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映画「ノマドランド」~自由を選択し自由に縛られる~

久しぶりに、映画の話題です。
既に本年度のアカデミー賞が話題になっていますが、ボクが昨年観た、みなさまご存じアカデミー賞受賞作、クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」。

ボクは昨年末に「格差社会」を描いた映画を立て続けに見まくりました。

その中で、「ノマドランド」の第一印象としては、「格差社会」を正面切って描いていないのかな、、、もちろん、モチーフとしては格差社会そのものを描いているのですが、その織り交ぜたエッセンスにより、社会をリアリスティックに切り込むのではなく、なんとなく「ふわっ」とオブラードに包んだような印象だったのだけれど、今になって改めて印象深く思い出すシーンも多くて、やはり、アカデミー賞受賞するだけ、考えさせられることの多い映画だったんだな、と思います。
とはいえ、感染症蔓延後、エッセンシャルワーカーの給料も高騰し、アメリカ合衆国の現状は、映画「ノマドランド」が製作された状況とは刻々と異なっているんだろうな、

とも思いますが、ここはあえて格差社会の現状があまり改善されない日本の現状とこの映画を比較しながら書かせていただく。

陥ったのか、選択したのか

身内の話に戻って恐縮ですが、教師をしていたボクの妹が死んだことによって、この映画「ノマドランド」の主人公マクドーマンドさん演じる主人公ファーンも、昔、教師をしていた設定であることが、今になって印象深く重なってきました。

教師までしていた人物が、夫が勤務していた工場の閉鎖と共に、街を追われて、車上生活者になってしまう。第三者的、社会構造的に見ると、ファーンは明らかに救済されるべき社会的弱者であり、やむを得ず車上生活に「陥っている」ともとれる状況なのですが、「ノマドランド」は単純にそうは描かない。

立ち寄ったショッピングセンターで昔の教え子と出会い、「わたしはホームレスではない、『ハウスレスよ』」と言ったセリフに象徴されるとおり、あくまでファーンは「車上生活」は自分で選択した生き方であるという自負を持っています。

このファーンの前向きな心持ち、視点で描かれていることが、この映画の最大の特徴であり、この映画が成立する重要な要素だと思うのですが、ふと、リアルに描こうとしたとき、このように前向きに捉えて車上生活を送っている人が、どれくらいいるのだろうと、疑問にも思いました。
勝手な想像ではありますが、もし、日本でこのような状況下で車上生活を強いられるようなことになったら、恐らくここまで前向きに捉えられる人は多くは無いのではないでしょうか・・・。
ちょうど、2019年にNHKが「クローズアップ現代+」と、「NHKスペシャル」で、日本の車上生活者を追ったルポがありますのでよろしければご覧ください。

本にもなっています。

後述するような、自由の国アメリカの懐の深さがそうさせているのか、それとも実際のところアメリカでも、車上生活者の多くは、絶望と不満に苛まれて後ろ向きに生きている人が多いのか、実際のところどうなのか、大変興味があるところです。

自由と多様性を受け入れるアメリカの懐の深さ

リーマン・ショックに端を発した、格差社会の行き着いた結果として、キャンピングカーでノマド生活を送る高齢者。その物語を、単に「絶望」だけではない形で映画に描けるのは、アメリカ合衆国ならではであると思います。

アメリカの大自然の美しい映像美もさることながら、中国出身でアメリカ合衆国で成功した監督クロエ・ジャオさんだからこそ、人種や性別、国籍を超えて、多様性を受け入れるアメリカ社会の懐の深さを感じられる作品に描いたのかなとも、勝手に想像してしまいます。
もちろん、アメリカ社会も様々な差別問題も多々抱えていることは重々承知していますが。

キャンピングカーで集まる放浪労働者たちは、様々な背景を抱えていながら、お互いに深く立ち入ることなく自然に交流を深めていきます。
元教師であったファーンが、同じ放浪生活者ながら、全く人生の背景が異なるであろう若者が書く手紙に、シェイクスピアの「ソネット18番」の詩を捧げるシーンや、逆に、アメリカの中流層(どちらかというと裕福層寄り?)と思われる、ファーンの妹の家を訪れた時も、ある程度ごく自然に受け入れられています。
日本であれば、例えそれが、自分自身が選んだ生活であったとしても、「親族が車上生活者」という状況を周囲の人々がすんなり受け入れることは、不可能でしょう。非常に日本人的な感覚になりますが、ボクがそのような状況で、個人の「自律」に立ち入らず、笑って談笑できる感覚は、持ち合わせていないな、と思います。

そもそも、日本でアマゾンの労働者として、車上生活者の駐車場を完備した施設など、今後、格差社会、個人自由主義がいかに進展しようとも、ありえない話なのかもしれません。
日本とアメリカは、「個人自由主義」の成熟する方向性として、全く異なるベクトルにあると言えるのではないでしょうか。

究極の個人自由主義の中から生まれる共同体


ファーンが集う車上生活者達の集会は、「自由」であることを信仰するアニミズム的原始宗教のような共同体。

アメリカの美しい自然を背景にしたこの映画で描かれると、「そんなものなのか」と見過ごしてしまいそうですが、アニミズムとしては、アメリカの白人文化と比較して、日本の方が長い伝統があり、元来、日本の寺社仏閣が、様々な人々が寄り合う場所として機能してきたはずなのですが、現代社会においてその役割は薄れてしまいました。
逆に元来は厳格なキリスト信仰であり、1970年代のヒッピー文化以降に、アニミズムが浸透し、ネイティブアメリカンの文化をやっと見直していったアメリカ白人文化の中で、今、アニミズム的文化がノマド漂流民の共同体として機能しているのです。

ただ、ファーンの友人である病気を患ったノマド仲間の女性が、死を意識しながら昔見た、「ツバメの巣」=「美しい自然」に再び還っていく・・・理想的で美しい詩の形かもしれませんが、さすがに理想的に美しく描き過ぎているのかな、とも思いましたが。とはいえ、死を迎えた時に、一人ではなく、死を弔ってくれる共同体があるという安心感は何より「孤独」という絶望から救ってくれるものだと思います。

格差社会を背景に、望む、望まざるに拘わらず、究極の個人自由主義的生活に晒された車上生活者の中から、「自由である」ということを共通認識として信仰する、新たな共同体の形が生まれている姿には、映画の中に人間的な救いがあり、ある意味逞しく生きる姿であり、ある意味羨ましくもありました。

伝統的な宗教観も捨て、伝統的村落共同体も捨て、家族的な終身雇用の企業社会も崩壊し、個人自由主義と格差社会に突き進む日本において、その個人を受け入れる共同体が無いことに、非常に危機感を感じます。
現状で日本に存在する「共同体」のほとんどは、「家」を持った、定住や、伝統的「家族」を基礎とするものだと思います。
山谷や寿町、西成のあいりん地区には、港湾、建設労働者の簡易宿泊施設「どや」を中心にしたコミュニティが存在していたのかもしれませんが、そこにはここでは語り尽くせないくらい多くの問題があり、しかも、それも産業構造の変化により、時代と共に消えようとしています。

「個人の尊重」「多様性」を認めると同時に、「個人自由主義化」と「格差社会」が同時進行で急速に広まっていったとき、何の救済もされなければ、丸裸で投げ出された個人に待っているのは「孤独」という絶望なのではないでしょうか。

アメリカの姿を映すアカデミー賞

この「ノマドランド」がアカデミー賞を受賞したといのは、現代のアメリカの姿をリアルに捉えるとともに、多少理想的過ぎる中には、アメリカの人々の希望も混じっているのかもしれません。
・・・と、ここまで「ノマドランド」の感想を書いてきたところで、ボクも映画の記事を参考にさせていただいているヴィクトリー下村さんが、この「ノマドランド」と表裏一体となる映画を撮ったケイリー・ライカートさんという監督を紹介される文章を書かれました。

まだ拝見したことはありませんが、文章から察するに、「ノマドランド」よりも厳しい、過酷なアメリカ社会の現実を描かれているようで、是非観てみたいです。

ポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」、「ノマドランド」と続いて、感染症蔓延を経た今年、いかなる作品がアカデミー賞を受賞するか、注目してみたいと思います。

それでは、今回はこの辺で。

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