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竹取物語の宗教観と月女神信仰 1(古代の神仙信仰から)

これまで、月信仰に関わる投稿を数本していますが、今回は「竹取物語(竹取、竹取の翁、かぐや姫)」の宗教観と月信仰、そして、その隠されたメッセージをテーマにします。

かぐや姫を迎えにきた月の都の「王と覚しき人」が、かぐや姫に対して敬語を使っているので、かぐや姫は、ただの月の仙女の類ではなく、月の最高女神に相当するような存在であることが分かります。

ですから、「竹取物語」は、月女神信仰をテーマにした物語です。

「竹取物語」は、日本最古の物語とされ、登場人物たちの感情が豊かに描かれています。
ですが、本投稿では、そのような人間ドラマではなく、宗教観の構造を示す物語として解釈します。

また、「竹取物語」は明確に、政治的な批判の書でもあります。

かぐや姫に求婚する5人の貴族は、天武-文武期の実在の人物(2人は名が伏せられていますが)であり、そこには藤原不比等が含まれます。
「竹取物語」が書かれたのは、藤原氏の摂関政治が始まった頃であり、「竹取物語」は、反藤原氏、反主流派の立場からの批判が行われています。

本稿は宗教観がテーマなので、政治的なテーマについてはあまり触れませんが、かぐや姫のモデルの問題として、続く投稿で扱います。

「竹取物語」は、消されたものや、差し障りのあることを告発する物語でもあり、それゆえに、それらは暗示にとどめられていると考えています。
そのため、消されたものや暗示されるもの推測しながら、その背景となる宗教観、歴史の説明をいろいろとすることになります。

前後編の長い文章になりますが、「竹取物語」の真のメッセージは、物語の最後に暗示的に表現されていると思います。
それまでは、前提的な説明となりますが、最後までお読みください。




かぐや姫と月神信仰に関わる宗教観の歴史


「竹取物語」の宗教観を考えるに当たって、予備知識として、以下のような歴史の変遷を考える必要があると思います。

1 縄文時代以来の月信仰

日本では、縄文時代以来、月信仰が盛んだったと推測されています。
この時期の宗教観念の核心は、月の死と復活、それに伴う、月の霊力(変若水)の下降と上昇です。

かぐや姫の降誕と昇天は、この移動する霊力の象徴です。

2 弥生時代の神仙思想の習合

おそらく弥生時代に、中国の三星堆文明に由来する神仙思想が、縄文時代以来の月信仰に習合しました。
具体的には、月女神とその配下の仙女や、機織り(天の羽衣)、不死の薬などのテーマが付け加わりました。

3 崇神-垂仁期にアマテラス(月神?)が大和から追い出されたとされる

この時代は、考古学的に見て、大和朝廷(三輪王朝)が始まった時代です。
垂仁天皇の妃に「迦具夜比売(かぐやひめ)」がいて、この女性がかぐや姫の(前世の)モデルの一人です。

記紀によれば、崇神の時にアマテラスが祟ったために、宮中から追い出され、次の垂仁の時に、伊勢に遷座したと記されています。
これはそのままの史実ではないでしょうが、伊勢神宮は祟りを封じるための神社であることを示しています。

また、何らかの史実があったとすると、この追い出された神は月神だった可能性もあります。

4 天武-持統-文武期(7C末-8C頭)に皇祖神を太陽神とする

この時代は、律令国家としての「日本国」の創成期であり、「竹取物語」の舞台となる時代です。

この時代に、皇祖神がタカミムスビから太陽神アマテラスに変更されました。
そして、伊勢神宮が創建され、月女神でもある食物神トヨウケが外宮に遷座されました。

天武は神仙思想にも傾倒し、月女神や仙女は、アマテラスとその子孫の天皇を助ける存在として、その下に位置づけられました。

5 神道形成以降(8C後半-9C末)

天智系の皇統に代わった8C後半以降に、今に続く神道が形成されました。
仏教や道教の影響を受けつつ、神道独自の浄穢観と物忌、男性中心の神社の制度が作られたのです。
同時に、巫女や仙女などの女性の聖性が低下し、月女神信仰や神仙思想は衰退していきました。

また、神の祟りや怨霊が恐れられ、穢れが国家的に管理され、祟りや怨霊を鎮める儀礼を頻繁に行うようになりました。

「竹取物語」が作られたのは、9C末であり、これは藤原氏の摂関政治が始まった時代であり、御霊信仰が生まれた時代でもあります。
「竹取物語」は、かぐや姫も怨霊封じの対象であると暗示しています。


古代月信仰と霊力の下降・上昇


土偶や土器を見れば、縄文時代から月信仰が盛んで、それがどのようなものであったかについて、ある程度、推測できます。

月信仰の本質は、月の「死と復活」です。

満月は、月が最も霊力に満ちた状態です。
ここから欠けて新月に向かうのは、月の霊力が「変若水(おちみず)」などとして地上に下降するからです。
月の霊力は、具体的には、朝露や雨、月光、雷などとして降ります。

地上に降りた月の霊力は、地上の生命を育みます。
女性の月経や海の潮流も、月の霊力が支配します。

やがて、地上に降りた霊力は、月に上昇して戻り始め、月は新月から満月へと復活します。

ですから、月の「死と復活」は、地上の生命の「復活と死」であり、これらを霊力の「下降と上昇」が媒介します。


地上に降り、月に戻るかぐや姫は、この月の霊力の下降と上昇を表現しています。
もちろん、かぐや姫の体が光ることも、月の霊力の表現です。

かぐや姫は、翁・媼との別れ際に、二人を置いて出ていくのは、空から落ちてしまう気がする、と言います。
月に帰る時に、「落ちる」という比喩を使うのはおかしく、これは、月が定期的に「オチミズ(変若水)」を垂らす存在であることを暗示します。


竹取の翁に子がないことは、夫婦、ひいては、地上の存在が不毛の状態にあること示します。

かぐや姫が翁のもとに来てからは、竹の中から金が見つかって、翁は富んでいき、精神的にもかぐや姫に癒やされます。
また、翁や天皇に不死の薬を残します。

これらは、月の霊力が地上の生物の心身を育むことを表現しています。


かぐや姫は、月に戻る前に、月を見て泣き続けるようになりました。
地上で涙を流すことは、霊力(変若水)が月に上昇することを表現していると思います。

縄文土偶には、泣いている土器があり、これは、月が泣くことで、霊力が地上に下降することを表現しているでしょう。

ですが、霊力の上昇も、地上で泣くことで表現されると思います。

別の投稿で書いたように、記紀神におけるスサノオは、水の天地循環を表現しています。
古事記では、スサノオが「青々とした山が枯木の山のようになるまで泣き枯らし」てから高天原に昇ります。
これは、地上・海原から水が蒸発して失われ、天に上昇することを表現しています。

かぐや姫が泣くのも、これと同じでしょう。


このように、「竹取物語」の根本には、伝統的な月信仰の本質が表現されています。


*このパラグラフの参考書籍
・田中基「縄文のメドゥーサ」(現代書館)
・大島直行「縄文人の世界観」(国書刊行会)


神仙思想と月女神


先に書いたように、弥生時代以降に、中国の神仙思想が縄文の月信仰に加わったと思います。

「竹取物語」に現れる要素としては、月女神(=かぐや姫)、不死の薬、機織(天の羽衣)、竹、霊山(富士山)があります。

神仙思想の最高女神は、西王母です。
西王母は、仙女を配下に置き、配下のウサギに月で不死の霊薬を作らせ、養蚕と機織を司る女神でもあります。
また、西王母は崑崙山にいて、その山には竹が生えているとされました。

不死の薬は、月の変若水の変形です。

かぐや姫を迎えに来た月の使者は、天の羽衣をかぐや姫に着せて、月に連れ帰りました。

一般に、天の羽衣は飛行能力と結び付けられます。
ですが、「竹取物語」では、地上での記憶(穢れ)を消すものとして描かれています。
いずれにせよ、その本質は神性の表現であり、「竹取物語」では、それを心的なものとして表現しています。

「竹取物語」では、直接は描かれませんが、日本では巫女は神衣を織る役目を持ち、天の羽衣も、別の意味を持ちます。

記紀によれば、アマテラアスも機織を行い、口に蚕の繭を含んで糸を出します。
これは、アマテラスが西王母の影響を植えた月女神でもあり、月神の巫女だったことを示しているのでしょう。

特に、絹で作られた神衣・天の羽衣は、月の霊力を持ちます。
蚕は輝く繊維によって満月を思わせる繭を作るので、月の虫なのです。

月の巫女は、「領巾(ひれ、長い帯状の布、天の羽衣とされることも多い)」を織ってそれを振ることで、あるいは、神衣の袖を鳥のように振ることで、あるいは、舞うことで、月に霊力を返し、光を与えます。
「羽衣」のもともとの意味は、鳥の羽をつけた衣です。

後のパラグラフで紹介する五節舞での天女の舞いは、このような意味を持ちます。


ちなみに、竹は、神仙思想にも関係しますが、日本の伝統的な宗教観にとっても特別な意味を持ちます。

かぐや姫は、中空構造の竹の中に現れ、小さい間は(竹)籠の中で養われました。

伝統的な宗教観では、神は中空の囲まれた空間の中に宿り、あるいは、そこで育って外に現れる(ミアレする)という観念があります。

巫女が物忌する時に身につける装身具に、竹珠を複数貫いて作った「御統」があります。
ここにも、神が竹の中に籠もるという観念があります。


天武-持統-文武期の宗教改革


「竹取物語」の時代設定は、かぐや姫に求婚した貴族の名前から、天武-文武期です。
作中の天皇については、特定の天皇を示す表現はありませんが、後のパラグラフで説明するように、作中に暗示される儀礼を創始したのは天武です。

記紀によれば、垂仁天皇の時に太陽神アマテラスを祀る伊勢内宮が創建され、伊勢神宮外宮の社伝によれば、雄略天皇の時に食物神トヨウケ(豊受大神、トヨウケビケ、トヨウカ、トユケ)が外宮に遷座されたことになっています。
ですが、これらは、天武-文武期に成立したことを、過去に投影したものであると、多くの研究者は指摘しています。

「日本書紀」は、タカミムスビを皇祖神と書いていて、天孫降臨の司令などを行っています。
もともとの皇祖神は、タカミムスヒだったのです。(岡正雄、上田正昭、松前健…)

一般に、タカミムスビは高い木に宿る、天の生成の神ですが、太陽神だったと推測する研究者(筑紫申真、溝口睦子)もいれば、月神だったと推測する研究者(三浦茂久)もいます。

皇祖神を太陽神アマテラスにしたのは天武-文武期です。(直木孝次、筑紫申真、田村圓澄、溝口睦子…)。

皇祖神を太陽神にした背景には、天武-持統期に読まれるようになった「金光明経」の太陽のように輝く仏の影響があり、「日本」という国号の制定とも関係しているのでしょう。(田村圓澄)

また、トヨウケが外宮に遷座したのも、天武-文武期でしょう。
トヨウケは、外宮の神であるにも関わらず、「日本書紀」に一切、その名が記されていないのは、隠さないといけないワケがあったのでしょう。

以前に別の投稿で紹介したように、トヨウケには月神という側面がありました。

マテラアスに食事を提供するために、外宮にトヨウケを遷座されたということは、月女神が太陽神の下に位置づけられたことになります。


また、この時代は、記紀神話が作られて、日本神話が天皇神話になり、天皇の神格化が固められた時代です。
「金光経」でも、王を神に等しい存在と説いています。

「万葉集」で柿本人麻呂が歌ったように、天武は天下った神である初代の天皇(新王朝の祖)であると主張しました。
後に、天皇は、太陽神アマテラスの直系の万世一系の存在とされるようになります。


天武は、道教・神仙思想に傾倒したことも知られています。

彼が導入したとも言われる「天皇」号は道教に由来しますし、彼の和風諡号に使われている「眞人」は、天上の神仙世界から降臨した仙人を意味します。

また、「懐風藻」には、天武が降臨する仙女を迎えて戯れたと語られます。

天武は、新嘗祭の整備を行い、広瀬・龍田の二社を重視したことも知られています。
後のパラグラフで紹介するように、新嘗祭での五節舞は月の仙女の舞いであり、広瀬大社は月女神でもありました。

これらに表現されている宗教観は、月女神やその仙女を、太陽神、あるいは、その子孫である天皇に仕えさせるものです。

三浦茂久によれば、天武の宮である「飛鳥浄御原宮」の意味は、「朝の月が清く照らす所の宮」です。
それならば、天武は、月神信仰を持ちながら、太陽信仰に転向した人物なのでしょう。


竹取物語の舞台


「竹取物語」の舞台の地理設定は、奈良県北葛城郡広陵町だと推測されています。
竹取の翁の名は「讃岐造」ですが、広陵町には讃岐神社があり、ここには竹林もあります。

また、かぐや姫の名付け親は「斎部(忌部)秋田」ですが、このあたりには、讃岐忌部氏が住んでいました。
讃岐忌部氏の讃岐の故郷も古くから竹の特産品です。

かぐや姫の名付け親が忌部氏ということは、竹取の翁は忌部氏の配下の人物です。

忌部氏は祭祀を司る氏族で、かつては中臣氏と同格でしたが、中臣氏に独占されることになりました。
ですから忌部氏は反中臣・反藤原氏という点で、「竹取物語」の政治的立場と一致しそうです。
斎部広成は「古語拾遺」で、祭祀を中臣氏が独占している弊害を訴え、伊勢神宮の奉幣使の役職をめぐって中臣氏と長年争ってきた問題に関しては勝利を得ました。

ですが、この書では、アマテラスが皇祖神であるにもかかわらず、奉幣の順番を諸神の後になっていることに怒りの訴えをしていて、月神を重視する立場ではありませんでした。
ですから、「竹取物語」では、忌部氏は、批判すべき敵役として扱われている可能性があります。
実際、物語の最後には、竹取の翁は、月の不死の薬を飲むことなく、病に伏してしまいます。

讃岐神社は、ワカウカメが祭神の一人であり、この神はトヨウケ(トヨウカ)と同体とされます。
トヨウカには隠された月神という側面があったように、ワカウカメにも月神という側面がありました。


広瀬大社の物忌女


広陵町には、天武・持統朝が重視した、水神を祀る広瀬大社もあります。
広瀬大社もワカウカメを祀っています。

かぐや姫が月を見て思い悩む春から夏までの期間は、広瀬大社の物忌女の期間とほぼ同じです。
後ほど取り扱いますが、「物忌」は、「竹取物語」の重要なテーマです。

物語の中では、かぐや姫は、嘆きの理由を、翁・媼との別れと説明します。
ですが、この人間ドラマの表現は、表面的な理由付けだと思います。

かぐや姫が月を見るのは、罪・穢れを落とす「物忌」の行為です。
かぐや姫にとっては月に戻るための儀礼であり、物忌女にとっては月を復活させるための儀礼です。

ですが、広瀬の物忌女が行う物忌が7月15日の大物忌祭までであるのに対して、かぐや姫はこの日を越えてさらに深い物忌に入り、8月15日(中秋の名月)まで続けました。

かぐや姫は月女神で、物忌女は巫女という違いがありますが、かぐや姫は、天武が作った制度を越えていることを示しているかのようです。


五節舞の仙女


天武は、新嘗祭の最終夜の豊明節会で、月の仙女が舞う「五節舞」も始めました。

この舞いは、月神の豊岡姫(=トヨウカ)に従う天女達に扮装した少女の舞いであり、天皇と太陽への魂振りの舞いです。

記紀神話によれば、稲作は太陽神アマテラスが主宰します。
新嘗祭は、稲の収穫感謝祭であり、天皇にとっては、アマテラスとの共食による魂振りでもありました。
月の仙女がそれを助けるのです。

ですが、新嘗祭は11月23日に行われます。
二十三夜は下弦の月を祀る夜です。
ですから、新嘗祭は、本来は、月に対する祭だったと推測されます。


ですが、「五節舞」の実体は、天皇や貴族の妃選びの場となっていました。

「竹取物語」で、天皇が最初にかぐや姫を誘ったのは、時期的に見て、「五節舞」への誘いです。
かぐや姫はこれを断りました。

そもそも、かぐや姫は本物の月女神ですから、彼女に月の天女の姿をさせるというのはナンセンスだったのですが。

このように、月女神であるかぐや姫は、月神や仙女を太陽神や天皇の下に位置づけた天武の宗教制度に対して、拒否したり、それを越えていることを示したりしているようです。


*このパラグラフの参考書籍
・保立道久「かぐや姫と王権神話」(洋泉社)

*「竹取物語の宗教観と月女神信仰 2(平安期の神道から)」に続きます。


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