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前方後円墳はヤマト王権一元論を証明しない?

以前、下記の投稿をしたように、私は、ヤマト王権一元論に基づく日本古代史の通説を疑っています。

文献学であれ、考古学であれ、証拠がないにも関わらず、記紀が捏造したヤマト王権一元論を信用して、その先入観に沿って、歴史を無理やりこじつけているところが多々あるのではないかと感じています。

ですから、私は、九州王朝説などの様々な異説に興味を持っています。

歴史は、勝者の都合の良いように作られます。
学校で習う、明治維新の勝者が作った薩長史観がウソであることは、資料がたくさん残っているので、少し勉強すれば分かります。
日米戦争の勝者が作った東京裁判史観、反日自虐史観についても同様です。

ですが、近畿天皇家=藤原氏が作った記紀史観については、中国史書とははっきり矛盾するのでウソであることは明らかですが、国内には比較できる信頼できる資料がありません。

それで、今回のテーマは考古学が中心です。

多くの人によって、ヤマト王権一元論の根拠となっているのは、前方後円墳の存在です。
大和に最古の定形型前方後円墳が存在し、河内・和泉に最大級の前方後円墳が存在し、そして、日本各地に前方後円墳が存在するという事実です。
これらは、ヤマト王権が日本各地を政治的に支配した証拠だと。

この投稿では、私にとってはまったく浅学な分野ではありますが、この前方後円墳がヤマト王権一元論を証明するという通説(「前方後円墳体制」説)への疑問をテーマとします。

とても長い文章になってしまいましたが。


疑惑に思う通説を具体的に書けば、

・大和の勢力が成長してヤマト王権=倭国という列島の宗主国を作った
・一系統の王統がヤマト王権を支配した
・ヤマト王権が日本各地を政治的に支配下に置いて古墳を作らせた
・古墳の大きさと形は、ヤマト王権の身分制を反映している
・邪馬台国は大和(纏向)にあり、ヤマト王権に発展した、あるいは、ヤマト王権そのものだった
・卑弥呼が魏からもらった三角縁神獣鏡などの威信材を、ヤマト王権が各地の首長に配布した

などです。

これに対するオルタナティブな仮説は、

・ヤマト王権は外来の広域連合が作った
・ヤマト連合の初期の王(盟主)は、複数勢力が輪番で共立されたり、併立した
・古墳は同盟、あるいは、文化現象を示すに過ぎず、複数の中心があった
・古墳の大きさと形は、様々な要因を反映している
・邪馬台国(倭国)は大和にはなかった
・三角縁神獣鏡は日本製で、威信材ではなく、辟邪のために購入された

などです。



纏向遺跡とヤマト連合


弥生時代の大和地方には、首長墓と見られる大型墳丘墓が存在せず、鉄器も大陸産青銅器も出土が少なく、銅鐸の出土も近畿の中で少ない地域です。
つまり、大和には、大首長、王が存在せず、近畿の中でも後進地域であったのです。

そして、外来土器からは、伊勢、近江、東海といった東方とのつながりが深かったことが分かっています。

纏向遺跡は、ヤマト王権の最初の拠点である、と多くの学者が考えています。
纏向は、3C初め頃、何もない扇状地に、突如、計画的に作られた都市です。
農業関係の出土物がないことから、政治・宗教に特化した都市であり、物流のネットワークでもあったと推測されています。

また、纏向が作られた後、唐古・鍵遺跡などの大和の拠点集落は一旦、衰退しています。

そして、ヤマト王権は、ごく短い間に、全国になんらかの影響力を及ぼす勢力になりました。

これらの事実から、寺沢薫(「卑弥呼とヤマト王権」2023)は、纏向=ヤマト王権は、地元勢力が発展して作ったのではなく、外来の連合勢力によって作られたと推測しています。

実際、纏向では外来土器が多く(15%ほど)出土し、出土場所によっても異なりますが、その地域別の割合には、下記のようなデータがあります。

・東海43%、河内13%、阿讃13%、山陰11%、近江8%、吉備7%…(家ツラ地区構、橋本・2021)

弥生時代と同じく東海地方が多いのですが、そこに日本海側が加わっています。
ですが、北九州の土器がほとんどないことは、注目すべき点です。

また、纏向で生まれた前方後円墳は、東瀬戸内の墳形、吉備の特殊壺形・器台形埴輪、東海の壺型埴輪、北九州の鏡の副葬などの影響を受けています。
つまり、墓制においても、各地の文化の影響を受けています。

このように各地の影響、交流があることから、纏向=ヤマト王権は、広域連合によって作られた可能性があります。


上記の出土土器のデータでは、纏向は東海地方と交流が強く、北九州とは交流がほとんどありません。
また、纏向では、銅鏡など中国系金属器の出土がありません。

これらの事実は、橿原考古学研究所で長年に渡って纏向を発掘してきた関川尚功(「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」2020)が言うように、纏向の交流範囲は邪馬台国のそれとまったく異なるので、纏向が邪馬台国であるとは考えられません。
ちなみに、邪馬台国畿内説では、敵対していた狗奴国は東海勢力とされますが、東海勢力との戦争の痕跡はありません。

また、関川と同じく、橿原考古学研究所で研究していた坂靖(「大和王権の古代学」2020)も、同様の見解を示しています。
ですが、楽浪系土器が北九州に集中し、松江以東にはまったく認められないこと、そして、「魏志倭人伝」には卑弥呼の居所には宮室・楼観・城柵が設けられていると記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることができないこと理由に加えています。


ヤマト王権(連合)と北九州勢力との関係については、以下のような諸説が主張されています。

・北九州勢力が東遷してヤマト王権になった
・北九州勢力がヤマト連合の主導的なメンバーの一つだった
・ヤマト連合が北九州勢力を制圧して半島の交易権を掌握した

ですが、北九州勢力は、土器を持ち込んだ移住者がほとんどいないことから、東遷しておらず、連合のメンバーとして参加もしていないと、思います。

また、村上恭通や藤田憲司が指摘するように、古墳時代前期になっても鉄器の出土量は北九州が圧倒的に多く、また、半島に畿内の製品が出土しないという事実から、半島交易は依然として北九州勢力が掌握していたと考えられます。
ですから、ヤマト連合が北九州を制圧したことも考えられません。

そしてヤマト王権が北九州の鏡文化を受け入れているので、両者は敵対的ではなかったと考えられます。

ヤマト王権の王、盟主の一人に、北九州の伊都国の元王族がいた可能性があります。

弥生後期の伊都国のあった平原一号墓からは、伊勢神宮の八咫鏡と大きさも模様もそっくりな巨大な内行家文鏡が出土しています。
ちなみに、井手将雪は、この墓を神武天皇の母の玉依姫の墓に比定しています。
そして、奈良南東部のおおやまとの桜井茶臼山古墳から、ほとんど同じ鏡が出土しています。
ですから、桜井茶臼山古墳の被葬者は、伊都国の王統に属する可能性があります。
 倭国大乱の時にでも伊都国から逃げてきていた王族が、ヤマト連合によって担がれたのかもしれません。

以上から、私は、北九州(の一部)勢力は、ヤマト連合と同盟、あるいは、交易パートナーの関係にあったのだろうと思います。


伊勢遺跡と近江連合


纏向遺跡と似た遺跡に、近江の伊勢遺跡があります。

伊勢遺跡は、弥生時代最大級の遺跡で、纏向が誕生する直前頃まで、近江の野洲川下流域に存在しました。

何もない場所に計画的に作られた、宗教・政治に特化した場所という点で、纏向と伊勢遺跡は似ています。
そして、どちらも弥生後期における大型銅鐸圏とされた地域のほぼ中心部にあり、各地への交通の要衝です。

守山弥生遺跡研究会によれば、銅鐸の変遷を考えると、伊勢遺跡が造営された時期は、銅鐸が5系列から2系列(近江の大福式銅鐸を母体にした「近畿式」と尾張・三河の「三遠式」)に統合される時期に当たります。
そして、伊勢遺跡の隆盛とともに、「近畿式」に統合されました。

また、伊勢遺跡の近くにある、大岩山丘陵地の小篠原遺跡は、近畿・三遠式銅鐸の最多(24個)の出土地で、近辺に製造地があったと推測されています。

ですから、伊勢遺跡は、銅鐸祭祀の統合によって、弥生後期における大型銅鐸圏の政治を統合する場所であったと推測されます。

そして、伊勢遺跡の近くには、下長遺跡、下鈎遺跡といった遺跡郡があり、首長の居館や、集落跡が発掘されています。
この地域は、当時の日本で、最も農業生産力のあった地域です。
ですからここには、伊勢遺跡を主宰する国があったと考えられます。

また、伊勢遺跡の近くに聖山の三上山があります。
三上山は、三輪山と同様に古くからの神体山であり、古事記には「御上祝(三上祝)」という神職が祀っていたことが記載されています。
上記した銅鐸の出土地も、三上山の麓です。

ですから、平田修吾(「纏向の夜明け・ヤマトに日は又昇る」2019)は、三上祝が伊勢遺跡の宗教上の主宰者であり、銅鐸の配布者であったと推測しています。

このように、近江の野洲の国を中心にして、当時の銅鐸圏の広域連合が存在したと推測できます。

ただ、この地域は、出土した土器から東海地域と交流が深かったことは分かっていますが、伊勢遺跡は、その宗教的性質からか、生活品の出土がほとんどなく、はっきりしたことが分かりません。


伊勢遺跡の建物は、中国に源流を持つ当時の最先端建築技術が使われ、日本最古の焼成煉瓦も出土しています。

伊勢遺跡の中核となる部分には、円形に配置された建物群と、その中心近くに方形に配置された建物群があります。

伊勢遺跡の円周上の建物は、発掘されているのはごく一部なのですが、円周状には20から30の建物が建っていた、もしくは、予定されていたと推測されています。

そのため、連合に参加した各地の国が、平等な立場を与えられ、合議的に運営されていたのではないかという推測もされています。

方形区画内の5棟は伊勢神宮の神明造りの原型であり、その二棟連立祭壇は伊勢神宮の式年遷宮の原型ではないかと推測されています。
また、円周上の建物の方は、伊勢神宮の心御柱を思わせる柱があって、その原型ではないかと推測されています。

また、伊勢遺跡の円形と方形の配置は、後の前方後円墳の後円部の上部にあった埴輪を配置した内方外円区画と似ています。

これらのことから、伊勢遺跡と後のヤマト王権とのつながりが推測されます。


伊勢遺跡には破壊された形跡なく、平和裏に放棄されたと推測されています。
そのため、伊勢遺跡の機能が、纏向に移動したのではないか推測する研究者もいます。
つまり、近江連合がヤマト連合に発展したのだと。

ちなみに、記紀には各地の討伐の物語が記されていますが、近江の討伐物語はありません。

ですが、伊勢遺跡と纏向の間には、大きな断絶も存在します。
墳墓が「方形周溝墓」から「前方後円墳」に変わり、祭器が「銅鐸」から「銅鏡」に変わったからです。

この変化の原因には、2C後半に起こった大震災や洪水によって、従来の祭祀が失墜して放棄せざるをえなかったことがあるのかもしれません。


前方後方墳体制とヤマト王権一元論


都出比呂志(論文「日本古代の国家形成論序説」1991)が提唱した「前方後円墳体制」は、前方後円墳を象徴とするヤマト王権の国家体制に関する学説です。

これによれば、ヤマト王権が決めた階層的な身分制度に応じた大きさ、形態の古墳を、ヤマト王権が全国各地の首長に作らせました。

また、三角縁神獣鏡に代表される鏡などの威信材を、ヤマト王権が独占的に入手、または、製作し、それを分配して、それが副葬されました。

この古墳時代の国家体制は、律令体制という本格的な中央集権的国家体制への移行段階として捉えられています。

「前方後円墳体制」という言葉は都出が提唱したものですが、彼以前から、小林行雄(「古墳時代の研究」1961)、西嶋定生(論文「古墳と大和政権」1961)らの先駆となる説が存在しますし、彼以降にもこれに沿った説が提出されていて、これが通説になっています。

ちなみに、記紀などの文献には、このようなことは書かれていません。


ですが、異なる意見を持つ学者や在野の研究者もいます。

「前方後円墳体制」は、ヤマト王権が政治的支配力によって各地の墓制を強制するものですが、当時、そのような強制をするほどの力があったのか、あるいは、その後もそれほど強力な中央集権的体制は存在しないではないか、といった疑問も出されました。

それを受けて、都出(「前方後円墳と社会」2005)は、初期のヤマト王権と地方の首長との関係は、絶対的、一方的な関係ではなく、「相互認証」によると主張するようになりました。
地方の首長の側も、ヤマト王権に認められたことを地元に示すメリットがあったということでしょう。

ヤマト王権と地方の首長たちとの関係については、学者によって、様々なグラデーションが存在します。

政治的な支配関係を主張する者もいれば、同盟的関係であったとする者、あるいは、単なる交易のパートナーで、古墳は文化現象であったと主張する者もいます。
もちろん、時期や地域によっても違いがあるとも考えられますが。

例えば、白石太一郎(「倭国誕生」2002)は、ヤマト王権の首長と地方の首長との間にあったのは、せいぜい同盟的な関係だったであろうと主張しています。

また、菅谷文則は、地方の古墳は、見様見真似で作ったにすぎず、副葬品の鏡も自主的に購入(交易)したものだと主張しています。
そして、古墳を理由に政治的統一を考えるなら、なぜ銅鐸の段階で考えないのかと疑問を呈しています。

また、金井塚良一は、弥生時代には畿内発祥の方形周溝墓が、広域(主に東方にですが)に広がったにもかかわらず、これを「方形周溝墓体制」と呼ばず、文化現象と捉えているのに、なぜ前方後円墳については政治的体制とするのか、と疑問を呈しています。

私は、「前方後円墳体制」は、記紀、特に崇神紀の内容が正しいという先入観から生まれている部分があるのではないかという疑惑を持っています。

以下、「前方後円墳体制」の疑問について、具体的にまとめます。


初期の前方後円墳が多い地域


古墳期全体では、前方後円墳の数が多い都道府県は、1位が千葉、2位が群馬、3位が茨城であり、奈良は第4位です。
数で言えば、関東が中心なのです。

また、近藤義郎編(「前方後円墳集成」1991-4)によれば、古墳時代を10期に分けて、その 1期(最初期)に一番数が多い地域は、1位が筑前、2位が播磨であり、大和は3位です。
ですから、最初期においても、大和は中心ではありません。

これらは、前方後円墳体制を否定する根拠にはなりませんが、疑問を抱く事実ではあります。

ちなみに、この1期のうちに、北九州から東北まで前方後円墳が作られています。
ですが、この時期のヤマト王権の直接の支配地は、おおやまとを越えることはないと推測されます(坂靖「大和王権の古代学」2020)。

ですから、このごく短い期間で各地に前方後円墳が作られたということは、ヤマト王権が支配領域を広げるとともに前方後円墳が広がったのではないことを示しています。
ヤマト王権は、最初から広域連合だったとか、ヤマト王権以前から広域の交易ネットワークが存在したことを示しているのでしょう。

3C後半までの最初期の古墳は、ほぼ畿内(大和、山城)、瀬戸内西部(播磨、讃岐、伊予など)、北九州に限るので、白石太一郎(「古墳から見た倭国の形成と展開」2013など)は、ヤマト王権がこの地域の勢力に主導されて始まったと主張しています。

ですが、纏向でほとんど土器の出土がない筑紫に、初期の前方後円墳が多いのは不思議です。

また、3C末から4Cにかけての100年間で、もう少し細かく考えてですが、発展した地域(吉備西部、筑紫南部、豊国北部、伊予中部、伯耆西部、播磨東部、丹後、丹波、若狭、尾張南部など)に巨大前方後円墳がなく、逆に、それらより発展していない地域(日向、米沢、吉備東部、播磨西部、摂津西部、山城北部、能登、越中央部など)にあるという不思議な事実があります。

松木武彦(「古墳とは何か」2023)は、前者の地域の中には、ヤマト王権の最高級の首長たちがいて、大和に古墳を作ったから、地元に作らなかったのだろうと解釈しています。
これは、前方後円墳体制を前提とした解釈です。


前方後方墳の大きさ


前方後円墳体制は、古墳の大きさが大王や首長の身分を示していたと主張します。

ですが、川内眷三らによると、前方後円墳の水を湛えた周濠には、灌漑、治水、あるいは、水運の目的がありました。

例えば、大仙陵古墳をはじめとした百舌鳥古墳群の7つの古墳の周濠は、狭山池から環濠集落を経て、大阪湾まで流れる水路の一部であり、それは治水と灌漑、水運を目的としていました。
こういった土木工事を行ったらしいことに関しては、記紀にも書かれています。

また、地質学の専門家の梅田甲子郎によれば、多くの巨大古墳は、平地に土を盛って作ったのではなく、自然の丘陵を成形して作られました。

そして、全国の多くの古墳が、なんらかの二至二分線と関係した位置にあります。
例えば、最古の纏向型前方後円墳である石塚古墳は三輪山の立春線上にあり、北九州最古級の前方後円墳である石塚山古墳は苅田山の冬至線上にあって、暦の観測が行われました。

ですから、前方後円墳は、単純に身分を示すのではなく、まず、その地の灌漑、治水、水運の目的があったものがあり、それに適した大きさが求められたのでしょう。
また、これに利用できる、適切な位置にある自然の丘陵をもとに、それに見合った大きさになったと考えられます。


また、弥生時代の北九州では、奴国や伊都国で、弥生中期頃から王墓が作られています。
そこには、中国皇帝からの贈り物と思われる瑠璃壁や、三種の神器などが副葬されているものがあります。

ですが、吉備のように巨大墳墓は作られませんでした。
3C中頃からの初~中期の古墳期になっても、北九州では畿内のように巨大古墳が多く作られていません。

ところが、5C中頃からの中期後半~後期には、畿内の古墳は規模さ小さくなりしたが、逆に北九州では、岩戸山古墳(八女市)のように大きな古墳が作られるようになりました。

青松光晴(「古墳の始まりから前方後円墳まで」2019)は、畿内は中国の北朝(北魏・隋など)の墳丘墓の動向と、北九州は南朝(宋など)の動向と一致していると指摘しています。
つまり、それぞれが親しい中国の王朝が、墳丘墓を大きくしたり、小さくしたりすると、それに合わせているのではないかというのです。

また、原島礼二も、中国や韓国と交流が深かった九州や出雲、和歌山では大型の古墳を作らなかった、と似たような主張しています。


また、6C末から7C初めの後期の古墳期に作られる大型の前方後円墳は、そのほとんどが関東になります。
大きさが身分を示すのなら、関東に政権の中枢が移動したことになります。

白井久美子は、「前方後円墳の理解―規模地域展開―」で、東国の前方後円墳は、ヤマト王権の思惑とは別に整備され強化された、と主張しています。


前方後円墳の形態と起源


前方後円墳体制は、古墳の形が大王や首長の身分を示していたと主張します。
そして、前方後円墳は大和発祥だと。

前方後円墳が大和発祥であると言うには、他からの影響を受けてはいても、一旦、大和で集約されて独自に完成された形が、それをモデルにして各地でコピー、変形されたという事実が必要です。
通説では、纏向で発展して完成した、最初の「定形型」前方後円墳である箸墓古墳がその焦点とされています。

前方後円墳の墳形は、まず、円形周溝墓から一部の溝を途切れさせた通路(陸橋)が作られ、それが外側に伸び、通路の先端が周溝で区切られて突出部となり、それが高さを増して、「定形型」が完成したと推測されています。

通路が付いた「陸橋付き円形周溝墓」は、讃岐、阿波などの四国東部が発祥です。

纏向では、その影響を受けて、3C前半に、石塚古墳に始まる、後方部が低く短いことが特徴の「纏向型」前方後円墳(寺沢薫が提唱)が作られました。

この「纏向型」前方後円墳を、前方後円墳(古墳)と呼ぶかべきかどうかは、学者によって分かれていますが、これは定義の問題、どこに時代区分を置くかの問題です。

そして、それらが発展し、3C後半に、箸墓古墳で「定型型」前方後円墳が完成したとされます。

ですが、この「纏向型」とほぼ同時期に、「讃岐型」前方後円墳や、那珂八幡古墳に始まる「九州型」前方後円墳があります。
これらのどれがどれに影響を与えたのか、それとも独自に発展したものか、断定できません。

藤田憲司(「邪馬台国とヤマト王権」2016)は、大和では、石塚古墳に至る過程が認められないのに対して、香川県や徳島県では、円形周溝墓から前方後円墳への過程を辿ることができ、大阪府下でも、方形周溝墓から前方後方墳への過程を辿ることができる、と主張しています。

北條芳隆(「古墳時代像を見直す」2000)は、前方後円墳は東瀬戸内で多元的に出現したと主張しています。

このように、先駆的な前方後円墳までは、纏向の中心性は疑わしいものです。


ですが、箸墓古墳が最古の「定形型」であることについて否定的な見解は見つかりません。
だとしても、このことが直ちに、各地の「定形型」前方後円墳が、ヤマト王権の政治力によって作られたことを意味するわけではありません。

前方後円墳体制では、地方に存在する「変形型」の前方後円墳は、「定形型」より身分が低い墓であるとします。
ですが、菅谷のように、地方の主体的な独自性の表現であると異論を唱える学者もいます。

前方後円墳体制では、「前方後円墳」>「前方後方墳」>「円墳」>「方墳」の順で身分が高いと主張します。

これについても、藤田は、「方形周溝墓」が主流だった地域では、それが「前方後方墳」となり、その後に前方後円墳に入れ替わった、と主張します。
そうであれば、前方後円墳の方が「前方後方墳」より身分が高いとは言えません。


前方後円墳の死生観


前方後円墳でどのような儀礼が行われたか、前方後円墳がどのような宗教観、死生観に基づいて作られたかは、断定できません。

多くの学者は、前方後円墳で行われたのは、「首長霊信仰」を基にした、首長の神化、あるいは、首長継承の儀式だと推測しています。

そして、古墳や儀礼の共有は、ヤマト王権の擬似同族的統合の象徴だと。

ですが、これはあくまでも一つの推測に過ぎません。


北條芳隆(論文「大和原風景の誕生」2009)は、前方後円墳について次のように推測しています。

弥生時代中期末から後期初めにかけての気候の変動によって、増加する人口を支えるために、耕地面積を増やす必要が生じました。

そのため、未耕地が少ない畿内より西の地域では、丘陵墓を集落から離して山間部に作り、「垂直」の観念のある山中他界観念が生まれました。

一方、未耕地が多い畿内から東日本では、集落の近くに方形周溝墓を作ることができ、同一平面上で周濠によって区切られた他界観念が作られました。

前方後円墳はこれら東西のハイブリッドで、後円部は集落の近くに築かれた人工の山なのです。
纏向の箸墓古墳では、通路である前方部から後円部を見て、さらにその先に実際の山並みが見えます。


前方後円墳の形については、西嶋定生(論文「古墳出現の国際的契機」1966)以来、中国の天円地方の思想の影響があると推測する人も多く、それが正しければ、石室のある後円部は天を意味します。

後円部は、上記したような日本的な神奈備山の象徴である上に、中国的な天円思想や蓬来山の象徴が重ねられたのかもしれません。

埋葬者は、後円部の上方にある竪穴式石室に埋葬されます。

松木は、前方部は、スロープを登って後円部に至るように設計されていた点を重視します。
つまり、埋葬時には、上方に向かって登っていく形になります。

ですから、どのような世界観に基づいているにせよ、前方後円墳は、「上」なる世界を重視するものだったのでしょう。
前方後円墳を受け入れた地域は、この他界観を受け入れたことになります。

ですが、古墳期の他界観は、以下に紹介するように、これ一色ではありません。


横穴式石棺・装飾古墳の死生観


4C以降、北九州からは、横穴式石室という形式が生まれました。

これは、地面に近い高さに被葬者を埋葬します。
つまり、他界は「上」なる世界ではないのです。

先に、前方後円墳の垂直の他界観は、北九州方面から伝わったという説を紹介しましたが、ここにおいては、再逆転したワケです。

そして、石室に食器のような日常品が置かれるようになりました。
石室は、死者が住む世界でもあるのです。

また、北九州には、石室に舟や馬などの絵が描かれた「装飾古墳」が多く存在します。
青松は、これらには海上他界観が表現されていると解釈しています。
そして、珍敷塚古墳壁画には、月の支配する夜の世界へ船出する様子がはっきりと描かれていると。

また、4C中頃から、九州の熊本、佐賀、宮崎では、「舟形石棺」が使われるようになりました。
もし、これが舟を模したものなら、「装飾古墳」の絵とも一致します。

阿蘇のピンク石を使った石棺も作られましたが、これは阿蘇山を神聖視していたからでしょう。
実際、「隋書倭国伝」に、倭国は阿蘇山を祀っていると書かれています。


「横穴式石室」や「装飾古墳」や「舟形石棺」のような北九州の墓の特徴は、首長霊信仰や畿内の前方後円墳の他界観と相入れず、首長の神性に関わるものではありません。

「横穴式石室」は、6Cには、畿内を含めて各地に広がりました。

「装飾古墳」は、山陰地方や関東地方の沿岸部にも点在していますので、これらの地域は、北九州の影響圏だったのでしょう。

阿蘇ピンク石で作られた「舟形石棺」も、5C後半から、畿内などでも使われるようになりました。
これをもって、九州勢力が畿内に東征したと主張する研究者もいます。

このように、北九州の墓制が各地に広がったことは、北九州も古墳文化における一つの中心だったと言えます。

首長霊信仰は、君主は天帝の子であるという中国の「天子」の思想とは異なります。

北九州のように、中国の冊封下にあって、中国をモデルにした国作りをしてきた国では、首長霊信仰に基づく前方後円墳の死生観を受け入れなかった可能性があるのではないでしょうか。

松木は、九州北部は、弥生時代から、副葬物で人のランクづけをしていますが、人物を神格化するような意図がほとんどなく、古墳時代になっても巨大な前方後円墳は作られないと書いています。

例えば、倭の五王は、漢字一字の中国式の名を持ち、中国の天子に将軍の称号を求めてこれを得ています。
通説では、倭の五王がヤマト王権の王だとしますが、彼らが首長霊という神的存在の儀礼のために河内や和泉の巨大古墳を築いたのなら、ここには矛盾があるのではないでしょうか。


三角縁神獣鏡と威信材の配布


前方後円墳体制では、同笵鏡(同じ鋳型で作られた鏡)である三角縁神獣鏡などの副葬される威信材を、ヤマト王権が各地の首長たちに配布したと主張します。
これは、小林以来の説です。

この説は、多くの仮説で成り立っています。

・邪馬台国は大和にあった
・三角縁神獣鏡などの魏鏡は卑弥呼が魏からもらったものである
・三角縁神獣鏡などの鏡は威信材である
・威信材はヤマト王権が独占的に入手、ないし、生産した
・ヤマト王権が威信材を各地の首長に配布して副葬された

ですが、いずれの仮説も、きわめて疑わしいものです。

三角縁神獣鏡につては様々な説がありますが、中国での出土が1面もなく、成分分析から日本、もしくは、半島産という説があるので、魏鏡とは言えません。

また、藤田は、全国の古墳の埋葬状況を見ると、卑弥呼の鏡の候補とされる三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が、他の鏡よりも重視されていたとは思えない、と主張しています。

例えば、最古段階の三角縁神獣鏡を副葬した大和以外の首長墓には、前方後円墳がほとんどなく、最有力な首長の墓ではありません。

そもそも、三角縁神獣鏡は多量副葬されるケースが多いので、配布された威信材とは考えにくいのです。

藤田は、威信材とされる鏡や貝輪形石製模造品は、遺体の魄を封じ込める辟邪を目的として副葬されたと推測しています。

また、三角縁神獣鏡は全国で600枚以上も見つかっていますが、その中でも中国産の可能性が高いとされる鏡は、初期には九州から出土していて、その後に徐々に、中国地方、畿内、東国へと出土地が移っていきます。
ですから、これらをヤマト王権が配布したとは考えられません。

また、上記した菅谷のように、鏡は自主的に購入(交易)したものだと主張する学者もいます。


前期古墳群と4つの勢力


畿内の主要な古墳群は、その時期によって移動しています。
各古墳群の様子から、ヤマト王権(連合)の権力構造が推測されます。

3C末から100年ほどの間の古墳時代前期には、ヤマト王権の古墳は、奈良県東南部、三輪山近くの「おおやまと古墳群」にありました。

通説では、そこには、王を頂点にした身分の階層と対応した大きさの古墳群があると考えられています。
王と主要な6-7系統の首長が、そこに古墳を築いていたと。
これらの首長は、大和の各地、あるいは、大和外の各地の首長たちです。

ですが、論者によっては、ここは複数の墓域に分かれていたと考えています。
白石は、4系統の墓域を考えます。
「大和古墳群」、「柳本古墳群」、「箸墓古墳群」、「鳥見山古墳群」の4つです。

そして、彼は、ヤマト王権は連合政権であり、盟主を輪番的に共立したと推測しています。
つまり、ヤマト連合の政体は、一つの王統ではなく、盟主を担う力のある複数の勢力によって構成されていたのだと。

ちなみに、地方でも、古墳期初期には、連合する複数の集団の間を首長が移動するという説が唱えられています。


中期古墳群と2大勢力


4C後半頃からの古墳時代中期には、王墓はおおやまとを離れ、ほぼ同時期に、150m級の前方後方墳を含む4つの墓域が平行して存続しました。
奈良県北部の「佐紀古墳群」、南部の「馬見古墳群」、河内南部の「古市古墳群」、和泉北部の「百舌鳥古墳群」です。
また、吉備にも同クラスの古墳群が現れました。

墓域の移動の理由には諸説ーー別勢力の台頭、王族の分派、開拓を目的としてーーがあります。

中でも超巨大古墳を誇るのは、古市・百舌鳥の2つなので、白石は2つの勢力が交代で王(大王、盟主)を出したと考えます。

記紀を参照すれば、古市古墳群と百舌鳥古墳群は、応神・仁徳系と允恭・雄略系に対応しそうです。
両系統は、激しい後継者争いをしました。

そして、この中期の最初の天皇は、応神天皇です。
彼は実在性が疑われている神話的存在ですが、河内王朝の祖と考える研究者もいます。
彼が実在人物だとしても、神話化されているので、記紀の彼に関する記述の多くは捏造だと思われます。

宝賀寿男(「息長氏」2014)は、「上宮記」などから、応神天皇は、息長彦人大兄瑞城命の息子である、つまり、息長氏であり、入婿の王であると主張しています。
息長氏は、もともとは宇佐氏の支流で、九州から徐々に東方に移動してきた氏族で、この頃には河内あたりにいて、近江に至るのはその後であるのだと。

一方、坂靖は、ヤマト王権がこの時期に、複数の王が併立することで、おおやまとから徐々に、大和、河内、和泉へと支配地を広げたと考えています。

まず、佐紀古墳群が造築された頃、おおやまと共に、2人の王が生まれ、連合していたが、その後に一体化して支配地を広げたと。

次に、佐紀、古市、馬見、おおやまとに、4人の王か王に準ずる有力者が生まれて、同様に支配地を広げたと。
馬見には地元勢力が見当たらず、古市、百舌鳥では古くからの地元勢力が衰退してから古墳群が生まれたので、それらを築いたのは地元勢力ではなく、ヤマト王権の勢力であると。


また、中期の前半には、地方の各地でその地域最大級の古墳が作られています。
藤田は、これは、その地域の実力、経済力を反映したもので、各地域が畿内と対等の関係であったと主張しています。

ですが、中期の途中から、ヤマト王権の中央集権化が進んだと考える学者が多くいます。
これは、記紀の雄略天皇の時代と考えられています。

確かに、5C後半以降は、畿内以外では、巨大古墳は作られなくなります。

ですが、雄略天皇の全国的支配を示す証拠とされている2つの鉄剣は、疑わしいものです。

埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、「今獲加多支歯大王」に仕えたと刻まれています。
また、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣には、「獲□□□鹵大王」に仕えたと刻まれています。

通説では、これらの名を「ワカタケル」と読み、「大泊瀬幼武」という名であった雄略天皇を意味すると解釈します。
そして、ヤマト王権がこの時、九州から関東まで支配下に置いていた証拠であるとします。

このような強引な解釈が定説になるのは、記紀信仰があるからだとしか、私には考えられません。

ところが、前者には、この王の宮が「斯鬼」であると刻まれていて、通説はこれを大和の「磯城」と解釈します。
ですが、雄略天皇の宮は泊瀬の朝倉宮ですし、稲荷山古墳の近くに「磯城宮」と呼ばれた神社があるのです。

ですから、「獲加多支歯」が雄略天皇というのは疑わしいのです。

また、通説では、雄略天皇が、「宋書」や「梁書」が記載する「倭王武」であることが間違いないとします。
「武」という一字が一致し、時代が大体同じで、広い地域を支配したとされるからです。

ですが、雄略は479年に亡くなったのに対して、倭王武は502年に武帝から授号されており、年代が合いません。
また、両者の業績も大きく隔たりがあります。
ですから、雄略=武説もきわめて疑わしいのです。

九州王朝説の論者の中(佃収)には、この「獲加多支歯」は、雄略ではなく倭王武であり、九州王朝が関東まで支配していた証拠であると主張する研究者もいます。
こちらも強引だと感じますが。

雄略天皇は、吉備氏、葛城氏を討つなどして、専制的な体制を進めたとされています。
当時、半島-瀬戸内海の交易ルートは、吉備氏、葛城氏、紀氏が担っていて、彼らは仁徳系に近い存在でした。
允恭系の雄略天皇が吉備氏、葛城氏を討ったのは、交易ルートを掌握しようとする目的があったのでしょう。

ですが、半島-日本海の交易ルートは、ヤマト王権とは別の勢力が握っていたと思われます。

また、菅谷は、各地の首長は、ヤマト王権から武器を配給されたとは考えられず、各国が独自の交易ルートで入手していたはずだと主張しています。


後期古墳群と統合された勢力


仁徳系と允恭系は、激しく争った結果、どちらも後継者を出せない状態になって、共倒れしました。
そして、6Cには、古墳は2大古墳群を離れ、有力豪族の本拠地に営まれるようになりました。

2大古墳群の後の最初の王は、淀川水系の摂津に古墳を作った、継体天皇です。

記紀では、継体天皇は応神5世とされていますが、その系図は示されていないので、信頼できません。
継体天皇の出自は、男系は近江(息長氏)、女系は越(三尾氏)で、妃は東海(尾張氏)などから娶っています。

当時、これらの地域では、大型の前方後円墳が作られていて、また、尾張型埴輪が出土する共通性があります。
継体天皇陵と推定される今城塚古墳は、阿蘇のピンク石の石棺を使っているので、九州王朝の系譜にある人物であると推測する研究者もいます。

継体天皇の前に王を依頼されて断ったのは、丹後系の人物ですから、どちらもヤマト王権とは別に半島交易を行った日本海・淀川水系の勢力です。
これらの地域はヤマト連合や同盟のメンバーだったとしても、非主流派でした。

継体天皇は、ヤマト入りして、瀬戸内海-大和川水系の交易ルートと日本海-淀川水系の交易ルートの両方を掌握した、近畿初の大王になったのでしょう。

継体天皇だけでなく、彼を継承した2人の息子は、男系も女系もヤマトの非主流派です。
この3人は、いずれもヤマト主流派のおおやまと系の妃を得て、入婿で王となっています。

そして、3人目の息子の欽明天皇は、仁徳系の妃の子なので、ここで初めて、女系でヤマト王統がつながったことになります。


以上のように、ヤマトの王統は、初期・中期は輪番制であったり、複数の王が併存したりで、一系統の王統はなく、しかも、入婿や女系での継承もあった可能性があります。

また、ヤマトの初期の王制は、「祭祀王(兄王・巫女)」/「政事王(弟王)」の二重王体制だった時期があると思います。
いわゆる、「エ・オト体制」、あるいは、「ヒメヒコ体制」です。

「隋書俀国伝」には明確にそう書かれていますし、「魏志倭人伝」の記述もそのように読めますので、九州倭国もそうだったのでしょう。

本来は、祭祀王の方が権威が高く、本当の王だったのですが、原則として子を持ちませんので、記紀は政事王の系譜だけを記したのでしょう。

実際、記紀を見ても、長子以外が天皇となることが多く、例えば、垂仁天皇の長子の五十瓊敷入彦命は、石上神宮で神宝を司る役を命じられたと記されているので、祭祀王だと考えられますが、彼のものとされる前方後円墳は、第二子で政事王である景行天皇のものとされる前方後円墳よりも大きいのです。(鳥越憲三郎「神々と天皇の間」1987)

また、おおやまと最大の箸墓古墳が、記紀が書くように倭迹迹日百襲姫命の墓なら、彼女は単なる皇女の巫女ではなく、祭祀王だったのでしょう。


前方後円墳の終焉


西日本では6C後半に、東日本では7C初めに、前方後円墳が終焉します。

通説では、一斉に作られなくなったのは、これがヤマト王権(推古朝)の政策で規制されたからだとします。

律令制という法律による中央集権化に向かう中で、首長間の疑似同族の象徴だった前方後円墳は、新しい国家体制にふさわしくないものになったのだと。

ですが、東西で時期にズレがあります。

また、九州王朝説では、この時期は、「日出処の天子」を名乗った九州倭国の多利思北孤が十七条憲法を制定し、律令制に向かった国作りを進めた時期であるとされます。
北九州では太宰府に多数の官僚が住む条坊都市が作られましたが、畿内にはそのような京がないので、律令制に向けた国作りはできません。

そして、九州王朝説では、河内・難波の討伐など、東方の支配を進めた時期でもあります。

ですから、九州王朝説からすれば、九州王朝が前方後円墳を終焉させたとことになるでしょう。

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