評伝モハメド・アリ 訳者による各章まとめ(第6章~10章)

第6章 「俺は若くて怖いものなし」(7ページ)
高校の最高学年になったクレイ。元クラスメイトの初々しいロマンスと、オリンピック選考大会での優勝、紆余曲折を経た末の高校卒業についてが記されている。

この章と呼応する社会情勢として、ノースカロライナ州グリーンズボロで始まった黒人学生の座り込み(シットイン)(1960年2月)と、学生非暴力調整委員会(SNCC)の設立(1960年4月)が登場します。バスでの人種差別撤廃を求めるフリーダム・ライドなど、公民権を求める抗議運動に数多く関与したSNCC(スニックと読みます)は、日本でも話題を呼んだグラフィック・ノベル『MARCH』の主人公、ジョン・ルイス氏が設立に関わり、委員長(1963年~1966年)を務めた団体です。

本章で特に面白かったのは、元クラスメイトとの恋愛話。妊娠・出産で高校を中退していたアリサ・スウィントと再会し、彼女をアパートまで送ったクレイは、彼女におやすみのキスをしようとした瞬間に、(興奮のあまり?)気絶して階段から転げ落ちてしまいます。2人は短期間デートをしたものの、真剣交際するまでには至りませんでしたが、アリサは「どんな気分のときでも、彼のそばにいるとすべてを忘れられた。彼はいつも前向きで楽しくて、信じられないほどユーモアのセンスをもっていたから、そんなところに魅かれた」とクレイを絶賛しています。子どもに好かれる性格は昔からのようで、アリサの息子とよく遊んでいたそう。

もうひとつ面白かったのは、史上最高のボクサーらしからぬトホホ(←死語? 使わないと死んだままになっちゃうから積極的に使うね!)な飛行機恐怖症のエピソード。飛行機に乗らなければならないなら、オリンピック選考大会には出場しないと駄々をこね、最終的にはトレーナーのジョー・マーティンが説得に成功しましたが、それでも「カシアスは軍用品店に行ってパラシュートを買うと、飛行機の中で実際につけていた」という弱虫っぷり。オリンピック選考大会で優勝した後、ルイヴィルに戻る際には大会の優勝賞品だった金の時計を質に入れて、列車で帰ったそうで、どんだけ飛行機嫌いなの……と思いますが、まあ、ソウルの女王アレサ・フランクリンも飛行機嫌いで有名だったし、「嫌なものは嫌」と意思表示して、さまざまな策を講じるところがアリらしいといえばアリらしいですね。
 

第7章 アメリカの英雄(8ページ)
1960年のローマ・オリンピック。屈託のない明るさで、選手や記者のあいだで人気者になるクレイが金メダルを取るまでが描かれている。また、ファンに対する「神対応」を決意するきっかけとなった出来事にも触れられている。

学友やボクシング仲間からお調子者として知られていたクレイですが、その茶目っ気は初めて行った異国の地でも存分に発揮されます。自己紹介の際には「カシアス・マーセラス・クレイ7世です」と名乗ったり(ローマの皇帝にでも寄せてみたつもりでしょうか)、カメラを首からぶら下げながら、ソビエト連邦の選手にも自ら声をかけ、ハグしあったりと、「子犬のように人懐っこくて陽気」な性格で、人々を魅了します。
本章では、①初のドーピングスキャンダル、②初の商業テレビ放映、③陸上選手が初めてブランドとスポンサー契約を結び、トラック・シューズを着用と、ローマ・オリンピックが象徴した文化的な変化についても説明されています。

ローマ・オリンピックが主題の章ですが、個人的にはローマに旅立つ前に立ち寄ったニューヨークでの逸話が印象に残りました。記者に誘われて、クレイは憧れのシュガー・レイ・ロビンソンに会いに行ったものの、シュガー・レイに塩対応され、「もし俺が有名な大物になって、一日中待ってでもサインが欲しいって人がいたら、絶対こんな対応はしないぞ」と心に誓いました。生来のサービス精神に加えて、自ら傷ついた経験があったからこそ、アリはファンへの神対応を生涯貫いたのですね(「神対応」すら凌駕するファン・サービスは、世界的な名声を得た後も続き、本書にいくつも登場します。)
 

第8章 夢見る男(20ページ)
ローマ・オリンピックで金メダルを獲得後、ルイヴィル・スポンサリング・グループと契約を結び、プロデビューを果たしたクレイは、アンジェロ・ダンディーとトレーニングを重ね、世界チャンピオンを目指して闘う。また、本章にはクレイのショウマンシップに大きな影響を与えるプロレスラーも登場する。

1960年秋、クレイの故郷ケンタッキー州ルイヴィルの白人事業家11人が、ルイヴィル・スポンサリング・グループという後援団体を立ち上げます。これは、クレイのビジネスを管理し、彼をチャンピオンの座へと導くための団体で、当時としては破格の条件で彼と契約を結び、クレイのプロキャリア支援に乗り出します。新トレーナーとしてアーチー・ムーアが名乗りを上げたものの、クレイと反りが合わず、次に白羽の矢が立ったのが、39歳のイタリア系アメリカ人アンジェロ・ダンディー。兄のクリスとともにアンジェロが経営していたマイアミのフィフス・ストリート・ジムでクレイトレーニングを開始、プロとして勝利を重ねますが、「ヘビー級たるもの、キングコングのように重厚感がなければ」といった先入観を払拭できないスポーツライターからの評価は芳しくありませんでした。

20ページある本章には、興味深いエピソードが満載です。例えば、クリス・ダンディーは極貧の男たちをジムに迎え入れ仕事を与えていたそうですが、その理由は「酒飲みは一生酒飲み、泥棒は一生泥棒、阿呆は一生阿呆だが、それでも誰だって食っていく権利がある」と考えていたため。「自己責任」ばかりが強調される世知辛い今の世界で、クリスの信条が胸に染みます。

金メダリストとして帰国したクレイが、素直に自分の名声を喜ぶエピソードも微笑ましいです。人に気づかれるたびに、「本当か? 俺のこと、本当に知ってるのか? うれしいなあ!」とはしゃいでいたクレイですが、著者アイグ氏は、「オリンピックのユニフォーム・ジャケットを着て、首から金メダルをかけ、自らあらゆるアピールをしていたのだが」とツッコミ・フレーズを入れることも忘れません。クレイは「見ず知らずの人々の首にもメダルをかけてやっていた」そうで、メダルの色が褪せ始めたほど。またこの頃から、クレイは自分の名前を入れたTシャツを着るようになり、本書によれば、「おそらくアメリカのアスリートで自分の名前の服を普段着にしたのは、クレイが初めて」のようです。プロになって憧れのキャデラックを購入し、乗り回しますが、「彼が運転免許を持っていないことなど、誰も気にしていないようだった」と、ここでもアイグ氏のツッコミが光ります。息子の名声に有頂天になった父キャッシュの逸話もかなりのインパクト。「メキシコ人のふりをしてソンブレロ姿で近所をぶらつき」、「メキシコ人に扮していないときには、自分はアラブの王族だと主張」していたそうで、「子が子なら親も親」といったところでしょうか。

本章には、クレイを大きく感化したプロレスラーも登場します。その名はゴージャス・ジョージ。「ファンを怒らせるほうが、ファンを魅了するよりも儲かる」というエンターテインメントの奥義を理解していたジョージは、炎上商法のパイオニア(?)。ボブ・ディランやジェイムズ・ブラウンもゴージャス・ジョージに影響を受けたと語っていたそう。既に自己宣伝に長けていた19歳のクレイですが、ここからさらに燃料投下の腕を磨いていき、アレックス・ミテフ戦から、勝利宣言をするだけでなく、試合が終わるラウンドまで予告するようになります。報道陣は生意気なその態度に眉を顰めましたが、クレイは批判など意にも介さず、騒がれるほうが世界チャンピオンに挑戦するチャンスが早く回って来ると信じていました。

なお、本章の中には、「当時のアメリカ人青年の大半が、形式的なものとして受け入れてきたこと」として、1961年3月1日にクレイが選抜徴兵局に兵役の登録を行ったことも記されています。

本章で登場するボクサー:タニー・ハンセイカー(プロデビュー戦)、ハープ・サイラー、トニー・エスペルティ、ジミー・ロビンソン、ドニー・フリーマン、インゲマル・ヨハンソン(エキシビジョン・マッチ)、ラマー・クラーク、 デューク・サベドン、アロンゾ・ジョンソン、アレックス・ミテフ。
 

第9章 「20世紀の活力」(11ページ)
「ルイヴィル・リップ(ルイヴィルの減らず口)」という異名を取るほどの生意気な態度で、マスコミやボクシングファンの神経を逆撫でしたクレイだが、順調に勝ちを重ねていく。と同時に、ネイション・オブ・イスラムとの関係も深めていく様子が描かれている。

ルイスX導師(後のルイス・ファラカン)のレコード「白人の天国は黒人の地獄」を鬼聴きしたり、街頭演説に幾度か出くわしたりと、既にネイション・オブ・イスラムと接触していたクレイですが、本章ではクレイと同教団がさらに接近していくさまが描かれています。関係が深まった要因はふたつ:「ムハマド・スピークス(ムハマドは語る)」紙に掲載されていた漫画と、マイアミで同紙を販売していた教団員のキャプテン・サムです。文字を読むのが苦手なクレイをも引き込んだ漫画のパワーたるや! 当時のクレイはルイヴィルとマイアミの二拠点生活を送っており、マイアミでキャプテン・サムと出会ったことで、一気に教団との距離を縮めていきます。サムと意気投合したクレイは、マイアミの集会に顔を出すようになり、寺院を訪れると、「アメリカにいる2000万人もの黒人が、自分の本当のアイデンティティも知らなければ、本当の苗字すら知らない」、「祖先は母国に関する知識をすべて奪われて、自分をはじめ黒人を嫌うよう教え込まれた」といった内容の説教に魅了されます。アメリカに「人間未満の奴隷」として強制連行された祖先をもつ黒人が、「君も尊厳と力をもつことができる」、「白人が黒人を地獄に追いやったからといって、黒人は地獄にとどまっている必要などない」と鼓舞されたのですから、イライジャ・ムハマドの哲学に勇気づけられ、ネイション・オブ・イスラムに傾倒してしまうのも納得がいきます。ただし、お喋りマシーンなクレイでも、記者団にはネイション・オブ・イスラムとの関係を一切語らず、故郷ルイヴィルで集会に参加することもなかったそう。そこに20歳の青年の迷いを感じると同時に、クレイの(見た目とは裏腹な)冷静さを感じます。

また、本章では「黒人」の呼びかたについての変遷が説明されています。20世紀に入ってから1950年代に至るまで、黒人の大半が「ニグロ」を好んで使っていましたが、60年代に入ると、次第にその言葉は力を失い、ネイション・オブ・イスラムの信者など、自ら黒人を定義しようとしていた人々にとっては、物足りない言葉となったようです。(そしてその後、「ブラック」→「アフリカン・アメリカン」→そして現在では再び「ブラック」が好まれる……という流れですね。)

本章で登場するボクサー:ソニー・バンクス、ジョージ・ローガン、ドン・ワーナー、ビリー・ダニエルズ、アレハンドロ・ラボランテ、アーチー・ムーア。

 
第10章 「これはショウビジネス」(18ページ)
若く魅力に溢れたクレイは、その尊大な言動で批判を受けながらも、沈滞していたボクシング界に活気を与え、世間の脚光を浴びる。本章では、彼の先進的なブランド構築術や、同胞の黒人から噴出した厳しい評価などについても語られている。

ロッキー・マルシアノの引退以来、停滞していたボクシング界。特にソニー・リストンは元ゴロツキで黒人だったために人気が振るわず、1963年に出版された評伝のタイトルが『誰にも望まれなかったチャンピオン(The Champ Nobody Wanted)』だったというのですから、切なすぎます(号泣)。そして、いまさらながら、自分の誤訳を発見してしまいました……自伝(autobiography)と訳していましたが、評伝(biography)です! ごめんなさい……調べてみたら、今年(2022年)9月に復刊されたようなので、読んでみたいと思います。リストンは、アリよりもよっぽど苦労していることでしょう。

自慢ばかりで品性に欠ける、というのがクレイに対する一般の評価だったようですが、どんなにメディアから批判されても、「There’s no such thing as bad publicity.(悪名は無名に勝る、みたいなもんでしょうか)」という言葉もありますし、事実、クレイがタイトルマッチの挑戦者候補になれたのも、その話題性によるところが大きかったようです。「It’s a thin line between love and hate(愛と憎しみは紙一重)」という言葉どおり、クレイは人々を苛立たせながらも引きつけるカリスマを持ち、誰に教わることもなく、独力で「カシアス・クレイ」というブランドを構築していました。タイミング的にも、「ちょうどニューヨークの広告代理店が、『ブランドを構築し、知名度を上げ、富を生み出す』スタイリッシュな新手法を見つけ」、「マーケティングの新時代」が訪れていた頃で、クレイは意識せずして時代の波に乗っていたことになります。

クレイがその天才的な自己宣伝能力を遺憾なく発揮したのが、ダグ・ジョーンズ戦です。マディソン・スクエア・ガーデンでボクシングの興行が始まってから38年、試合前にチケットが完売したことはなく、直近の6年ではチケットの完売自体がなかったというのに、1963年3月13日のこの試合では、チケットが事前に完売しました。みんな、生意気なクレイがボコボコにされるのを観ようとチケットを取ったのでした。同試合は、全員一致の判定でクレイが勝利しますが、ハーレム出身のジョーンズ贔屓の観客は、リングにビールのコップやプログラム、ビーナッツを投げ、怒りを爆発させます。しかし、そんなことで動じないのがルイヴィルの減らず口。「口を開け、両手を挙げてリングを隅々まで歩きながら、観客に向かって怒鳴り返していた」だけでなく、「投げつけられたピーナッツをひとつ拾って食べた」というのですから、天晴れです(ピーナッツを拾って食べたって箇所、個人的には大好物なエピソード)。

名声が高まるにつれ、タイム誌やエスクァイア誌といった一般誌もクレイを特集するようになり、クレイは後者の取材で「もうボクシングをやっている気がしない。これはショウビジネスだ」と語っています。他のインタビューでは、「俺は誰よりも偉大だ。俺って綺麗(プリティ)だろ?」という決まり文句について、どこまで真剣に語っているのかを尋ねられると、「75パーセント」と、正確な数字で即答しています。一見、名声に浮かれて有頂天になっているように見えても、実は冷静であることが伺えるシーンです。こうしたクレイの冷静さに、マルコムXは聡明さを見たのかもしれません(「彼は人を欺く。道化は賢者を真似できないが、賢者は道化を演じることができる。それを人々は忘れてしまう」。まえがきより)。

リストンとクレイの試合が近づくにつれて、特に黒人ファンは、リストンに対する評価を見直し、クレイよりもチャンピオンに相応しい人物なのでは? と思い始めます。当時のクレイは「変わり者」というイメージで、「黒人を立派に代表できるような強く誇り高い人物」だとはみなされていませんでした。この頃は、公民権運動が盛り上がりを見せ、各地でさまざまなデモも行われていた時期ですが、クレイは公の場で人種問題に関するコメントを出していません。(ただし、ある写真家が白人女性と一緒に写真を撮ろうとした時には、撮影に異議を唱えています。)若い黒人活動家たちは、クレイが公民権に無関心であることに加え、他の黒人ボクサーを見下すような発言をすることにも憤っていました。 

本章に登場するボクサー: チャーリー・パウエル、ダグ・ジョーンズ。

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