『翻訳者の仕事部屋』(翻訳者による一筆書きの読書感想文)
書名:翻訳者の仕事部屋
著者:深町眞理子
出版社:飛鳥新社刊(1999年12月3日)
ページ数:334ページ
昼間は勤め人、夜は翻訳者という二足の草鞋生活を送っている自分にとって、翻訳の仕事だけで生計を立てている翻訳家さんは尊敬の対象です。第一線で活躍する方々が多数講演した翻訳業界のイヴェント(←いつものことながら、何だったかは忘却のfar away…)で、安達眞弓さんが紹介していたのがこの本。「クィア・アイ」のジョナサンの自伝や海外ミステリなど、話題作を数多く翻訳されている安達さんが推しているなら読みたいっ……と、ソッコーで取り寄せて読んでみました。だって私の名前は、「素直な子」と書いて素子だから……
知らぬが仏――読了後に呟いた言葉。翻訳者になる前にこの本を読んでいたら、おそらく私は今、翻訳という仕事をしていないと思います。怖気づいて、自分には絶対にムリな世界だとはなから諦めていたはず。英語はできるが自己評価はあまり高くない……という人は、こうした「翻訳者の心得」的な本は読まずに、好きな原書を訳してみたり、翻訳コンテストやオーディションに応募してみたりと、「とりあえずやってみるモード」で見切り発車してしまったほうが道は開けるかもしれないです。私自身も翻訳学校や講座というルートを通らず、トランネットの翻訳オーディションをきっかけに書籍翻訳デビューしました。(とはいえ、絵本、YA、ミステリ、SFといったジャンルにも活動の幅を広げたいので、海外からでも受けられる翻訳講座があれば、来年あたりから今さらながら翻訳の学習を始めたいと思っています。)
アガサ・クリスティーやスティーヴン・キングといった大物作家をはじめ、200冊以上(出版時)を訳してきた超人的な実績を誇る著者(翻訳界のエリザベス女王と呼びたい……)の言葉には、圧倒的な説得力があります(だからこそ怖気づいたとも言える)。また、「私の翻訳作法」をはじめ、翻訳する者としては勉強・参考になる点もたくさんあり、自分の甘さも思い知ったので、日本から中古本を取り寄せてよかったです。翻訳業に現在携わっている人は、中古本を探して読んでみる価値はあると思います。
以下、印象に残った箇所と私の心の声をいくつか:
「プロになれば、好きな仕事だけしているというわけにはいかない。翻訳者はむしろ、多くのものに触れ、多くのものに興味を持つだけの柔軟性を失わないことがたいせつである」
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しょっぱなから耳が痛い! 私が「完全なプロ」になれない理由をズバリ指摘されている気がしますし、これは真実だと思います。「完プロ」な翻訳者は、多くのものに興味を持ち、得意な分野でなくても粘り強く調べものをして、プロとしてハイレヴェルな訳文を紡ぎ出している方々だと思います。広いジャンルでプロフェッショナルな訳文を量産できるか否か。ここがプロとして活躍できる人と「半プロ」の分かれ道になる気がします……
実際、私にこの柔軟性があれば、出版翻訳と特許翻訳を兼業するという可能性もありました……たまたま入った弁護士事務所が特許専門のローファームだったため、明細書やオフィス・アクションといった「生きた教材」はごろごろ転がっていました(今の事務所も特許専門で、特許翻訳をやりたいといえばやれる環境ではある)。しかし、興味のない文章(英語、日本語を問わず)については、文字が模様にしか見えなくなるという体質のため(#*&%)Q_%!%(#)←ガチでこんな風に見える)、特許翻訳者の道は閉ざされてしまいました。では、柔軟性のないマニアはどうするか? もう好きな道を突き進むしかない! ってことで、「黒人文学&アメリカのマイノリティ関連の作品なら、ワシントンDCに住んでるあのイッちゃってる人に頼めば?」と巷で言われるまでは頑張ります(鼻息)
作家は「なに」を語るか、かたるべき自分のことばをもっていさえすればだれでもなれる。翻訳者は「いか」に語るか、語るための「芸」を持っていなくてはなれない。
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これは自分の考えとは少し違いました。作家とは0を1にする仕事。何もないところから何かを作り出す時に必要なエネルギー量や才能、作品の評価にまつわるプレッシャーなどを考えたら、翻訳者の苦労は作家には到底及ばない。正直な話、英語をきちんと読めて日本語を書く能力があれば、翻訳者こそ努力次第でだれにでもなれる仕事だと思います。自分では本1冊なんて書く想像力も創造力も持ち合わせていないくせに、訳したことで「本1冊を書いた気になっている」みたいなところもあり、自分が訳した本を褒められたりすると、「人のふんどしで相撲を取っている」系の申し訳ない気分になりながらも、「ラッキー……」(虎の威を借る狐ならぬ、原作者の文を借る翻訳者…)と思っています。
翻訳者の「芸」とは
1.テクニック
2.心がけ
3.想像力
4.スピード
プラス「華」
世阿弥……「華とおもしろきと珍しきと、これ三つはおなじ心なり」。つまり、新鮮な感動を呼び起こすことこそ、「芸」の究極目的。
訳者は役者
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これは「短気は損気」レヴェルで言い得て妙! 台本と原著に共通点は多い。世阿弥の言葉がいくつか引用されていて、それを読んだだけでも少し頭が良くなった気分……このほか、「虚実皮膜」という言葉を初めて知ったのも収穫でした。「芸は実と虚の境の微妙なところにあること。事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるという論。江戸時代、近松門左衛門が唱えたとされる」らしい。
文章を書くうえで、私がつねに心がけていることは、抑制を働かせて、文章の品格を落とさないようにするということだ。翻訳であればなおさらのこと。原文の内容がたとえいかに卑俗、猥雑であっても、いや、それならばなおさら、訳者までがそれにのかって、肥沃、猥雑な書きかたをすれば、その文章は読むにたえない薄汚いものになってしまうだろう。
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黒人(特に男子/男性)が登場する作品を日本語で読むと、上品だな、と思うことが確かに多かったので、この文章を読んで納得しました。(ここで実話挿入→)昔住んでいたストリートで撃たれた人が倒れていて、救急車や野次馬でごった返す中、「なんだ、死んでねえのか」と言ってチャリで走り去った男の子(推定年齢7~8歳)を目撃したことがあるのですが、フッドの少年たちはかな~りラフで、あまり品はありません(しかし彼らも、一皮むけばとても子どもらしいところもあって、そのギャップがとっても良いのです)。現実を見ているストリート系翻訳者としては、これからも「品」ではなく「リアル」を追求して、「人間くさい可愛げ」を出していきたいと思います。
本とはまったく関係ありませんが、せっかくなので、「リアル」の例をいくつか挙げておきます。N.W.Aの『Straight Outta Compton』(2015年頃にリイシューされた盤)の対訳をした際には、「チ〇カス」という言葉を使ってディスり感満載のリアリティを出してみました。最近では、『シスタ・ラップ・バイブル』(河出書房新社刊・拙訳)の「カーディ・Bの名言集」というページで、「Leave his texts on read, leave his balls on blue」を「彼のテキストなら既読スルー、ヤラせてあげずに彼のキン〇マはブルー」とし、韻まで踏んでみました……これ系の翻訳は楽しんだもの勝ち!ちなみに私の翻訳者デビューはレコード会社勤務時代、「下ネタすぎて本物の翻訳者には発注できない」ために社員の私に回って来た楽曲の歌詞対訳です。この時は、乳繰万三というペンネームを使いましたが、アルバムがリリースされた時にはMANZOとローマ字表記になっていました。コンプラに引っかかったようです。歌詞のほうがよっぽどエロかったのに……)
最後に、翻訳者なら持っておくべき辞書についても言及されていたので、ここに記しておきます(20年以上も前の本なので、今ではオンラインでもかなりの調べものができますが)。
熟語・慣用句辞典
英米俗語辞典
引用句辞典
人名・地名・固有名詞発音
英米故事、諺、伝説、軍事、医療、化学、その他の専門用語
英語以外の各外国語の辞典
ギリシア・ローマ神話辞典
シェイクスピア辞典
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シェイクスピア辞典とギリシア・ローマ神話辞典は、読んだ瞬間にポチりました。聖書、シェイクスピア、ギリシア神話あたりは、持っていて損はないと思います。特に聖書の言葉は、本やラップのリリックなどにもよく登場するので、非常に重宝しています。
この本はどんな人におすすめ?
翻訳者を志す人(褒めて伸びるタイプです、という人は除く)。既に翻訳者として仕事をしている人(襟を正して読んでしまう1冊……初心に戻ることができます。)
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