見出し画像

邪馬台国の大和説が成立しないことの本当の意味

関川尚功氏の「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」(‎梓書院、2020)は、考古学的に見て、邪馬台国大和説(纏向遺跡=邪馬台国の中心地説、箸墓古墳=卑弥呼の墳墓説)が成り立たないことを論証した書です。

関川氏は、橿原考古学研究所などで、50年に渡って大和の発掘調査の第一線で活躍してきた人物ですので、この書が出版された意味はとても大きいものです。

関川氏はこの書で、邪馬台国大和説(邪馬台国畿内説)は、考古学の実態を無視して議論が行われていると嘆いています。
つまり、非科学的で、無理筋だということです。


この投稿では、最初にこの書の内容を紹介し、その後、邪馬台国大和説が成り立たないことの裏にある、本当の意味について、九州王朝説の立場から書きます。

それは、考古学的にも、中国史書の記述からも、倭国が7C中頃まで北九州を動かず、近畿にはなかったという事実です。

これは、記紀(日本書紀、古事記)が、この史実を捏造によって隠したということです。
そして、日本古代史の通説は、記紀への信仰によって作られているということです。



畿内ではありえぬ邪馬台国


関川氏が、邪馬台国大和説が成り立たないことの考古学的な根拠としているのは、まず、纏向遺跡に関しては次の事実です。

・金属器の出土が非常に少なく、銅鏡などの中国の金属器の片鱗も見えない
・土器から見る交流関係は、東海地方を主としていて、北九州との関係もなく、これは邪馬台国の交流範囲と異なる
・環濠がなく開放的で防衛的性質がない

弥生時代の大和地域全体を考えても、次の事実があります。

・弥生時代後期の大和地域には大型墳丘墓は確認されておらず、それどころか墳丘墓自体がほとんど見られず、その空白地帯である
・弥生墳墓全体を見ても、副葬品はほぼ皆無である
・鉄製品が少なく、鉄器製造に関わる遺構や遺物が見つかっていない
・銅鐸の出土数やその生産においても中心地とは言えない
・大陸系遺物、特に中国製青銅製品の存在はほとんど確認することができない
・土器から見る交流関係は、東海地方を主として西は吉備当たりまでであり、北九州との関係もない

弥生時代後期には、北九州は質量的に別格として、瀬戸内、山陰、北陸でも大型墳丘墓が見られています。
ですから、3C中頃までの時代、大和はこれら他の地域と比べて後進的な地域です。
さらに、近畿の銅鐸圏の中でも、大和は後進的な地域です。

ですから、関川氏は、著名な考古学者の近藤義郎が述べた、考古学的に見ると大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤が認め難い、という主張を引用してこれに同意しています。


また、箸墓古墳に関して、考古学と文献学を交えた根拠となりますが、

・箸墓古墳は前期古墳の編年から4Cの古墳と編年されていて、3Cの卑弥呼の墓ではありえない

と主張し、近年、提出されている3C説について、過去に否定された年代観であり、根拠がないとします。

また、関川氏は、土器付着着物の理化学的な炭素年代法による分析に関しては、様々な年代の幅のある結果がでているし、測定試料の信頼性をしっかり考えるべきだと主張しています。
つまり、古墳の年代に対応するか疑われる試料を使って、無理に年代を古くしているということです。


他にも、

・邪馬台国大和説で狗奴国に比定されることが多い東海方面とは、交流が継続していて、争っている様子は窺えない
・邪馬台国の外交の窓口(外港)とされる北九州の伊都国・奴国との距離が離れすぎている
・三角縁神獣鏡を邪馬台国大和説の根拠とする説については、その魏鏡説には疑問があり、特定の副葬品だけを根拠にするのは考古学的に適当ではない

などを根拠としています。

また、関川と同じく、橿原考古学研究所で研究していた坂靖は、楽浪系土器が北九州に集中し、松江以東にはまったく認められないこと、そして、「魏志倭人伝」には卑弥呼の居所には宮室・楼観・城柵が設けられていると記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることができないことも、纏向が邪馬台国ではない理由に加えています。


邪馬台国論争には、証拠能力の本末を考えない議論や、解釈しだいの議論が多い中で、関川氏が論証しているものは、どれも本質的など真ん中の事項です。
ですから、邪馬台国大和説が成り立たないのは、客観的、総合的に言って否定しようがないと思います。

邪馬台国大和説の非科学的な論議を嘆いているのは、関川氏だけではありません。
東海大学教授で考古学者の北條芳隆や、明治大学教授だった考古学者の大塚初重も、科学的な論証が行われることなく、旧石器捏造事件と同じようなことが起こっている、とまで表現して嘆いています。
「意図的な捏造」!…だと。


考古学的に、倭国が7Cまで北九州にあったことは明らか


関川氏は、邪馬台国が大和にはなかったと主張しているだけで、どこにあったとは明言していません。
ですが、当時、考古学的に質量とも一番出土数が大きいのは北九州ですので、氏も北九州と思っているようです。

関川氏の著作と離れて、もう少し説明しましょう。

「魏志倭人伝」の記述からすれば、邪馬台国の都であるなら、1000人以上が住める住居と生活インフラがあり、そして、豊富な鉄や絹などの出土が必要です。
ですが、纏向やその周辺はこの条件を満たしません。
纏向は、弥生時代の過疎地に突然できた政治的な都市であり、大和地域の発展によって生まれたとは考えられません。 

また、「魏志倭人伝」には、卑弥呼の墓は直径が100歩で、「墳」ではなく「塚」と書かれているので、短里で計算して30-35mとなるので、箸墓古墳は大きすぎます。
また、「槨」がないと書かれていますが、通常、前方後円墳には「槨」があります。

ちなみに、北九州の日田のダンワラ古墳からは、魏の曹操の墓から出土した鏡とそっくりな金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土していて、時代も合致するので、この墓の被葬者は卑弥呼の可能性が考えられます。


これからが、本投稿のテーマになります。
おそらく、皆さんにとって、信じられない事実だと思います。

大和には、3Cどころか、7C後半まで、1000人以上の人が住める都市は見つかっていません。
ましてや、「飛鳥京」と呼べるような条坊都市はありません。

一方、弥生末期から古墳時代にかけての博多湾岸、太宰府周辺には、比恵・那珂遺跡、須玖岡本遺跡、三雲遺跡と、3000人以上の人が住んでいた都市がいくつか見つかっています。 

時代を下って、7C初頭になると、太宰府は「倭京」と呼べる日本最古の条坊都市になります。

考古学的には、7C前半まで、倭国の都がどちらにあったのかは、明々白々であり、議論の余地はありません。

記紀が記載しているようなヤマト王権の存在については、それを証明するような、都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料が存在しません。

近畿で最初の都と言えるのは、7C中頃の前期難波宮(難波長柄豊碕宮)であり、大和では7C末の藤原宮です。

※前期難波宮は、日本で太宰府の次に作られた条坊都市であり、8000人の官僚が住んでいました。
従来の近畿の都市に比較して桁違いの規模であり、いきなり現れた大勢の官僚の存在も含めて、近畿勢力の自然な発展としては考え難く、九州倭国が遷都したと考えられます。

そんなバカな! 大和に、飛鳥に、大和朝廷があった…そう学校で習ったではないか、あれはウソだったのか? とお思いでしょうか?
先入観なしに、自分で考えてください。


政治的な書としての記紀


邪馬台国大和説は、ヤマト王権(大和朝廷・近畿王朝)一元論という、記紀が作り上げた神話をもとにして、邪馬台国は大和になければいけない、箸墓古墳は卑弥呼の墓でなければいけない、という結論ありきの宗教のようなものだと思います。

その後の、倭国=ヤマト王権説も同じです。


歴史は勝者が書くものです。

記紀は、当時、権力を握った近畿天皇家や藤原氏の権威を確立するために創作された、政治的な史書であることは否定できません。

記紀史観は、明治以降に絶対化され、第二次大戦後のアメリカも、天皇制を利用する占領政策を行ったので、戦後の古代史の通説は、記紀の大筋は認めることになりました。
ただ、アメリカは、天皇の神性は否定したので、崇神天皇、あるいは、応神天皇より前はその実在性が疑わしいとされることになりましたが…

ですから、通説は、万世一系のヤマト王権というプロパガンダ書である記紀に対する信仰と、屁理屈と、保身でできていると感じます。


中国史書が語る倭国は7Cまで北九州にあった


以下、中国史書が倭国と日本について書いた内容をもとにして、古田武彦氏が先陣を切った「九州王朝説」の立場から書きます。

ほぼ、古田氏と彼の説を継承する古田史学の会のメンバーの見解だと思いますが、会のメンバーの間でも諸説がありますので、会の説でも、特定の誰かの説でもありません。


中国の各王朝の史書は、「東夷伝」の「倭国」の条などで、倭国の歴史について記録していますが、それらは基本的に旧書の記述を継承しています。

最後の「倭国」の条がある「旧唐書」に、「倭国は古の倭奴国である」と書かれているように、中国では、7Cまでの倭国は「後漢書」の「東夷伝」が記した「倭奴国」以来の同じ倭国であるという認識です。

歴代の史書には、倭国の位置については、朝鮮半島の東南の海の向こうという似た表現をしています。
そして、倭国が、例えば、北九州から近畿へといった長距離の遷都をしたとか、倭の宗主国が長距離を離れた国に変わったという記載はありません。

つまり、「倭奴国」や「邪馬台国」が北九州にあったということは、倭国の中心は、記紀の主張とは違って、7Cに至るまで北九州を動かなかったということです。

もちろん、倭国の一部の勢力が、近畿に移住や東征したことは、卑弥呼以前も以降も、何度もあったでしょうが、それはあくまでも一部の傍系の勢力です。

ですから、「宋書」が記す「倭の五王」のいる5Cの倭国も、「隋書」が記す「日出処の天子」のいる6Cの「俀国(大倭国(たゐこく)の碑字?)」も、北九州です。

ということは、これら「倭の五王」や「日出処の天子」の国をヤマト王権とする通説は、邪馬台国大和説と同様の無理筋ということです。


まず、「翰苑」に引用された「謝承後漢書」には、邪馬台国に関する最初の記述と思われるものがあります。
そこには、「憑山負海鎮馬臺以建都」、つまり、邪馬台国は海と山の間にあると記述されています。
大和には海がないので、大和説は成立しません。


「宋書」によれば、五王時代の倭国について、「海北を平ぐること九十五国」とあります。

これは、普通に考えれば、倭国は北九州にあり、その海を越えた北の半島南部を支配していたということです。
5C末から6C初頭にかけて、半島南部で多数の九州様式の前方後円墳が作られていることが、その証拠となります。

実際、五王最後の武王は、宋から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」という称号を認められています。
つまり、中国の冊封下で、半島南部の統治を認められていたということです。

また、そのすぐ後の「梁書」には、倭国の東北7千里に文身国があり、さらにその東5千里に大漢国があると記述されています。

倭国を北九州とすると、文身国は近畿の国、大漢国は関東の国と考えることができますが、倭国を近畿にすると、大漢国は海の中になってしまいます。

※倭の五王の名は、記紀には登場しません。
ですが、ヤマト王権一元論の記紀信仰を前提として、ヤマト王権の天皇に比定しようとする努力がなされていますが、そもそも無理筋なので定説には至っていません。
「三国史記」には当時の倭国が16回も新羅を攻めたとありますが、日本書紀には、雄略紀に半島の戦いの短い記事が3つあるだけです。


また、「隋書」によれば、「日出処の天子」を名乗った「阿毎多利思北孤」の都は「邪靡堆(やまたい)」で、「魏志」が言う「邪馬台」である、と記載されています。
「邪靡堆」への道のりは、九州に上陸してから海を渡ることがありません。
また、阿蘇山に対して祈りを行うとも。

ですから、この時代にも倭国が北九州を動いていないことが明らかです。

太宰府跡には、「紫宸殿」、「大裏」などの地名が残っていることが、この地が天子の都だったことの傍証となります。

多利思北孤が「天子」を名乗ったということは、隋の冊封下にない独立した皇帝であり、後でも書くように、元号も持っていたことを意味します。

※「隋書」に記載されている隋の使者の裴清(裴世清)が来朝した記事は、書紀の推古紀にありますが、推古天皇は女帝なので、多利思北孤に該当する天皇はいません。
そのため、天皇ではない厩戸皇子や蘇我馬子に比定したり、阿毎多利思北孤を個人名ではないとする説などが出されていますが、無理筋なので定説には至っていません。
実際には、聖徳太子は、多利思北孤をモデルにして彼を消すために創作された人物でしょう。
ちなみに「新唐書」は、おそらく日本側の情報をもとにして、多利思北孤を用明天皇としていますが、これでは年代が合いません。


もちろん、中国の史書にも間違いがあり、そのまま信じることはできませんが、第三者視点という点で、大枠の部分については、記紀よりかは信頼できるでしょう。

「日本書紀」の編集者は、中国の史書に通じていて、卑弥呼の記述も、倭の五王の記述も、多利思北孤の記述も、よく知っていたことは間違いありません。

ですが、「日本書紀」には、彼らの名は登場せず、その関連内容もほとんど合致しません。

※卑弥呼に関しては、「日本書紀」は、その名を明記せずに、神功皇后が卑弥呼であるかのようにほのめかしています。
あるいは、神功皇后が卑弥呼(山門の女酋)を討ったとも解釈できます。
どちらにせよ、時代が合わないのですが、神功皇后の存在には卑弥呼を上書きするという側面があります。

これは、「日本書紀」の創作と、中国史書の内容との辻褄合わせができなかったということでしょう。


「旧唐書」、「新唐書」における倭国から日本への王朝交替


「旧唐書」の「東夷列伝」には、「倭国」の条と別に「日本国」の条があるので、この2国を別の国と見なしています。
そして、小国だった「倭国」の別種の「日本国」が「倭国」を併合した、という注目すべき記述があります。

また、「新唐書」にも、小国の「日本」が「倭国」を併合してその国号を奪ったという記述があります。

※「新唐書」のこの部分に関しては、「倭国」が小国の「日本」を併合してその国号を奪ったという読みもあり、こちらが通説となっています。

ここに初めて、中国史書において、位置が大きく異なる王朝交替、あるいは、宗主国の移動の可能性が示されています。

「旧唐書」の記述は、702年の遣唐使(遣周使)の情報を元にしていると思われるので、その時点の都は藤原京ですから、「日本」が近畿を中心にした国であることは間違いありません。

「新唐書」では、「日本」への改名は670年と記されていて、その時点の都は大津宮ですから、やはり、「日本」は近畿の国です。

ただ、「日本」が倭国の別種というのは、「倭国」から分かれた国ということでしょうが、これがいつからあったのか、最初から近畿にあったのかは分からず、その解釈には諸説があります。

また、「旧唐書」は、「倭国」が「日本」に改名したという、上記とは異なる説も記しています。

両書の記述のあやふやさ、複数の情報の食い違いは、両国の統合過程が複雑だったことからくるのかもしれません。

つまり、両国の王統に婚姻関係があり、統合に際して二転三転するような王の継承争いがあり、「日本」は「倭国」の傍系の国だったにもかかわらず、その正当な継承を主張し、また、ずっと「倭国」だったと主張した、といった可能性です。


「続日本紀」に残された王朝交代の証拠


当時の歴史を見れば、この統合は、近江朝の頃から壬申の乱を経て大宝律令制定までの間の出来事であると推測されます。

そして、その原因と考えられるのは、白村江の戦いにおける「倭国」の敗戦と唐による北九州占領統治や、筑紫地震(678年)による「倭国」の衰退です。

*「日本書紀」には当時の記述として「筑紫都督府」という言葉が記載されています。
通説では、倭国は唐に占領統治されておらず、「筑紫都督府」はヤマト王権の組織であるとします。
ですが、当時の唐は羈縻政策によって、同じ敗戦国の百済や高句麗には、その首都に唐の統治組織として都督府を置き、その国の王に統治させていました。
ですから、当然、「筑紫都督府」は倭国の首都に置かれ、倭国王に統治させた唐の組織と考えられます。
実際、「日本書紀」も、669年と671年に、合計4000人ほどの唐の軍勢が倭国に来ていることを記述しています。
それに、この時期に、日本で唐の年号を使っていた記録が残っていますから、このことは間違いないでしょう。
唐の進駐軍は、壬申の乱で大海人皇子の後ろ盾となった後、唐が新羅に破れて半島から撤退する676年頃まで駐屯していたと思われます。

「続日本紀」には、701年に文武天皇が「大宝」を「建元」したと書かれています。
「建元」とは、新しい王朝が初めて元号を建てることです。

ところが、「日本書紀」には、「大宝」以前に、「建元」の記事なしに、唐突に「大化」、「白雉」、「朱鳥」の3つの元号の「改元」(元号を変える)の記載があり、これらの間には断続があります。

一方、多数の証拠が残っているので、九州の「倭国」には、517年頃から700年頃まで継続した元号があったことが推測されます。
この事実は、先に書いたように、この期間の「倭国」が、中国の冊封下から外れた、天子のいる国だったことを示しています。

ですから、「日本書紀」に記載された「大宝」以前の元号は、九州王朝の元号をそのまま記載したものでしょう。

701年に「建元」がなされたということは、この時、王朝交代が行われ、倭の宗主国が「倭国(ちくしのくに)」から「日本(やまとのくに)」に移ったということでしょう。

中国の史書は、王朝交代が行われた後に前王朝の歴史を記録すものですが、「日本書紀」と「続日本紀」の区切りは、この王朝交代にぴったり対応します。
ただ、「日本書紀」は九州王朝の歴史を改竄した史書であり、「続日本紀」は日本国の最初の史書なのです。

※王朝交替はいきなり行われたわけではなく、その過程については諸説がありますが、例えば、以下のような過程が考えられています。

6C末に、多利思北孤が、律令の道制による全国統治のために、複都を難波に建設しました。
7C中頃には、改めて息子の伊勢王が、律令体制を進めるために難波宮を建設する一方、白村江の戦いに備えて、太宰府周辺の山城・水城などの防衛施設の建設をしました。
この時に定められた地方行政単位は「評」であることが出土した木簡などによって分かっていて、その範囲はほぼ全国に渡り、近畿もその支配域でした。
「日本書紀」には「評制」の記載がなく、大化の改新で「郡制」が始まったとしていますが、実際に実施されたことが確認できるのは701年以降です。

白村江の戦いでは、近畿の中大兄皇子軍は半島に軍を進めませんでした。
「日本書紀」は、斉明天皇の喪を理由としていますが、もともと戦う気がなかったことも疑われます。
同年に倭国王の伊勢王が亡くなり、倭の皇子は出陣したため、中大兄皇子が称制(倭国王の代理統治)を始めました。
中大兄皇子の諱は「葛城」であり、大和の人物であると推測されます。
一方、九州倭国軍は、唐・新羅軍に壊滅的な打撃を受けてほぼ全滅し、軍を指揮していた倭国皇子の明日香皇子(薩夜麻)は捕虜となりました。
明日香皇子が出陣して、行方不明になったことは、万葉集にも詠まれています。

戦後、唐軍が筑紫に進駐して薩夜麻を倭王=都督として統治させました。
そのため、中大兄皇子は倭国王統の倭姫王(ちくしひめのおおきみ)を娶ってその権威で即位(天智天皇)しました。
ただし、倭姫王が即位した可能性もあります(中宮天皇という記録が残っています)。
この近江朝は、倭国の反唐勢力とヤマト王統とが合体した王朝でした。
九州には倭王がいたため、天智は「日本」を名乗りました。

天智没後、倭国王統の大海人皇子が倭姫王の即位を要求しましたが、倭姫王の子ではないヤマト王統の大友皇子が、蘇我赤兄をバックに即位しました。
そのため、唐軍をバックにした大海人皇子が壬申の乱で勝利しました。

天智天皇の即位と倭姫王を皇后にするのが同時であることから、倭姫王は、特別な身分の者であることが分かります。
「開聞古事縁起」には、薩摩出身の大宮姫が太宰府に入京した後、天智天皇の皇后となり、大海人皇子の計らいで、九州に逃げ帰ったと書かれているので、この大宮姫が倭姫王であると考えられます。

大海人皇子は、最初の妻は宗像氏の娘であり、倭姫王の即位を要求したことから、倭国王統の人物(倭姫王の弟?)であると推測されます。
天武天皇の和風諡号は「天渟中原瀛真人」で、この「真人」は八色の姓で臣下の最上位の称号です。
天皇が臣下というのはおかしな話で、実際は、九州倭国王の臣下だったことになります。

その後、新羅に敗れた唐軍の北九州撤退と、筑紫大地震、難波宮の焼失で九州倭国は力を失いました。
そして、天武の崩御後の近畿倭国の後継争いの策謀で、ヤマト王統側(天智系)が勝利して「日本」が復活したため、改めてこれが「日本」の誕生となりました。

実際に王朝交替を導いたのは、「大宝」を建元した文武天皇(父方は天武系)ではなく、その祖母の持統や母の元明であり、この二人はヤマト王統(天智系)の女性です。
中国では、690年に、同じ女性の則天武后による王朝交替(易姓革命:唐→周)が行われたばかりであり、二人はこれを研究したはずです。
701年の王朝交替は、文武天皇の在位途中の出来事であり、新たな日本の純然たる最初の天皇は次の元明天皇であるとも考えられます。
元明天皇は、則天武后と同じ女帝であり、しかも、息子から譲位を受けて易姓革命を行った点でも同じです。
中国の官僚達が訝しがる中で、則天武后が「日本」を認めた理由には、彼女自身が王朝交代を行った人物だったからでしょう。
「倭国」は唐に敗戦して講和した国でしたが、周と「日本」は、どちらも生まれたばかりの国でした。

書紀によれば、720年に隼人討伐が行われており、これが実際は九州倭国の討伐でした。
そして、この年、「日本書紀」が完成したとされます。


主要参考書
・「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」関川尚功(‎梓書院)
・「失われた九州王朝」など古田武彦の著作
・「古代に真実を求めて」シリーズ・古田史学の会編(明石書店)
など
・ YOUTUBE「服部静尚講演
・「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎」斎藤忠(学研)


*九州王朝説を否定する根拠とされる前方後円墳については下記をお読みください。

*九州王朝説には様々な説があり、下記のサイトではそれらを比較して紹介しています。

*他の九州王朝説に関する投稿もご参照ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?