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経済の交換様式と宗教

社会文化の違いやそこに暮らす人間の意識の違いを分析するには、様々な観点があります。

その中でも、「交換様式」の観点からの分析は、最も強力なものであると思います。

「交換様式」の違いは、それに対応した社会形態や文化の違いを生み、意識の違いを生みます。

この投稿では、柄谷行人や中沢新一の説を参考にしながら、「交換様式」と宗教に関わる知見、私見をまとめます。
非常に長く、抽象的な文章になりますが。



経済人類学の3つの交換様式

 

一般の経済学は、主に市場経済における「商品交換」という交換様式を対象にします。
ですが、経済人類学の創始者カール・ポランニーは、これとは異なる「互酬」、「再配分」という2つの交換様式・経済システムを重視しました。 

「商品交換」、つまり、貨幣による商品の購入は、市場の価格競争において商品に数値的価値を与えます。

「互酬」は、誰かが誰かに何かを「贈与」すると、それに対して「返礼」をするという形の交換様式であり、経済形態です。
この交換は、数値の価値の等価性よりも、人格の交流を本質とします。 

「再配分」は、社会が税を「徴税」し、その替わりに様々な「行政サービス」を提供するという形の交換様式であり、経済システムです。


それぞれの交換様式は、固有な社会形態を生みます。

「互酬(贈与・返礼)」は、「共同体(コミュニティ)」という社会形態を生みます。
国家をなさない、あるいは、国家に属する村落共同体、部族共同体、地域共同体などです。
「共同体」に暮らす人間は基本的に「平等」ですが、「贈与」に対しては「返礼」をすることが義務づけられています。

「再配分(徴税・行政サービス)」は、「国家」という社会形態を生みます。
国家は納税を「強制」します。
国家は、ある「共同体」が他の「共同体」を支配することで生まれ、何らかの政治的権力や階級が存在します。
これは、言い換えると、「服従と保護」の交換です。 

「商品交換(貨幣による売買)」は、共同体の外、「市場」から発生し、「都市」、「市民社会」といった社会形態、そして、「資本」という社会形成要因を生みます。
資本主義社会は、「商品交換」が全面化した社会です。
売買は「自由」に行われますが、そこに暮らす人の格差を生み、人間の諸活動を数値で価値判断して疎外を生みます。

1 互酬(贈与と返礼)      :共同体(コミュニティ)
2 再配分(徴税と行政サービス) :国家
3 商品交換(貨幣と商品の売買) :都市

ですが、一つの社会が一つの交換様式、社会形態だけを持つのではありません。
3つの交換様式、社会形態は、一つの社会に比重の違いはあれど、同時に、あるいは潜在的に存在します。 

また、交換様式、社会形態は、「形」になったものですが、常に、「形以前」の存在、「形」から外れる存在があるはずです。

 

純粋贈与と高次の回帰

 

思想家の柄谷行人は、これらの3つの交換様式、社会形態とは別のものが、理念として、あるいは、潜在的に存在する、存在したと考えます。

かつて人間は、定住する以前に、狩猟・漁撈・採集・焼畑農業などを中心にした遊動生活をしていました。

この時点の交換様式は「純粋贈与」、あるいは「協同寄託」、「平等分配」などと表現できます。
持っている者(狩猟・採集者)が持たない者に一方的に与えます。 

「互酬」における「贈与」が「返礼」を前提としたものであるのに対して、「純粋贈与」は「返礼」を前提としない「一方的」なものです。
前者は人類学者のマルセル・モースの分析が有名ですが、後者はマーシャル・サーリンズが提唱しました。

「純粋贈与」は、交換形態というより、交換以前の形態のない経済と見なすこともできます。

これに対応する社会形態は、「バンド」と呼ばれる少人数の流動的な集団で、漂泊の移動生活を行っています。
富の蓄積や所有はなく、男系、女系といった家系の制度もありません。 

この「純粋贈与」に基づく「遊動的バンド」のあり方は、共同体や国家による強制がなく、資本主義社会の数値的疎外や格差もありません。

これは、現在の世界にはすでに存在しない一種の失われた楽園です。
そのため、これを回復しようとする試みが存在してきました。

柄谷は、その理想の交換様式を「交換様式D(交換様式Xを、第4の交換様式)」と表現します。
そして、これは、抑圧された「純粋贈与」や「互酬」の回帰として現れると言います。

つまり、都市空間で、国家や共同体や資本の拘束を避け、それを越えるものとして、互酬や遊動性、「自由の相互性」を高次元で取り返すのです。

これは、発達した社会において、3つの交換様式、社会形態に抗して、自由と平等、友愛を実現しようとする試みです。

「世界共和国へ」より、図1と3を合成

柄谷は、「交換様式D」に対応する社会形態を、「協同組合(アソシエーション)」と表現します。
アソシエーショニズムは、社会主義や共産主義の思想家が探究してきましたが、交換様式の観点がなかったために、正しく理論化できなかったのです。 

0 純粋贈与(協同寄託・平等分配):遊動的バンド
1 互酬(贈与と返礼)      :共同体(コミュニティ)
2 再配分(徴税と行政サービス) :国家
3 商品交換(貨幣による売買)  :都市、市民社会
4 交換様式D(高次の純粋贈与) :協同組合(アソシエーション)

そして、柄谷は、仏教やキリスト教といった世界宗教には、国教化される以前には「普遍宗教」という側面があり、それらは「交換様式D」に対応するあり方を目指すものだったと考えます。
それらは、先に書いた「抑圧された楽園の回帰」なのです。

理想的な普遍宗教や神秘主義が3つの交換形態に収まらないものだとしても、歴史上の形式化された宗教は、3つの交換様式と関わってきました。

「互酬」に対応するのは部族社会の伝統宗教、「再配分」に対応するのはある程度の抽象化の進んだ国教となる国家宗教です。
「商品交換」に対応するのは敢えて言えば拝金教、あるいは、商品化された宗教でしょう。


増殖と消費

 

思想家の中沢新一は、「再配分」を除く3つの交換様式を、ジャック・ラカンの精神分析学における3つの心的領域を対応させて考えます。

具体的には、「商品交換」を「象徴界(概念的な働き)」に、「互酬」を「想像界(イメージの働き)」に、「純粋贈与」を「現実界(無形の情動の働き)」に結びつけます。

また、キリスト教の「三位一体(父・子・聖霊)」も、この3つに対応させます。

(交換様式)(ラカン)(キリスト教)
・商品交換 :象徴界 :父
・互酬   :想像界 :子
・純粋贈与 :現実界 :聖霊

そして、理想的な状態に関して、柄谷は「純粋贈与」や「互酬」の高次な回帰(第4の交換様式D)として考えたのに対して、中沢は3つの交換様式、3つの心的作用がしっかりと結びついた状態で現れるものとして考えます。

それは、バタイユが「至高性」と表現した、蕩尽的な消費である「純粋消費」が中心に来る経済であり、そこにはフロイトの「死の欲動」がはらまれているです。

中沢は、19世紀の、プロテスタントやイギリスのクエーカー教徒の労働者の間で起こった「自由な聖霊」運動が、資本主義の発達と関係していたと言います。

中沢によれば、この運動は、「聖霊」を教会から自由に解放するものであり、従来の「聖霊」が抑えられた状態を脱するものでした。
「聖霊」は「増殖(自然の創造性)」に関わるもので、資本主義の全面的な展開のためには、これを解放する必要があったのです。 

「増殖」は自然や神からの「純粋贈与」に対応します。
中沢は、「純粋贈与」は目に見えない力によってなされるので、人はそれを神の仕業と考える、と言います。

つまり、「純粋贈与」と「商品交換」がしっかりと結びついた時に、「資本の増殖」が起こったのです。

ですが、「純粋贈与」は「互酬」ともしっかりと結びつく必要があり、その時には、大地の創造力と結びついた農業のような「純生産」が行われて、「魂の跳動」が起こります。

そして、これら3つの交換様式がしっかり結びついた時に、純粋な「増殖」を喜び、それを「消費」する「純粋消費」の経済が起こるのです。

「愛と経済のロゴス」より、一部編集

こう見ると、この「純粋贈与」と「互酬」と「商品交換」に結びつけるという中沢の考え方は、「純粋贈与」と「互酬」を発達した社会(資本主義社会)に回帰させるという柄谷の考え方と、極めて似ています。

ちなみに、「再配分」を中沢の図式に当てはめるなら、「象徴界」になると思います。
そして、「子」は「想像界」ではなく「象徴界」の方が適当で、「想像界」には「聖母」を対応させた方が良いのではないかと思います。

(交換様式)   (ラカン)(キリスト教)
・商品交換・再配分:象徴界 :父・子
・互酬      :想像界 :聖母
・純粋贈与    :現実界 :聖霊

 

互酬と宗教

 

以下の3つの節では、3つの交換様式と宗教の関係について考えます。

農耕や狩猟のような第一次産業には、人間の労働による生産という側面がありますが、その前提として、自然による生産があります。
人間は動・植物の育成を補助はできても、それ自体を直接に生産することはできません。

第一次産業には、自然の一方的な「純粋贈与」があります。
言い換えると、人間による一方的な「強奪」があります。 

ですが、共同体の宗教は、ここに神・精霊・祖霊との間の想像的な「互酬」の関係を築きます。
つまり、食物を神などからの「贈与」であると考えて、それに対して、神に供物や祀りを「返礼」します。 
一般に、共同体は「初物・初穂」を儀礼的に神に返礼していました。

ですが、先に神に「贈与」し、「返礼」を望むこともま一般的です。
例えば、神社で頼み事をして賽銭を渡すのも、この形式の「互酬」です。
先に「贈与」によって貸し(債権)を作って、神に「返礼」という債務を追わせるものです。 

ユダヤ、キリスト教のように、この「互酬」は「契約」という形で認識されることもありますが、「贈与と返礼」という本質は同じでしょう。

 

本来、神仏の愛や慈悲は、自然の創造性と同様に、「純粋贈与」のはずです。
また、人間の純粋な人助けのような善行も、本来は「純粋贈与」のはずです。

ですが、神仏が善行を望み、死後の祝福を約束すると考えると、一種の「互酬」に近いものになります。

ただ、日本の浄土系の場合、善行はなくとも、阿弥陀の本願力を信じて念仏するだけで、極楽往生が約束されます。
ここには交換らしいものは存在せず、他力の「純粋贈与」を信じて受け取るだけです。
つまり、「純粋贈与」に限りなく近い「互酬」のような形態です。

 

穢れと祓い

 

「互酬」が働く共同体において、誰かが誰かに贈与を行って、返礼がなされない場合、あるいは、贈与に対して返礼が明らかに少なすぎて釣り合わない場合、贈与を行った者が、一種の「債権」を持ち、受け取った側が「債務」を持つことになります。

共同体のメンバーには、この「債務」は、宗教的に、贈与された物に宿る「呪力」として認識されました。
この「呪力」は、共同体のメンバー間の問題である以前に、神との関係です。 

この返礼がなされない場合は、贈与側が強い立場に立っているということもできます。
何かを与えることは、相手を支配することであり、「呪力」はそのような力であるとも考えることができます。 

共同体は平等が原則であり、交換に不均衡が生じていることは、一種の悪であり、「穢れ」です。

何かを受け取っただけでは、そこに不均衡という一種の「穢れ」が発生します。
日本の場合、「穢れ」は「御幣」で「祓(はら)い」ますが、これと「貨幣」で「払(はら)う」という行為は、本来、同じ意味だったのでしょう。 

世界的に、穴の空いた貨幣や、子安貝などの貨幣が多く存在しますが、これらは女性器や男性器を象徴していて、それが「穢れ」を払う呪物と考えられていたからです。

 

再配分と宗教

 

宗教が国家的権力と一体化して、信仰や宗教組織への金銭などの支払いが強制となった場合、人々と宗教組織との関係は、国家との関係と同様の「再配分」の交換様式になります。

つまり、布施は税金を同様なものになり、宗教組織が提供する神事・法事は行政サービスと同様なものになります。

日本で言えば、領主と一体化していた中世寺院や、檀家制として国教化した江戸時代の寺院がそうです。
中世の寺院では、年貢を納めることが功徳とされ、豊穣や往生を祈願し、年貢を納めない者には調伏の祈祷を行いました。

 

 市場交換と宗教

 

例えば、神社でお守りを買うのは、本来は「互酬」のハズですが、現代においては、ほとんど「商品交換」のようになっています。

それは、買う側の意識が資本主義的になっていて、お守りが他の商品と価格競争の対象となっているからです。

また、法事や戒名の価格が、定価的に設定されたり、他の僧侶とオンラインで価格比較されたりしている状況も同様です。

 

業の法則と回向

 

仏教における「業(因果応報)の法則」は、独特の交換様式であると考えることができます。

この法則は、「善行」を行うと「功徳」が得られ、「善果」が得られる、という法則です。
普遍的法則に照らして、「善行」を行うと「功徳」という一種の債権が発生するわけです。
ですから、「善行」は生産的行為です。 

これは、形式的には「贈与と返礼」の形式の「互酬」に似ていますが、人格的関係ではなく普遍法則が担っている点で、異なります。

仏教には、「業の法則」を前提にして、「回向の論理」が発生します。
「回向」は、「功徳」を他人に振り替えるものですが、これは債権を他人に譲渡することに似ています。
この振り替え自体は「純粋贈与」ですが、「回向」自体が「善行」とされるので、新たに「功徳」と「善果」を得ることができます。 

「回向」という、具体的には何もしない「善行」によって「善果」が増えるので、「回向」も生産行為となります。

この時、まるで「功徳」という「債権」が、「回向」という「投資」的行為によって、「資本」のように「増殖」するものになっています。
「回向」できる「功徳」は、何とでも自由に交換できる「貨幣」に似ています。
「回向」の論理は、市場経済の影響を受けて生まれたのかもしれません。

 

金利と宗教

 

この節と次の節では、増殖と金利と供養の関係について考えてみましょう。

利息というのは、市場経済において、債務や債権が「増殖」することです。

日本では、奈良時代から、初穂として神に捧げ倉庫(=神社)にしまわれていた種子を、種蒔きの時に貸し、収穫期に「利子」をつけて返済させる「出挙」という制度がありました。
つまり、自然の「増殖」が「利子」の根拠になっていたのです。

ちなみに、プロテスタントが利子を認めた時も、利子は農業にとっても収穫と等しい、という論理でした。

この観念には世界的な共通性があり、「利子」は、自然の豊穣を各としたアニミズム的、多神教的な宗教から生まれたのです。

自然の「増殖」は本来、「純粋贈与」です。
ですが、共同体がこれを神との「互酬」として考えると、「増殖」の根拠は神なので、「利子」は神に「返礼」すべきものでした。

日本の中世の寺院は、徴収した「初穂」を元手に金融業を始めました。
日本では、中世前期においては、寺院に限らず、神仏と関連する立場の人が商業や金融業を発達させました。
本来、神のものである「増殖」=「利子」を取ることが認められるのは、神仏関係者のみだったのです。

こうして、貸し手である寺院と借り手は、「商品交換」の関係になったのです。
つまり、自然が持つ「増殖力」を金融資本の中に置き換えて、合理的に法則化したのです。 

これによって、自然の中にあった「聖性」は、社会の中にある「貨幣」に代替されました。

  

一神教と利子、供養

 

「利子」が多神教的豊穣信仰から来ているのに対して、一神教は「利子」を認めない傾向があります。

純粋な一神教であるイスラム教は「利子」を認めませんし、ユダヤ教も旧約ではユダヤ人に対しては「利子」を認めません。

キリスト教も、本来は「利子」を認めていませんでしたが、ヨーロッパ中世の市場経済の浸透と共に認めるようになりました。
これは、キリスト教には三位一体という多神教的な要素があったからでしょうし、天使や聖母の神性のようなオリエントに由来する多神教的要素を徐々に認めるようになったこととも対応します。 

一神教には、存在を固定する傾向があります。
「利子」という「増殖」を認めないこともそうですし、一つの神が多数を生成することも認めません。
これは、言葉の意味を固定し、可変性のあるイメージを嫌うことにもつながりますし、死者の地位を固定することにもつながります。

ですから、イスラム原理主義者が、アフガニスタンの大仏(イメージをともなう偶像)を破壊することと、高利子経済の象徴だったNYの世界貿易ビルを破壊することは、つながっています。
CDOやCMOなどの実体経済から遊離した金融商品が主役を演じたアメリカの金融資本主義は、イスラム教から見れば偽天使達が舞うエセ魔術宗教なのです。 


また、供養は、死者の地位を変えるものです。
先祖信仰は死者を祀ることで浄化し、その地位を上げていきます。
仏教における追善供養も、浄土での先祖の修行を進めさせます。 

それに対して、イスラム教は、死者の運命は生前の行いによって「天国」か「地獄」の二者択一で決定されるので、供養の意味を認めません。

キリスト教は、中世になって、「煉獄」という「天国」と「地獄」の中間的な世界、罪滅ぼしをする世界を導入し、追善供養とほぼ同じ「とりなしの祈り」が認められるようになりました。

つまり、自然の増殖、利子の観念、資本主義の発達、死者の供養、言葉やイメージや価値の増殖は、一体なのです。

 

コミュニティとアソシエーション

 

柄谷は、「互酬」を担うのが「共同体(コミュニティ)」であるのに対して、「第4の交換様式」を担うのは「アソシエーション」であると考えます。

実は、伝統的な宗教儀礼には2種類のタイプがあって、どちらの組織が行うかによって分類できるのです。

1 コミュニティ儀礼  :常住神の祭祀:日常的な秩序と関わりが深い
2 アソシエーション儀礼:来訪神の祭祀:非日常的な死と関わりが深い

1は普通の神社の祭祀などで、「共同体(コミュニティ)」の組織が担います。
共同体の日常的な「秩序」と結びつきが強い祭祀です。
安らかな氏神・先祖霊などを祀ります。 

一方、2は特別な「結社(講、組、アソシエーション)」の組織が担います。
年に一度、外部から神霊を招くような祭祀で、「豊穣」と結びつきが強いものです。
秋田のナマハゲや南西諸島のアカマタ・クロマタのような荒々しく非日常性の高い先祖霊・死霊などを招きます。 

「コミュニティ」組織は、どこどこに住む何々家の長男で、村の役職は何々で、といった地縁・血縁をベースにした組織です。

これに対して、「アソシエーション」組織は、個々人が平等につながります。
存在するのは年齢の差だけで、共同体の人間関係とは無縁です。 

ちなみに「無礼講」というのも「アソシエーション」で、この言葉の意味は、通常の共同体や会社などの組織の関係とは無縁の関係の組織という意味です。

成人式などの通過儀礼、来訪神的な先祖儀礼、死に関わる仮面儀礼のような儀式は、「アソシエーション」組織が担います。
つまり、日常の秩序とは異なる、外部的な、自由な、創造的な、聖なるものと接する場合は、人は「コミュニティ」によって規定された人間としてではなく、「アソシエーション」が保障する開かれた人間して対面するのでしょう。 

このように、世界的に伝統文化では、「コミュニティ(地縁・血縁組織)」と「アソシエーション(結社組織)」に比較的はっきりした区別がありました。
世界各地の伝統文化の中には、日常の共同体組織とは別に、多数の結社組織を持つ多層的な社会構造を持つものがあります。 

 

ちなみに、現在日本では、成人式は地域共同体(コミュニティ)ベースで行われているので、ここに何が足りないか、なぜ荒れるのかは明白です。

 

宗教の本質と交換

 

宗教や神秘主義の核心や極限には、人間の意識の及ばない自然や無意識の創造力があると思います。
これに直結する交換様式は「純粋贈与」であり、宗教的ではこれは神仏からの「純粋贈与」とされます。 

共同体は「互酬」交換に従って儀礼的に「返礼」を行いますが、本来「純粋贈与」には「返礼」が必要ありません。

あえて言えば、ただ自然や無意識の創造力に「感謝」し、それを「受容」し、人間がそれを「抑制」せず、自身もそれによって変化することを否定しないことが、「純粋返礼」でしょう。

これは形式化される以前の経済・交換行為であり、ここに宗教や救い、神秘主義思想の本質があると思います。

交換は、言語やイメージによるコミュニケーションとしても存在します。
形になった「概念」や「イメージ」を交換するコミュニケーションには、常にその形に収まり切れない部分を潜在的に伴っています。 

それは、「市場交換」、「再配分」、「互酬」という形の交換が、「純粋贈与」を潜在的に伴っていることと同じです。

中沢は、「純粋贈与」が行われている時、モノや形や個体性が壊されていったり、当事者の人格的アイデンティティが消滅していくと言います。
これは、非日常的な一種の宗教的体験、神秘体験です。

神秘主義は「魂」と「霊」を区別しますが、「霊」は、この形に収まり切れない交換を担う部分でしょう。


*主な参考書
・「世界共和国へ」柄谷行人
・「帝国の構造」柄谷行人
・「遊動論」柄谷行人
・「愛と経済のロゴス」中沢新一
・「対称性人類学」中沢新一
・「緑の資本主義」中沢新一



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