋ねて、折口は次のように答えています。

「常世国なる死の島、常世の国に集まるのが、祖先の霊魂で、そこにいけば、男と女と、各一種類の霊魂に帰してしまい、簡単になってしまう。それを、そうは考えながら、家々へ来るときに、その家での祖霊を考える。…私はどこまでも、マレビト一つ一つに個性ある祖先を眺めません。分割して考えるのは、家々の人の勝手でしょう。」

一方、柳田は、以下のように異論を唱えています。

「日本全体にたった一つの田の神があって、分身して数万数十万の祭場に降られるのでなかったということがいいたかったのである。そのようにして必ずある定まった家の田にのみ降られる神が、すなわちその家の神であり、それがまた正月にも盆にも同じ家に、必ず降られる祖神だったろうということを、私はもう民間伝承によって証明しえられると思っています。」

つまり、折口は、個々の先祖は、まったく無個性な男女の霊魂に帰してしまうと考えるのに対して、柳田は、個々の先祖は氏神に帰し、個々の家の先祖という個性は保たれると考えるのです。

ですが、折口は、「民族史観における他界観念」の沖縄のトーテミズムに関する記述で、
「海獣の中なる霊魂は、われわれと共通の要素を持っている」
「吾々と同一のマナには、動物に宿るものもあり、植物に宿るものもあり、或は鉱物に宿るものもある」
と書いています。

つまり、折口は、霊魂の根源を「非人格の霊的な力(マナ)」と考え、それは人間でも他の存在でも共通していると考えるのです。
人が帰す霊魂とは、特定の祖霊でないだけではなく、人間というアイデンティティも超えるのです。

また、一方で、マレビトの古形に関して次のようにも書いています。
「念仏踊りの中に、色々な姿で、祖霊・未成霊・無縁霊の信仰が現れていることを知る。…
野山に充ちて無縁亡霊が、郡来する様にも思えるのは、其姿の中に、古い信仰の印象が、復元しようとして来る訣なのである。」

つまり、来訪する霊魂は、柳田のような子孫を見守る祖霊だけではなく、危険な無縁亡霊も含まれているのです。

以上のように、柳田の祖霊が氏族のアイデンティティを保証する存在であるのに対して、折口のマレビトはその異形性、力能性、無限定性によって人のアイデンティティを揺さぶる存在のようです。


柳田の折口の本来性の戦い


また、折口の霊魂観や神観に反論して柳田は、次のように言いました。

「折口君の考えられているのは、非常に精巧な原理だから、最初の日本人がそういうものを考え出すことは一朝一夕には出来なかったのではなかろうか。言葉を換えていえば、ある単純な霊魂が先か、神が先かが問題になる。」

つまり、柳田は、最初は単純な「祖霊」だけだったのだと言うのです。
また、自分と折口を対比して、次のように言います。

「私などの考えているのはそれは国つ神の信仰であって、…
民間には今でも原住民の信仰が、たいした進歩もせずに伝わっていようとも、朝廷や大きな神社の奉仕者には、天つ神にふさわしい神学が支配していたかもしれぬ。
…折口君は国学院大学の先生で、そうもいってはおられない。」

つまり、自分は原住民の国津神の単純な信仰を対象にしているが、折口は天津神の複雑な神学的なものを対象にしているのだと。

また、折口のマレビトについて次のような考えを提示します。

「私からみると自分の神様が十分な力を発揮されないから、少しずつ隣の神にも願うようになった」
「私はマレビトなども外部信仰と呼んでいるものの顕著な現れとみている。」

つまり、マレビトは、共同体の外部の神を受け入れたものであって、したがって、本来的なものではないという批判です。

また、柳田は、祖霊を神とする本来の単純な「固有信仰」が変化したのは、中世以降だと語りました。

ですが、折口は、自分が古代の研究者であり、現在の伝承を研究する柳田よりも古い信仰を対象としていて、その点で民族学に近いと考えていました。

折口は、「民族史観における他界観念」で、次のように柳田の説く信仰の単純さを批判し、また、自分の霊魂観の方が古いものだと書いています。

「…この世界における我々――そうして他界における祖先霊魂。何と言う単純さか。」
「この祖先と言う存在には、今一つ先行する形があった。他界における祖裔関係から開放され、完成した霊魂であったことである。」
「此(柳田的な信仰)は、近代の民俗的信仰が、そう言う傾きを多くもっている為であって、必ずしも徹底した考え方ではない。」

そして、柳田の言う山と田とを循環する人間的な祖霊と、折口の言う他界から周期的に来る異形の生類を比較して、次のように書きます。

「人間的になっているか、それ以前の姿であるかを比べると…どちらが…前古代的かということの判断がつくことと思う」

つまり、柳田の人間的な霊魂の信仰は近代以降のものであり、折口の異形の霊魂は前古代的だと。

折口のマレビトは異形の形姿で、人間の他界での姿も異類・動物であるとします。
そして、霊魂の根源において人間と他の存在との区別をしません。
こういった霊魂観は、狩猟文化的なもので、明らかに柳田のそれよりも古いものでしょう。


交換・分配形態


最後に、3人の理論を、経済人類学の交換・分配形態から少し、考えてみましょう。
まずは、交換・分配形態の考え方からです。

カール・ポランニーは、交換様式が、社会統合の様式になると考えました。

私は、以下のような柄谷の考え方である以下の4種の交換・分配様式で考えます。

  (交換・分配形態)       (社会形態)
0 純粋贈与(一方的贈与・平等分配):遊動的バンド
1 互酬(贈与と返礼)       :共同体(村落)
2 再配分(徴税と行政サービス)  :国家
3 市場交換(貨幣・商品の交換)  :都市(市民社会)

ポランニーは、1-3に加えて、0と近い「家政」を考えていましたが(「大転換」1944年)、後にの「家政」を「再配分」に含めました(「人間の経済」1977年)。
また、3が全面化する資本主義社会に警鐘を鳴らしました。

0の「純粋贈与」は、マリノフスキーがこの存在を主張しましたが(「西太平洋の遠洋航海者」1922年)、実際は1の「互酬」であるというマルセル・モースの批判(「贈与論」1925年)の後、撤回しました(「未開社会における犯罪と習慣」1926年)。

マーシャル・サーリンズは、2を「協同寄託」と表現し、家族的集団においてはマリノフスキーの「純粋贈与」が存在すると考えました(「石器時代の経済学」1974年)。
また、「互酬(相互性)」にはスペクトルが存在し、家族的な距離における利他的な極として「純粋贈与」があるとも考え、それを「一般的互酬性」と表現しました。

クラストルは、2と共に国家的権力が発生すると考え、未開社会にそれを抑止する「国家に抗する社会」(1974年)を見出しました。

柄谷は、1は定住以降の社会にしか存在せず、純粋な遊動民には0しか存在しないとして、後者にある自由を重視し、柳田もそれを求めていたと考えます(「遊動論」2014年)。

多くの人類学者は、国家や市場のある社会と、それらのない「未開社会」を区別して後者を対象にしますが、遊動狩猟社会/定住狩猟社会/定住農耕社会をしっかりと区別しません。
また、遊動社会でも、ずっとそうであった社会と、そこに戻った社会をしっかりと区別しません。

遊動民は、能力に応じて収穫し、収穫物を平等に(必要に応じて)分配します。
持つ物は持たない者、欲しがる者に与えなければなりませんが、これに対して、返礼も感謝も必要ありません。

ですから、確認はできていませんが、理論的には、「純粋贈与」を原理とする純粋な遊動民には、神への返礼儀礼がないはずだと、私は思います。

柄谷は、贈与に対して返礼の義務がある「互酬」が生まれるのは、定住が行われてからだと考えます。


柳田、折口、岡と贈与


柳田も折口も、交換・分配形態の観点から「山人」や「マレビト」を考えてはいません。
経済的な観点から考えた岡も、上記のような類型では考えてはいません。

岡は、「異人その他」で、「沈黙交易」は原始交易の特殊な形であり、交易は「贈物交換」から始まると書いています。
ですが、ポランニーの類型で言えば、どちらも「互酬」です。

ちなみに、岡は触れていませんが、「異人その他」で紹介している「椀貸伝説」は、異人が一方的に椀などを貸す話なので、「互酬」ではなく、「純粋贈与」に当たるでしょう。

一般に先祖信仰では、先祖は子孫が祀ることで浄化され、先祖は子孫を守るという「互酬」の関係があると考えられています。
柳田の「固有信仰」においても、この関係が考えられています。

ですが、柄谷は、柳田の「固有信仰」では、先祖が一方的に子孫を愛するので、「互酬」ではなく「純粋贈与」であると考えます。

確かに、柳田は、子孫によって祀られない無縁の魂に対して、次のように書いています。

「…以前の日本人の先祖に対する考え方は、幸いにしてそういう差別待遇はせずに、人はなくなってある年限を過ぎると、それから後は御先祖さま、またはいたま様という一つの尊い霊体に、溶け込んでしまうものとしていたようである。」(「先祖の話」)

つまり、子孫が祀る必要がなければ、先祖信仰の「互酬」の関係が成り立っていないことになります。

柄谷は、これが遊動民の特徴であり、「山人」の特徴であり、実際に、日本文化には遊動性の影響が残存しているのだと書いています。

柳田が椎葉村に見た「富の均分」とは、上記の分類で言えば「純粋贈与」になります。

ですが、椎葉村の狩猟民は、「山の神」から送られた狩猟の獲物に対して、返礼を行っていましたので、これは「互酬」に当たります。
これは、彼らが純粋な遊動狩猟民である「山人」ではなく、定住農民から遊動狩猟民に戻った「山民」だからかもしれません。

柳田も折口も、伊能嘉矩による台湾原住民の研究報告「蕃族調査報告書」に大きな影響を受けました。
蕃族(高砂族)の中には、当時も遊動生活を送っていている者(生蕃)がいました。

先に書いたように、柳田は、彼らに日本に残存するかもしれない「山人」の姿を見ました。

蕃族の各種族は、多くの世代を経て移動してきた経路を伝承していて、種族の人間が死ぬとその魂は故地の山の頂へと帰還すると考えました。

柳田の「固有信仰」に似ているようですが、これは種族単位であって、柳田の言うような氏族単位とは異なるのではないでしょうか。
この違いは、彼らが双系であって単形のような家系の意識がないからかもしれません。

一方、折口は次のように、「蕃族調査報告書」の影響で「マレビト論」が整理されたと語っています。

「台湾の「蕃族調査報告」あれを見ました。それが散乱していた私の考えを綜合させた原因になったと思います。村がだんだん移動していく。それを詳細にいい伝えている村々の話。また宗教的な自覚者があちらこちら歩いている。どうしても、われわれには、精神異常者のはなはだしいものとい思われないのですが、それらが不思議にそうした部落から部落へ渡って歩くことが認められている。」(「日本人の神と霊魂の観念そのほか」)

ちなみに、クラストルによれば、こういった行動は、未開の遊動民が権力を発生させないために自然に生まれるものです。

来訪神(来訪祖霊)の儀礼も、蕃族の中にあります。
折口の古代学は、遊動民である蕃族を反映したものでした。

マレビトが芸能化した漂泊芸能民の場合、農民との間に、芸・祝福を与える代わりに、物品・金銭を受けとるという「互酬」の関係があります。

マレビト(来訪神)儀礼の場合も、祝福を与える関わりに饗応を受け取るという「互酬」の関係があります。

岡は、この饗応を受け取る点を強調しますが、それは、これが物理的なもので、経済として見えやすいからでしょうか。

ですが、折口は、反対に、祝福を与える点を強調します。
それは、これが宗教的・芸能的なものであり、彼の関心ある領域であるからかもしれません。

ですが、一方の強調は、これを「純粋贈与」に近づけます。



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