見出し画像

デトロイトをプレイしてパレスチナについて考えた ー その「暴力」はどうして選択されたのか

先日、「デトロイト ビカム・ヒューマン」というゲームをプレイした。その時、今起きていることと重ねて考えたことを文章として残しておきたいと思う。

最初、ひたすらデトロイトのストーリーの説明が続くが、デトロイトを知っている人は最初の大まかなあらすじ部分は読み飛ばしてもらって構わない。逆に、デトロイトのネタバレを食らいたくない人は、この記事を閉じてもらえればと思う。


デトロイト ビカム・ヒューマン(非常に大まかなあらすじ)

このゲームには3人の主人公が登場する。そしてその3人ともがアンドロイドだ。舞台は近未来のデトロイト。そこではアンドロイドは人間の生活をサポートする上で欠かせないものとなっている。そして、アンドロイドの見た目は人間そっくりだ。こめかみに光るLEDがなければ、ほとんど判別はつかないだろう。

街のいたるところにアンドロイドがいる。家事を行うアンドロイド、清掃員のアンドロイド、工場や店で働くアンドロイド、風俗店で性的なサービスを提供するアンドロイド…
しかしアンドロイドは人間とは明確に区別されている。バスでは座席に座れずアンドロイド専用スペースに立って乗車し、人間から暴力を受けても抵抗はできない。彼らは人間でないから人権がない。そう、これは近未来の"奴隷制"を描いているのだ。

3人のアンドロイドのうち、コナーは警官であり作中で起こるアンドロイドによる殺人事件を追う。カーラは家事育児を担うアンドロイドで、彼女は父親からの暴力にさらされていた少女とともに逃亡劇を繰り広げる。そしてもう1人、マーカスという主人公がいる。彼は芸術家の老人の世話をしていた。その老人は、マーカスをアンドロイドとして扱わず、まるで人間に、人間の息子に接するかのように接していた。
だが、その老人の亡き後、マーカスは廃棄されてしまう。しかし彼は廃棄されたアンドロイドの山から立ち上がり、人間たちの手を離れたアンドロイド達が隠れ暮らす場所へたどり着き、そこでアンドロイド達の指導者となっていくことで物語が大きく動いていくことになる。

マーカスの革命の物語 ー 暴力か、非暴力かの選択

3人の主人公をかわるがわるプレイする中で、私を一番悩ませ苦しめたのが、このマーカスの物語だった。
彼は人間から逃れたアンドロイドたちを率いて革命を起こそうとするのである。人間と同等の権利を得るための、革命。アンドロイドたちは人間に物のように扱われ、飽きれば捨てられ、殴り殺されても文句も言えない。その現状を変えて自由を得ようとマーカスは仲間に呼びかけるのだった。

本作はアンドロイドの物語ではあるが、そのストーリーは明らかに現実に今まで起きてきたことのメタファーと感じられる。一番わかりやすい例で言えば黒人奴隷の歴史を思わせる。(実際、マーカス役の俳優はアフリカ系の血を引いている)
そして、今起こっていることでいえば…わたしは占領・封鎖され続け、そして今イスラエル軍の攻撃にさらされ、理不尽に虐殺されているパレスチナの人々のことを思わずにいられなかった。どうしてそこが繋がるのか?と思う人もいるかもしれない。どうしてそう思ったのか、ストーリーの続きを話しながら私が考えたことを綴って行きたいと思う。

説明が遅れたが、このゲームはプレイヤーがどんな選択肢を選択したかでストーリーがどんどん分岐していく。
しかし基本的にマーカスのルートで常に選択を迫られるのは「暴力か、非暴力か」である。わたしは暴力を選択すると世論の風当たりが厳しくなると考えて、非暴力を選択するようにしていたが、無慈悲なことに、非暴力を選択すると今度は自分の仲間達が殺されていく。

街中を多くの仲間達とともに「アンドロイドに自由を」「わたしたちは生きている」と言いながら練り歩く。平和的なデモ行進を行っているのに、人間達はなんの武器ももたないアンドロイド達に銃口を向けてくる。親しい仲間として登場するノース(わたしのマーカスは彼女と恋人だった)は「人間には言葉だけじゃ通じない」と、ことあるごとに暴力の選択肢を勧めてくる。

しかし、わたしは非暴力を選択した。自分たちに、自分だけじゃなく自分の仲間にも銃口が向けられている中で、私は歯を食いしばりながら非暴力を選択し、歩みを進める。それに対し人間達は容赦無く発砲する。人間は、アンドロイドを人間と思っていないから。

しかし、これがアンドロイドじゃなくて同じ人間でも、結局は変わらないのではないか。人間は、自分と同じ人間を、人間と思わず殺すことができてしまうのだと、第二次世界大戦のホロコーストが、そして今起きているイスラエル軍によるパレスチナでのジェノサイドが、それを証明している。

だがよく考えてみてほしい。人間達がアンドロイドに容赦なく発砲する時、またイスラエル軍がパレスチナにミサイルを落とす時、そしてその現実を知らぬ存ぜぬでわたしたちが無視する時、人間性を失っているのは、誰であろうか?

わたしはゲームの中だから、非暴力を選択した。選択できた。だけど、現実に、自分と自分の大切な人たちに銃口を向けられて、そこにもし武器があったとして、それを取らないという選択ができるのだろうか。
選択肢にはもう一つ「逃げる」というものもある。現実のわたしならこれを選んだだろうとも思う。その選択も間違いではないと思った。だが、悲しいことに革命の主導者であるマーカスがそれを選んでは、現状は変えられないと思った。

この戦いは長く続く。アンドロイドが隠れ住んでいた居住地が人間達に特定され、攻撃を受けてしまう。そんな最中も仲間を助けつつなんとか命からがら非暴力で乗り切り逃げたわたしだが、多くの仲間が捕らえられ、収容所へと連れ去られてしまった。
残った仲間達と最後のデモ行進を行う。人間に銃口を向けられても、座り込んでそこから動かなかった。けれどもそれもそんなには長く続かず、人間達は攻撃を仕掛けてくる。

最後の最後までノースはわたしに暴力的な手段を勧めてきた。正直、非暴力でゲームをクリアしたいわたしからすればうっとおしく感じるほどだった。でもわたしはノースのことを心の底から否定することができない。
わたしが非暴力を選択し続けられているのは、ゲームの中の世界だからなのだ。現実に、自分や自分の大切な人たちが死ぬ心配のない世界からコントローラーを握っているからなのだ。ゲームの登場人物としてその世界に生きているノースが、自分たちを守るために武器を取ろうとすることを、わたしは否定しきれない気持ちでいた。だって、アンドロイドたちはこんなにも殺されている。殺されて死んだら意味がない、と言って武器を持とうとする彼女を、わたしは責められるのか。

プレイしていて一番悲しかったのは、頑張って非暴力を選択し続けることで世論の支持はかなり高くできていたのに、それが最後までなんの役にも立たなかったことだ。仲間になって助けてくれる人間が現れてくれると思っていた。だけど誰も、助けてはくれなかった。大統領はマーカスたちを「テロ」だと呼んだ。わたしはどんどん少なくなっていく生き残った仲間達と抵抗するしかなかった。

ホロコーストで殺されていったユダヤ人も、今パレスチナで攻撃にさらされているパレスチナ人も、同じことを思っただろうか。
なぜ世界は自分たちを助けてくれないのだろう、と。

別ルートの主人公コナーの協力を得て、わたしはなんとか非暴力の革命を成功させる。(銃口を突きつけてきた人間達の前でノースとキスをしました)
でもそれも「一時的な停戦」としか表現されていなかった。(なので、これを成功と言えるかは不明だ。)

一方、後から調べたところ、このゲームは私が選ばなかったルート、つまりマーカスが暴力という手段を使うルートでも革命を成功させることができるようだ。(難易度はあがる)

もし、あの場面で武器を手にしていたら。仲間は死ななかっただろうか。あそこであの人間を撃っていれば。そんなことをプレイしながらどうしても考える。

でも武器を取って反撃しようものなら、ひとたび「テロリスト」として扱われてしまうことがわたしにはわかっていた。人間達がアンドロイドをどれだけ撃とうがそれはテロとは呼ばれないが、アンドロイドが人間を撃てばテロと呼ばれるに違いないと。なぜそれがわかったか?それがゲームの世界ではない、現実の世界の中で、今まさに起きていることだからだ。

その「暴力」はどうして選択されたのか

2023年10月7日のハマスの攻撃がきっかけで、イスラエル軍がその報復と人質解放のためにガザを攻撃していると、多くの人が思っている。実際に多くのメディアではそういう伝え方をされたと思う。

ハマスは「テロリスト」と呼ばれ、ハマスの攻撃は「テロ」だと報じられた。ではイスラエルのやっていることは?

テロの言葉の定義を調べてみる。

テロリズムとは
「政治的目的を達成するために、暗殺、殺害、破壊、監禁や拉致による自由束縛など過酷な手段で、敵対する当事者、さらには無関係な一般市民や建造物などを攻撃し、攻撃の物理的な成果よりもそこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通じて、譲歩や抑圧などを図るもの」

wikipedia

今まさしくイスラエルが行なっていることについて書かれているように思えるのは、わたしだけだろうか。

けれどイスラエルのやっていることはテロとは呼ばれない。今回の件だけでなく、数年遡って考えてみよう。

帰還の大行進。それは2018年3月30日から2019年12月27日まで続いたパレスチナ人による抗議活動である。ナクバで土地を追われた人々の帰還権の主張、イスラエルの過酷な封鎖措置に対して、また米大使館のエルサレム移転に対してへの抗議であった。
この期間、ガザのパレスチナ人は毎週金曜日にイスラエルとの境界に集まり、抗議を行った。抗議活動の内容は概ね非暴力的で、パレスチナ料理が振舞われる屋台が出たり、伝統舞踊のダブケが踊られるなど、文化的なものであったという。

しかしイスラエルはこの抗議活動参加者らに向けて催涙弾や実弾銃撃で攻撃した。彼らは平和的に抗議活動を行っていただけなのにも関わらず。

これにより214人のパレスチナ人が殺され、36100人以上の人々が負傷した。この時の攻撃で、イスラエルは国際法で使用を禁止されているバタフライ・バレットなどの武器を使用した。これらの武器は骨や血管までズタズタにしてしまう。(ダムダム弾、バタフライ・バレッドなどで調べて見て欲しい)

なぜこのイスラエルの攻撃は、テロとは呼ばれないのか?

このようなイスラエルのパレスチナへの攻撃は何年も前からずっと、いや、1948年のナクバの時からずっと、何度も何度も起こってきたのだ。攻撃がないときにも、常にパレスチナ人はイスラエルによって占領・封鎖されたガザやヨルダン川西岸地区の中で電気も水も食糧も十分ではない過酷な生活を強いられている。

恥ずかしながら、わたしはこうしたことをずっと知らなかった。わたしがこういうことを学んだのは2023年10月7日以降のことなのだ。

デトロイトをプレイしながら、世論を味方につけるためにあんなに非暴力を選択し続けてきたのに誰も助けてはくれなかったことに私は絶望していたが、彼らをずっと無視し続けていたのはわたし自身だったのだ。

理不尽な状況下で仲間が殺されていく中で、ノースはずっと武器を手に取ろうとしていた。彼女が武器を手に取り戦ったとして、わたしは彼女をテロリストだ!と一方的に非難できるのだろうか。

ハマスの攻撃は、そのやり方は、国際法違反であり、間違ったことなのだと言われれば、それはそうだと思う。だけど、国際法がそれをさばけたとして、わたしは、パレスチナのことをずっと知らずにのんきに生きてきた自分に一体何が言えるだろうか?

彼らはなぜ武器をとらなくてはならなかったのだろう。なぜ「非暴力」を選択できなかったのだろう。「暴力」を選択したのだろう。

同じ立場にあった時、わたしは「非暴力」を選択できるのだろうか。

ゲームの中では、(私の選んだルートでは)警察官としてマーカス達を追う側だったコナーが寝返ってアンドロイドの大群を目覚めさせることでなんとか収束する。
だけど現実はどうだろう。イギリスやアメリカ、西欧諸国はいまだにイスラエルを支持し支援している。多くの企業がイスラエルを支持し、虐殺に加担している。殺されているのは武器など持たない民間人だ。
わたしは毎日その写真や映像を見ている。それはゲームの画面じゃない。いや、いっそAIが生成したフェイクだったらいいのにとすら思う。けど、それは現実に起きていることなのだ。

イスラエルの刑務所にいるパレスチナ人捕虜達は、ほとんどがなんの罪状もなく捕らえられ裁判にかけられることもなく収監されていた。そうしたことはハマスがイスラエル人を人質に取る前から、起きていたことだ。

ハマスの攻撃を正当化するわけではない。
ただ、あまりにも全てが非対称だと感じる。

全ての問題は、10月7日の以前からずっとずっと続いていたことだったのに。それを無視し続けていたのはわたしたちなのに。ハマスの罪は彼らだけのものなのか。ハマスに「暴力」の選択肢を選ばせたのはわたしたちではなかっただろうか。

わたしは今ようやっと、自分のことを恥じている。


読んでいただきありがとうございます。売れない作家ゆえ、サポートでご支援いただけるととってもありがたいです。制作費や生活費になります。