映画「キューポラのある街」~あの時代の子どもたちの成長を描き切った物語~
1962年浦山桐郎監督、吉永小百合主演「キューポラのある街」を観ました!
正直なところ、決して明るいとは思えないテーマと、隔世の感がある時代背景、この物語に感情移入できるんかな?と心配になりましたが、映画を観始めてみると、そんな心配は無用!!
非常に濃厚で巧みな構成と、吉永小百合さんの名演技とそれを引き立たせる舞台背景!
ぐんぐん引き込まれて、最後は爽快感に包まれ、さすが!!名作でした!!
美女を輝かせる舞台とは!?
17歳の吉永小百合さん(役的には中学3年生)の初主演!!
黒々とした工場とその界隈の猥雑な繁華街、ボロボロの貧しい日本家屋、荒川の土手に、貨物列車!
うーん、ボクの大好物ばかりであります!
この監督、美女を輝かせる舞台をよくわかっていらっしゃる!!
暗い背景に際立つ、清楚な白いブラウスを着た吉永小百合さん演じる「ジュン」のコントラスト!最高の舞台で主演デビューだと思います!!
ジュンの登場シーンは、ソフトボール選手!小百合さん似合ってます!!
最初は快活な女の子をわかりやすく描写!!
そして、脇を固める俳優陣も、どうしようもない呑んだくれ頑固一徹鋳物職人の東野英治郎さんと庶民的な妻、杉山とく子さん、そして、もう一人の主人公ともいえる、悪ガキの弟、市川好郎さん演じる「タカユキ」。
父親は「朝鮮と付き合うな!」なんて、この時代ならではの差別的発言を口にするような人物だが、ジュンはそんな事お構いなしに、父親が朝鮮人である友人ヨシエとも、全く屈託なく付き合い、一緒にパチンコ店でアルバイトをしたりする。
パチンコ屋で働く吉永小百合さんも斬新!
狭いパチンコ台の裏で、客の男たちに乱暴に呼びつけられ、忙しく立ち回りながらも、友人との屈託のない将来に向けた夢の話は止まらない!
同時に、ジュンの家庭とは全く境遇の異なる、お金持ちの友人ノブコ(日吉順子さん)に勉強を教えながら、仲良くしている。
ジュンはノブコに、この映画で一つのキーアイテムとなる「口紅」をもらったりするが、お金持ちであるという嫌味がなく、お金持ちゆえの余裕が感じられる「良い子」に描かれているのもリアルで良かった。
観客は、自分の世界をどんどん広げていくジュンの姿を応援したくなってくる!
弟をかばって、口紅をつけて、毅然とした態度で不良少年に対峙する姿!
不良に唇を奪われ、川口市役所前の噴水で慌てて口をゆすぎ、口紅を落とす。
弟にも慕われる、頼もしい姉の姿!
前半は、暗く貧しい工場街のなかで、生き生きとした吉永小百合さんの演技に引き込まれる!!
ダボハゼの子はダボハゼだ!
ところが、対照的に、頑固一徹、昔のプライドが捨てられず、狭く古い職人の世界に留まろうとする父親、東野英治郎さんが、自分勝手に娘の親友ノブコの父親がせっかく紹介してくれた工場を、その頑固さゆえに辞めてしまい、前職の退職手当も酒とオートレースで使い果たしてしまうことで、全てを台無しにしてしまう・・・。
娘の友情さえも踏みにじる親父の身勝手さを本当に上手く描いていた。
しかし、このオートレースにのめりこむ父の姿、39分15秒から39分39秒までの、たった24秒間4カットで全てが描かれている!!
なんという濃厚に練りこまれた脚本と卓越した編集構成!!
そんな、頑固でわがままで古いプライドに固執する父親に「自己中心主義」と言い返し、朝から大げんか!
「ダボハゼの子はダボハゼだ!!」この言葉に、ジュンは将来に向けて学校で勉強する意味さえ見失ってしまう。
ジュンは、同級生との楽しいはずの修学旅行にも参加せず、前半の伏線から、思わぬ自分自身の身体的成長にも直面!!
やがて自暴自棄に陥りながら、不良少年たちと合流してしまい、そして迎える、危機一髪!!
しかし、ここで、既のところで、危機を逃れたのは、浦山桐郎監督の優しさなのか!?
ここが、後々の吉永小百合さんの清純派女優としての系譜にも大きく影響をしているようなwww!?
その後ジュンは、熱血担任教師の説得もあり、家族からの自立を決意する。
日立製作所の電気機器工場を訪れ、様々な事情を抱えながらも、働きながら、定時制高校に通う女性たちに触れ、そこにジュンは希望を見出す。
その後の、日本の電機メーカーの盛衰を知る、現代から見れば、複雑な心境もする。
しかし、当時の中小企業の待遇から比較すると、近代化された工場の就労環境は天と地以上の差だろうと思う。
再就職が決まり、喜んで飲む家族の前で、ジュンは自分が自立する決意を語る。
「自分でいったん決めたことだから変えないっていうだけよ!」
「これは家のためっていうんじゃなくて、自分のためなの。たとえ勉強する時間が少なくても働くことが別の意味での勉強になると思う」
「一人が5歩前進するよりも、10人が1歩ずつ前進する方がいい」
そして、弟のタカユキに見送られ、川口の鉄道跨線橋の上から、電機メーカーの就職試験に出発するところで、物語は終わる!
その後の高度経済成長期、日本がこれから成長する時代、まだ希望が見いだせた時代・・・今現代の我々から見れば、当時から今に至るまでに成功した人の生涯に焦点を当てて、回顧的にこの映画の吉永小百合さん演じる「ジュン」のような人物を描くことは簡単に思えるかもしれない。
しかし、よく考えてみてほしい。
当時、間違いなく、現代からは想像もつかないくらいの貧困や苦悩がはびこっていたはずである。
当事者として、その時代に埋没して生きていたら、卑近な生活の苦悩に押しつぶされそうになっている人がほとんどだったのではなかろうか?
その中で、当時、懸命に生きる人々に、同時代に制作する映画だからこその、リアリティも持ちながら、一方で映画が少し俯瞰的な視点を持って、若者、子どもたちの自立と希望を見出せるような視点を提示することは、今考える以上に大切で意味があることだったのではないだろうか?
男の子も成長する
見てきたように、主演である吉永小百合さん演じるジュンの成長を、これだけ魅力的に濃厚に核として描きながら、である!!
この映画がさらに秀逸なのは、その弟、市川好郎さんが、非常に生き生きと演じる「タカユキ」の成長も余すことなく描き切っている。
何という濃厚な脚本!!濃厚な1時間38分!!
立小便をして、スカートめくりをして、飼っている鳩の手付金をもらって、映画を観に行って・・・
父親が朝鮮人の「サンキチ」からも「親分」と慕われ、最初は、ホント、悪ガキの男の子ってどうしようもねぇなぁ!と笑ってみていたのだが・・・
親父は一方的に「悪ガキ」と決めつけ、タカユキの話を聞こうともしない。家出をして、サンキチの家に身を寄せながら、父が朝鮮人、母が日本人というサンキチの家庭の事情を見たり、鳩を巡って不良に借金してしまったところを姉に助けられ、その姉の姿を見ながら、タカユキも悪ガキなりに、父親と対峙しながら、成長していく。
そして、サンキチの密かに好きな女の子との晴れの舞台、学芸会で、サンキチのことを「朝鮮人参!」と野次った男子と喧嘩したり、牛乳を盗んでいたところを牛乳配達の少年に咎められ、その裏の事情を聞くことになったり・・・
タカユキはタカユキの生きていく社会との関係性のなかで、だんだんと「他者の痛み」を知っていく。
「オレ、高校に行くからな!!」
そして、朝鮮に帰るサンキチとの別れと、何故か再会!?
タカユキは、サンキチと共に、新聞配達のアルバイトを始めて、姉の背中を追いかけて、しっかり成長していくのだった。
ヤングジェネレーション
そして、新しい時代の象徴的に描かれる、浜田光夫さん演じる、若い職工「克己」の成長もさりげなく、しかし重要な役割を担って描いている。
本当に過不足ない配役!!
吉永小百合さん=ジュンに淡い恋心を抱きながら、頑固職人の東野英治郎さんを立てつつ、新しい時代に合わせて、組合からの補償の世話を焼き、再就職まで面倒を見る。
そして、ジュンとは最後までプラトニックな関係を保ちながら、修学旅行について先生に掛け合ったり、ジュンが不良たちに襲われて危機一髪になった時にも助け出したり、
最後には、ジュンの決断に対しても理解を示し、「ヤングジェネレーション」を代表する頼もしい若者男性として、未来に向かって成長していく姿を清々しく描いているのだ!
多様性がむき出しの時代
ジュンの親友ヨシエと、その弟、タカユキの親友サンキチの父は朝鮮人である。
タカユキは家出して、明らかにボロボロな、くず鉄などの廃品回収で生計を立てているサンキチの家に身を寄せる。
後半では、そのヨシエとサンキチの一家が、いわゆる「在日朝鮮人帰還事業」による奨励に従い、北朝鮮へ帰還する様子が描かれている。
現在の北朝鮮の状況を知るものからは、前途洋々と帰還する姿に複雑なものを感じるし、古く頑固者のジュンとタカユキの父親は、「朝鮮と付き合うな!」とか、学校でも「朝鮮人参!」と揶揄する者もいたりして、そこには明らかに差別や、職業的差別が元になった貧富の差も描かれていて、それらはとても現代では描けないものだろう。
しかし、少なくとも、ジュンもタカユキも、決して差別感情は持たず、自然に友達として接している。
それに、川口駅前での朝鮮帰還事業の出発式において、先生をはじめとして、学友であるヨシエを見送る姿に「差別」の心は無い。
親友ヨシエの母親は日本人。
帰還事業で一緒に朝鮮に渡ることはできないのか?夫婦の複雑な事情の中で、自分の意志で朝鮮に行かないのか?
理想と夢に溢れた朝鮮帰還事業の裏で、親子が一緒に暮らせなくなる。
わずかなエピソードの中にも、大人の事情、国と国の政策に振り回される子どもたちの姿を秀逸に描く。
そんな、大人の社会を見て育っていくジュン=吉永小百合さんの眼差し。
それこそ「みんな違って当たり前」な時代だったのだと思う。
日本が貧しかった時代、何度も書くが、現代からは想像もつかないくらいの貧困や苦悩があったのだ。明らかな貧富の差、差別もあった。
単純に「古き良き時代」などと言えるものではない。
しかし、どうしようもない父親にしても、若い克己にしても、多彩な友達関係にしても、熱い担任の教師にしても、熱くかかわりあう多彩な人間関係の中で、周囲と熱く関わり合いながら、その中で子どもたちは、たくましく育っていく。
ジュンもタカユキも、そういう意味では、親だけでなく、地域社会全体に育ててもらったわけで、この当時に育ったことは、ある意味、幸せな面もあったのかなぁ、とも思う。
高度経済成長期を経て、貧富の差、国籍の差など、臭いモノにはふたをするように、全て塗り固めて均質化してしまった。
その結果として、今更世界でお題目のように「多様性を認めよう」などと言われているが、一方の日本社会は、均質性の中で、ぬるま湯のような、一見同質に見えるものが群れを成し、脆く歪なコミュニティしか形成されていない。
本質的な差異は覆い隠して見て見ぬふりをするくせに、些細な差異を指摘して、仲間はずれにしたり、いじめの対象にしたり・・・
些細なことで、コミュニティの断絶が起こり、そこからこぼれた人には見向きもしない、現代の日本社会。
この映画の時代より、国としては豊かになったのかもしれないけれど、日本人の心はどんどん貧しくなっていったのではないか?と思うのである。
時代は異なれど、身近に感じる深い作品
ボクは、岡山の河口を干拓した、工場が立地する港湾の街で生まれ育った。戦後に工業化されたことで、戦地から引き揚げた人や、農業を止めて田舎から出てきた人、朝鮮人、中国人など、様々な人が移り住んでできた大小さまざまな工場が集まり、何となく、この「キューポラのある街」で描かれた川口の光景と重なるものがある。
ボクの父親は、その街ができた頃から生まれ育ってきた人で、しかも、電気工事の職人であることを自負していた。
父も、頑固で職人肌であったが、さすがに、職人と言えど、東野英治郎さん演じるジュンとタカユキの父親の世代というより、吉永小百合さんと同世代である。
父は、工業高校を卒業した後、やはり大手電機メーカーに就職したが、企業社会に馴染めず、自営業の職人になった。
まだ、ボクの小さいころには、岡山の旭川河口の土手沿いに、廃品回収業者の掘っ立て小屋が残っていて、父親に差別意識は無かったが、「あそこは朝鮮系じゃ」と教えてもらった。
この映画「キューポラのある街」は、1959年早船ちよさんによる児童文学小説として書かれたものである。
長々書いた通り、1時間38分の映画に過不足なく盛り込まれた、浦山桐郎監督と、その師である今村昌平監督と共に書いた脚本が、あまりに秀逸なものであるので、原作とは、かなり異なっているのかもしれない。近々、原作本の方も読んでみたいと思う。
ストーリーのネタバレ紹介に文を費やしてしまったが、リアルな時代性と、希望ある爽快な後味で、分析しようとすれば、さらにいろいろ書けそうな物語である。
映画も非常に濃厚なので、これだけ書いてもまだまだ書き足りないこともあると思うので、みなさま是非ご覧になっていただきたい!
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