彫刻の本質を考える
この記事は前回の記事「次元を問う ー作品が立体になる時」の続編です。
単体でもお読みいただけますが、ぜひ合わせて読んでいただければ幸いです!
"従来の彫刻"が指す価値観ー彫刻の成り立ち
「立ちあがるかたち」の展示のステートメント及び「次元を問う」シリーズのアンケートの中でも、"彫刻"という言葉をあえて避けて"立体作品"という言い方をしてきた。正直、"彫刻"という言葉は文脈によってその意味の変容するところがあり、説明が難しいと考えていたからだ。
それに比べたら「立体 / 立体作品」の方が平易でわかりやすい、と思っていたのだが、そちらもそちらでそんなに簡単な話ではないことは、前回の記事に書いた通りだ。
この二つの言葉は混同されがちだ。大学によっては"彫刻科"という名称ではなく"立体アート専攻"、"立体造形専攻"という名称をとっている大学もある。実際に"立体アート専攻"という名称をとっている女子美術大学の専攻紹介のページを見てみよう。
ここで言われている"従来の彫刻"とは、どんなものだろうか。
おそらく、その後の文に書かれている「粘土・木・石・金属」といった素材を扱ったものだと思うが、素材の分類だけの話でもないように思う。
藝大彫刻科の先輩でもある大野左紀子さんのポストを引用する。
木で彫ればそれでいいかというと、そうでもないらしい。
なぜ、本物の植物のように薄く彫った葉の彫刻が「彫刻的ではない」などと評されたのであろうか。なぜ、"リアリティ"よりも"マッス(量感)"が重視されたのであろうか。
思うに、"マッス"というのは存在感に直接繋がりやすいのだと思う。そこにドシッと重みを持って存在する形。表面のリアリティより、それ全体が持つ重厚な存在感のようなものを良しとする価値観が"従来の彫刻"と呼ばれるものにはあると思う。
頭悪そうな言い方をすると、「デカければデカいほど、ゴツければゴツいほどカッコイイ!」みたいなマッチョな価値観はあるところにはある。繊細さより無骨さを好む価値観。わたしもデカくてゴッツい作品には興奮するし、それ自体は悪いこととは思わない。
だが、薄くて今にも壊れそうな作品、風に吹き飛ばされていきそうな儚くてか弱いような作品がもつ存在感は、また別の面白さがある。そしてそれは近年ではごく自然に認められている価値観だとも思う。
しかしなぜ、彫刻科では、そのようなマッチョな価値観が醸成されてきたのだろうか。
それには彫刻がもともとどういう役割を担ってきたかを考える必要があるだろう。元々彫刻は、宗教的なシンボルとして、または政治的なシンボルとして作られることがほとんどであった。(もちろん、現在でも彫刻と政治は無関係ではない。ソ連時代に大量に打ち建てられたレーニン像がソ連崩壊後に破壊されていったことや、度々ニュースで話題になる慰安婦像の扱われ方を見ても、そのことがよくわかる。)
そうして作られたものというのは恒久的に存在することを目的として作られる。儚い存在感ではいけないのだ。長い歴史の中で過去から未来へと堂々と鎮座するような存在感をもっていなければいけない。
見るものが圧倒され、畏怖の念を感じるような、そうした存在でなければならない。それが従来の彫刻が持っていた一つの性質であったように思う。
それが現在にも影響して、マッチョな価値観ー繊細さや表層的なリアリティよりも、マッスを携えた重みのある存在感を良しとするーを醸成してきたと言えないだろうか。
先に述べたように現在でも彫刻が政治と無関係とは言い難いが、ただ作家個人が制作するきっかけや出発点というものはもっと多様になり、評価の観点も幅が広がった。
そうして新たな表現が日々増えていく中で、今一度、じゃあ彫刻の本質はどこにあるのだろうか?過去も現在も変わらない普遍的な本質があるとすればそれはなんなのか?現在における彫刻の表現を見ながらその問いについて考えていきたい。
「形づくる」という行為そのもの
結論から先にいってしまうと、わたしは"彫刻"という言葉の本質は「形づくる」という行為そのものにあるのではないかと考えている。
立体作品か否か、というのは出来上がった作品それ自体の形が「立ち上がって見えるかどうか」に焦点が当てられていたが、彫刻か否か、というのにはその作品ができてくる過程の方に焦点を向けるべきだと考える。
そのことを考えるためにいくつかの作品をあげていきたい。
まず、今回この記事を書くきっかけになった「立ちあがるかたち」で展示されていた下重佳世さんの作品を振り返る。
1枚目の「○○○○」という作品では飴が樹脂粘土に包まれ、2024.1.29といったような日付を添えて、豆皿の上に乗せられている。1日ごとに飴を樹脂粘土で包んでいたそうだ。制作しているうちにも手や粘土の温度で、飴は少しずつ溶け出して形を変えていく、というようなお話をされていた。展示期間中にも、部屋の温度によって少しずつ溶けて形が変容していくであろうことを想定した作品だ。
2枚目の「 あれ 」と言う作品は水の入ったプラカップが並べられている。これは搬入当日に注がれていた水だ。こちらも、展示期間中に水が少しずつ蒸発してその形が変容することを想定されている。
どちらも、作者の手を離れたところで作品の形が変わっていくことがコンセプトになっているように見えた。
形が崩れたり変容していく作品といえば、宮永愛子のナフタリンの作品が思い浮かぶ。日用品などからかたどられたナフタリンの彫刻が、昇華しガラスケースの中で少しずつ崩れていく。そして昇華したナフタリンがガラスケースの内側にまた固着し結晶になっていく…というように、作者の手を離れたところで自然現象として形が変容していく作品だ。
飴が溶ける、水が蒸発する、ナフタリンが昇華する。それによって、その形が変化する。これらの作品は、そういった自然現象によって形が作られている=彫刻されている、と言えるのではないだろうか。
彫刻の本質が「形づくる」こと、にあるとする面白い例として、大学時代の同級生でもある作家仲間の江藤祐一君の卒業制作「12000km」を取り上げたい。(勝手に古い作品の話をして、怒られるかもしれない。ごめん。解釈違いなど何か間違いがあったら指摘してほしい)
彼のその卒業制作は、一見、映像作品であった。webサイトに載っている作品の解説は次のシンプルな一文だ。
展示会場ではブラウン管のテレビが二台、上下に積まれてた。そのテレビには、誰かがジャンプするような映像がひたすら流されており、下のテレビは天地が反転した状態(地面が天にあるような状態)で映像が映されている。
この映像をとるために、江藤君はブラジルまで行ったそうだ。そう、この二つの映像は一つは日本の地上をジャンプする映像、一つはブラジルの地上をジャンプする映像なのだ。つまりは地球のだいたい裏表に当たる場所へ行き、両側からジャンプして地面を押し込んでいるというわけだ。
それを見て私は、ああなるほど、地球を両側からおさえにいったんだ、と思った。この感覚は、もしかしたら粘土で塑像なんかをやったことがある人でないと、なかなかわかりづらいかもしれない。
粘土で塑像、たとえば首像を作るとしよう。そういうとき、(例えば予備校で)どんな指導を受けるかと言うと「額を作ったら後頭部をつくれ」というように、常に対局にある両側から形をおさえにいくことを意識するように言われる。
常に中心にある芯棒にむかって、形を上下左右あらゆる角度から、右をおさえたら左をおさえろ、という具合に両側から中心に向かってアプローチしていくのだ。
江藤君は地球というものの形を両側からおさえに行ったのだ、その土地の人々とともに、その足で。
一見「なぜ彫刻科で映像作品?」と思われるかもしれないが、映像作品と言うのはあくまで表現媒体の話であって、その作品の本質は彫刻=形づくるという行為そのものにあったのだ。
もう一つの作品「Standing Walking」では、家の廊下を歩く人々の足跡を集積している。歩くこと、ジャンプすること、それらの行為は足を使って地面を形づくることなのだ、そんなメッセージとして私はその2つの作品を解釈した。
そういうことなら、映像だけど彫刻作品、平面だけど彫刻作品、というのがいろいろあってもおかしくはないように思う。映像か立体か平面か、というのはその作品の最終的な"形態"にすぎない。彫刻か、絵画か、といった問いはもっと、作品の"本質"に根ざしている。
何を形づくるのか、それも作品によって様々だ。粘土を手でこねて造形物を作るようなことは誰でもイメージしやすいと思うが、粘土をこねてそれを展示空間に配した時、果たして形づくったのは"粘土"だけだろうか。
例えば李禹煥のような"もの派"と呼ばれる作家の作品の中には、石や木材などを特に加工せず、その場に配しただけのものも珍しくない。ではこれらの彫刻が形づくっているものは何なのか。それは空間である。石や木材を展示空間に運び込み、そこで意図的に配置すること。それはその空間を形づくることを意味する。
しかし、それは何ももの派の作品だけではない。先ほども述べたように、粘土をこねて造形する、石を彫って造形するというような素材そのものを"形づくる"彫刻であっても、展示室に配する時には、必ず展示空間を"形づくる"という行為からは逃れられない。
そんなことを言ったら絵画作品だって同じではないのか、と言われるだろう。たしかに、絵画作品であっても展示空間を"形づくる"という意識で配されているものはあると思う。というか、展示を作る作家はもちろん、意識していることだと思う。ただ、絵画は展示空間とは別にもう一つ空間を持っている。それが絵の枠だ。キャンバスだったらキャンバスの上が一つの空間になる。それひとつで独立し得る空間を持っているのだ。そのレイヤーを持った上で展示空間との関わりがある。ダイレクトに空間へアプローチする彫刻とは、空間への関わり方が若干異なるように思う。
もちろん、これには絵画の人からも反論があることと思う。キャンバスのような枠に収まらない絵画だってある。しかしそれらは、空間へアプローチすること(空間を形づくること)を主目的として枠からはみ出ているのだろうか?それとも、そこにはもっと絵画的な本質ー私は逆に、"絵画の本質"を理解していないーが関わっているのだろうか?
わたしには、絵画の人がどのような意図でもって作品と空間に向き合っているのかはわからない。ここに関しては、絵画の人からも意見が聞けたら嬉しい。
従来の彫刻にも現代の彫刻にも通底するものは、何かを「形づくること」であり、そこに彫刻の本質があるのではないかと思う。
繰り返しになるが、形づくられる対象は何も粘土や石や木といった素材だけではない。教会に置かれたピエタ像は信者たちの信仰心を形づくっただろうし、ソビエト連邦時代のレーニン像は人々の間に共産主義的価値観を形づくるために打ち建てられていたとも言えるだろう。良くも悪くも、人が彫刻を形づくり、その彫刻が人々を形づくるような現象は、決して珍しいことではないのだ。彫刻をやる人間として、そのことは自覚しておきたいと思う。
あとがき(雑談)
彫刻をやる人間として、などと書いたが、実際はわたしは普段自分の作品が彫刻であるかどうかなど、今では全く気にしていない。彫刻を作るぞ!という気概で制作をしていない。まあでも側からみれば彫刻の人間であろうし、特にそのことを否定もしない。
最近はわたしは自分の作品の中に箱庭を取り入れたりしている。箱庭療法で使われるあの箱庭だ。砂を触って動かしたり、その上に色々な玩具を配置したり、やっていることは彫刻に近い部分もあるのだが、少し違う部分がある。この文章を書きながら思ったことだが、彫刻というものは良くも悪くも現実空間・現実社会にダイレクトにアプローチするものだと思う。絵画のような一枚別の空間というレイヤーがない。しかし、箱庭には枠がある。その枠が現実とのひとつ隔たりとなる。そのことに、安堵している自分がいる。それが、いいことなのかはわからないが、最近の自分の作品では、その枠や境界線というものについて考えている。
石を彫っていると、石と自分との間に隔たりがない。ダイレクトに生身で相撲を取りあってるような感覚がある。わたしが石を彫刻してるんだか、石がわたしを彫刻してるんだかわからないような、そういう感覚。先ほど彫刻が人を形づくることがあると述べたが、それは彫刻と鑑賞者の間だけでなく、作者と彫刻の間でも起こり得ることだと思う。
箱庭も、もちろん作ったものが作った自分自身に影響を与えるというのはあると思うのだが、枠というセーフティネットのおかげか、もうちょっとジワジワ効いてくるという形でそれが表出される気がする。ものも残らないし。どちらかというと鏡とか写真に近い。昔の写真を見返して、ああ、この頃わたしこんな顔してたんだ、って思うような。以前に作った箱庭の写真を見返す時そういう感覚になることはある。自分の見えない形が可視化されるような感覚。でも、箱庭も人によって作り方や作る感覚が違うので、あくまでわたしにとっては、の話でしかないのだが。
うまくまとまらず雑談が長くなってしまった。
あとがきではもう少し、これからの制作とかそういう話をしようと思ったのに、そういう話は書こうとしても書けなかった。それはおいおい考えていくことにするとしよう。
最後に、今回このようなことを考えるきっかけとなった「立ちあがるかたち」を企画してくださった百瀬さん、展示作家のみなさん、ART TRACE GALLERYのみなさん、展示を見にきてくださったみなさんに感謝を申し上げます。ありがとうございました!
読んでいただきありがとうございます。売れない作家ゆえ、サポートでご支援いただけるととってもありがたいです。制作費や生活費になります。