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犠牲にしない物語 ファフナーBEYONDを見てかつラディアンテイル(乙女ゲー)をやった人にしか伝わらない歓喜

今私はすごい!すごい!とわくわくしています。なので歓喜のままにちょっと大袈裟な表現があることをお許しください。

何がすごいって、ここ10年強の間に乙女ゲームがとった変遷と、ここ10年の間でファフナーが目指した終着点が、一緒だったことです。

はっきり言いましょう。私は、ティファリアちゃんとヴィリオに、総士くん(二代目)と美羽ちゃんを重ねてしまいました。

以下、BEYOND最終章と、ラディアンテイルのヴィリオ√を盛大にネタバレします。

◆総士くん(二代目)の台詞

「最初はそれ以外なくても、いつまで同じことを繰り返す気なのさ!」

「結局、自分や誰かを犠牲にすることしか知らないんじゃないか」


◆ティファリアの台詞

「同じことの繰り返しなんじゃないですか?」

「悲劇の度に犠牲になるのが役目なら、それは英雄なんかじゃない……!」


ってな感じです。英雄っていう単語が既に島民を刺しに来てるんだよな。


2021年11月公開のファフナー最終章では、総士くんがこれまでの島の価値観を大きく否定しました。最初は、L計画を実行するしかなかった。翔子が出撃するしかなかった。時が経ってもまだ、カノンは消える道しか選べなかった。でも時が経って、美羽ちゃんをアルタイルと同化させる道しかないと思い込んでいる海神島の皆(と美羽ちゃん自身)に、総士くんが『凝り固まるな、それ以外も考えろ馬鹿!』と突き付けた。

この最終章を見て私は、現代に生きる我々もまた、犠牲に対する価値観のアップデートを要求されている、つまり、本当に自分が望むものを選ぶ勇気を要求されていると思ったし、昔と違ってそれが可能な時代になりつつあるんだと思いました。


一方その頃。かつて、10年くらい前の乙女ゲーが特に顕著だったと思うのですが、『攻略対象達が恋愛そっちのけで使命を果たす物語』が非常に多かったんですね。その物語の攻略対象とヒロインは、どんなにつらい思いをしても這いずって這いずって世界を平和にして、それからじゃないと幸せになることが許されなかった。

(だいぶ前に、ノルンノネットが出て来て『使命から逃げてもいいんだよ』を主張したときも、私は時代のターニングポイントだと感じて感動したものですが、このときはまだ『逃げてもいい』に留まっていました。使命を全うする道も√によってはまだ根強く残っていました。)

でもティファリアは、世界のためにヴィリオを犠牲にしたくないという我儘を、一番身近でとても原始的な願いをめちゃくちゃはっきり主張した。世界なんて滅びてもいいとまで言った。仲間たちがヴィリオに本当のところの我儘を言えと言った。そしてヴィリオもそれを口にすることができた。私はヴィリオのエンディングロールが流れた瞬間、「やっと、未来に辿り着いた……(島民並感)」と呟いたものです。


きっと、一昔前の社会にウケる物語は、少しだけ頭でっかちな物語だったのかなと、今では思っています。自分自身のちっぽけな悩みや願いより、もっと壮大で崇高なことに自分を投じて役立てる、それこそが自己実現だという風潮です(諸説あります)(ファフナーは無印の時既にここから脱している気もしますが……)。全部が全部そうではなかったとは思いますが、他の創作物を見ていても、なんとなく似た風潮を感じたことがあります。

けど現代社会の創作物が主張する自己実現はあらゆる方向に分化して、割と収拾がつかなくなっている印象を受けます。頭でっかちの時代が終わって、大勢がそれぞれの自己を、自己と身近な周囲の中に求めるようになった。


全く別の二つのジャンルが、時の流れを経て同じ結論に辿り着いた。これって実は当たり前で、どっちも世界を映してるってことなんですよね。私達は、誰かが犠牲になる美しい英雄物語を求める人類から、諦めや見えない圧なんか跳ね除けて自分と自分の本当に大事なものを選びたいと主張する人類になりつつある。『そうなっていこうよ、価値観アップデートしていこうよ』というメッセージが発信される社会になってきたのだなと思いました。犠牲がなければ成り立たせることができなかった豊かな社会を『それって本当に豊かなのか?』と思う人が増えているんじゃないかとも、思いました。島民かつ乙女ゲーマーでよかった。


追記1 思い出しました。天気の子もそうよね。

追記2 ラディ√やってるとき、土……パペット……CV……と要素がリンクしすぎて頭を抱えたことを思い出しました。偶然にしては出来すぎている。

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