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少年愛の美学

「少年愛の美学」は、稲垣足穂の集大成である、エッセイだ。
某大企業に勤めていた頃、会社に行く朝、決まって起こる、胃痛と、「会社に行きたくない!!」という思い。眠い。いくら前の日に早く寝ても、眠い。
この気分、どっかで体験したことがあるなぁ、、、と、よく考えてみると、小学校6年生の頃。
根幹的なイジメを思い出させた引き金となったのは、会社なのだ。

しかし、更に小学校の頃を思い出そうとすると、「少年愛の美学」的な話になってくる。。。
友人達、男の子同士の性関係の話。

ボクが酷くイジメられていた時期は、小学校3年の頃と、小学校6年の頃。
そう、前にも書いたが、今思うと、2年間だけなんだよね。
しかし、その2年間が、ボクに暗い影を今でも落としているのだ。
ちなみに小学校1年から、思い出しついでにクラスと担任を書いていこう。
岡山市立F小学校。
1年3組小林先生
2年1組木村先生
3年1組徳田先生
4年2組宮原先生
5年2組光旗先生
6年2組光旗先生(持ち上がり。クラスメートも先生も5年生と同じ)

5年から6年の「持ち上がり」と言われた制度がイジメを酷くした気がする。
岡山市立F小学校は、岡山市立N小学校と一緒になって、中学校に上がる。
その頃、隣のN小学校では伝説の不良「池田くん」がいて、学校がひどく荒れていたらしい。ボクは池田くんには会ったことが無い。

それに対抗するべく!?ボクらのF小学校も荒れた。
原因はよくわからないのだけれども、6年1組の上野、池上、佐藤の3人を筆頭に、F小学校も荒れた。
どう荒れたかは、ボクのイジメの状況の詳細と共にまた今度書こう。
最も荒れたのは、6年1組であって、ボクのクラス、6年2組ではない。
そのことも、ボクがイジメに陥っていった重要な要因であると思う。
ボクは、上野、池上、佐藤の極悪不良組とはかかわることを避けた。
それが陰湿ないじめにつながったのだと思う。

小学校5年のころ、休み時間にボクが必死に絵やマンガを描いていた「自由帳」は、ボクの従兄弟が鳥山明のマンガを元にした本格的なマンガを描いていた影響もあり、しっかりコマ割をしたマンガを描いたりし始めた。
ガキ大将的な存在として、ボクの自由帳も気に入ってくれていた、中元くんがいたりして、またボクは新たに自由帳のギャラリーを獲得していった。
ちょうど、ドラゴンボールが、ドラゴンボールZになる頃だ。確か、小学5年の運動会の応援歌も、ドラゴンボールだったし、応援合戦も、白組の象徴たる、白い神龍が、青組、赤組の象徴を巻き込んで白くしていくストーリーだった。神龍のデザインをボクが描いたから、よく覚えているのだ。

さて、そんな小学5年のある日、ボクは自由帳を通じて新たに仲良くなっていた、渡辺くん、山口くん、有吉くんと、ある日珍しくうちの母が留守の、我が家で遊んだ。まだ家を立て替える前だったから、明らかに小学校5年だった。
因みに、我が家は、母が専業主婦であり、留守であることも珍しかったし、我が家には、ファミコンを始めとするTVゲームが無い。ボクは、TVゲームを買うか、鉄道模型を買うか、で、鉄道模型を選んだのである。

渡辺くん、山口くんと遊ぶ時は、たいていドラゴンクエスト等のゲームを、渡辺くん宅でやることが多かった。

思い出した!そうそう、夏だった。
渡辺くん、山口くん、有吉くんの3人は、新しい電動式水鉄砲を手に入れたのだ。で、恐らくボクの家が、母が留守だったので、水鉄砲を持って遊びに来たのだ。
最初は、水鉄砲で遊んでいた。
もちろん、お互い濡れる。
そこでお互い、シャツを乾かしたりしているうち、水鉄砲にみんな飽きてきた。
我が家には、TVゲームが無いから、トランプをすることになった。知っているだろうか、「ページワン」という、「UNO」をトランプでやるようなゲームだった。
そのゲームで、誰からともなく、恐らく、その前に水鉄砲で散々遊んで、着替えたかった、というのもあるだろうが、「負けたら1枚脱ぐ」という、野球拳方式のルールで遊び始めた。
山口くんは、彫が深めの、西洋人のような、美少年だった。
そして、渡辺くんも、背は小さいが、かなりイケメンの部類だった気がする。
有吉くんは残念ながら、それほど美少年ではなかった。
「ページワン」で、一番負けたのは、残念ながら、有吉くんだった。
さすがに、我々のルールの中で、チンポを出すのは、誰からともなく憚られ、パンツ一丁の次は、尻を晒して終了だった。
有吉くんは何度もケツを晒した。
有吉くんの次に負けたのは、美少年山口くんだった。。。

ボクは、そこに、性的興奮を覚えていた。
しかも、山口くんがパンツ一丁になったところに、ふざけて上半身裸の渡辺くんが抱きついたりしていた。

ボクが言い出したんだと思う。。。
ボクは、パンツ一丁の後のケツを晒すところに、「みんなにケツを叩かれる」という罰ゲームを足した。
そうなることは、触りたくもない有吉くんのケツを触ることになるのだが。。。

有吉くんは、調子に乗って、ケツの穴を晒したりして、みんなに「汚ねぇ!!」などと笑われたりしていたが、ボクは山口くんと渡辺くんを負かそうと必死だった。。。
もちろん自分も、何度かケツを晒しているのだが。。。

そうして、小学校を卒業するまで、ボクの友人たちの間で流行した、野球拳式の、「負けたら一枚脱ぐ」は誕生したのだった。

それから卒業まで、罰ゲームは凄惨を極めながら、我々の間で流行することになる。。。

忘れもしない、その1回目が小学校5年生だった。

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