残照小説
「ざんしょう小説?」
「そう、残照……『残る』に『照らす』で残照な。残照小説、俺はそう呼んでる」
ある日の夕方。
おつかいの帰り道、僕は、変な人を目撃した。
夏が終わってもまだ暑いのに、黒い長いコートを着ている、男の人。
彼の手には虫取り網。そして、足元にはノートが広げて置かれている。ノートが風で飛ばないようにか、四隅に石が乗せてある。何してんだろう……。
うーん。
不審者かな。
学校の先生に報告しないといけないやつかな。
なんて事を、僕が考えていた時だ。遠くの方から、何かが飛んできた。空をゆらりゆらりと飛ぶ様子は、風に舞う木の葉みたいだった。でも、葉っぱではない。黒くて……ちょうど男の人が着ているコートぐらいの黒で、それでえっとなんだかこう……ごちゃごちゃした形に見えた。変な形の、黒い、小さなものが、鳥の群れみたいに、いくつもまとまって飛んでいる。
こっちに来る。近付いてくる。
僕が空飛ぶ何かを観察していると……男の人は、虫取り網を構えた。
網を、ばさりと振り。
見事に、飛んでいたものを捕まえた。
網の中の、黒く、ごちゃごちゃしたもの。それは、まるで。
「文字?」
文字、ううん、文章。何かの本のページから、数行の文章だけが抜け出してきた、そんな光景が頭に思い浮かんだ。文章の書かれた本でも紙でもなく、ただ文章だけがゆらりゆらりと飛んでいたのだ。そうして網に捕まったのだ。
男の人は、網の中に手を突っ込み、文章を掴む。
それから、ぎゅっと握った文章を、足元のノートに……。
びたん!
と、叩きつけた。
「な、何してるの……?」
思わず僕は、この変な人に話しかけてしまった。
すると彼は。
「残照小説の捕獲だ」
と、言うのである。
「残照小説ってのはな、小説の一部分だ」
男の人はコートのポケットからペンを取り出し、ノートに……文章を叩きつけたのと同じページに、何か短い言葉を書いている。書きながら、僕に説明する。
「と言っても普通の小説じゃない。書かれなかった物語、あるいは忘れられた物語。そのどちらかから残照小説は生まれる。……よくわからんって顔だな」
男の人は、うーんと少し唸ってから、話を続ける。
「じゃあ、たとえばお前が将来小説家になるとしよう。新作の小説を書こうとする。物語のあらすじを想像する。結末を想像する。お前の頭の中には、新しい小説が……いいや、小説の形になる筈だったアイデアが存在している。だが。残念な事に、その小説はボツになった。うまく形にできなかったんだ。あ、ボツってわかるか?」
僕は頷く。ボツに苦しむ漫画家の漫画を読んだ事がある。
「良し。ボツになった事で、その小説自体はこの世に生まれ出る事がなかった。残念ながらな。お前の頭の中の使われなかったアイデアは、静かにこの世から消えていく……んだが、稀に、その欠片だけが生き残る事があるんだ。まるで太陽が沈んだ後、わずかに残った夕日の光みたいにな。そいつがお前の頭から抜け出して、文章の形となって世界に残る。それが残照小説だ」
「そんな事あるの?」
「あるだろ、目の前に」
男はノートを僕に見せる。ノートのページには、さっきまで空を飛んでいた文章がぺったりと貼り付けられている。そうだ。確かに僕はこの目で残照小説を見たのだ。
話だけ聞いたら嘘だと思っただろうけど、でも、見ちゃったもんなあ。
「忘れられた物語も同じだ。過去には誰かが作って誰かが読んでいた小説が、次第に忘れられて、この世から消えていく。それでもしぶとく生き残ったやつが、こうして世界を漂っていたり、俺に捕まったりもすると、ま、そういう訳だな」
「捕まえてどうするの?」
「ん? そうだな、まずカダイをつける」
課題? や、じゃなくて仮題か。
男の人の持っているノート。貼り付いた文章の近くに、「仮題:出会い」と書いてある。さっきペンで書いてたの、これか。
「残照小説は元の小説の一部だけで、タイトルまではなかなか残っていないからな。文章の内容から、仮のタイトルを考えてつけてるんだよ」
「へー……。その後は?」
「その後は、眺めて楽しむ」
「…………」
「…………」
「それだけ?」
「それだけだぞ。あー、別にこれ、捕まえていかないと世界が大変な事になるとか、そういうやつじゃないから。趣味だから」
「趣味」
「趣味」
趣味で空飛ぶ文章を捕まえている男の人。
やっぱり、変な人だった。
「楽しい趣味だぞ! おすすめ!」
変な趣味をすすめてくる男の人とバイバイして、改めて僕は帰路につく。
先生への通報は……やめておこ、だって残照小説なんて言われても困るだろうし。空飛ぶ文章を網で捕まえていた人の話なんて、信じてもらえるように説明できる気がしない。
ま、変な人だけど、害があるようには見えなかったし。
それより、早く帰らないと暗くなってしまう。
僕は空を見上げた。
夜が近付き、沈んでいく太陽が、けれど今はまだ、空に橙色の光を残している。
まるで、残照小説のように。
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