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第三巻~オオカミ少年と国境の騎士団~ ①-1・2

 第一話 「夏の陽射しと乙女心」
 
 
      1
 
 青い海とまぶしい太陽。
 青蘭月は一年でもっとも太陽が輝き、気温も高い時期である。
「ふああああああああああ」
 桟橋で釣り糸を垂れていたランは大あくびをかました。
朝早いとはいえ、太陽の光がぽかぽかとあたたかくて、眠気を誘うせいだ。
《ラン、これで二十七回目のあくびだ》
 ランは目尻ににじんだ涙を、手の甲でこすった。
「ふぇ? そうなの……って、いちいち数えてんの、オード」
 胸元の――鍵の姿のオードを、ランは思わず見下ろす。
《数えたくて数えたわけじゃない。あまりにも暇だったので、つい》
「ふぁあああ……いつまでこの港町にいるのかなー」
《路銀がなければ旅に出られない》
「アルヒェがあの指輪とか、素直に売ってくれればいいのに」
《貴重なものだから、無理だろうな。アーキスタに行くのなら、青蘭月の間に移動したほうがいいのだが……》
 オードがやれやれとつぶやく。
 
 この世界は毎月、月の色が変わる。
 黄蘭月、緑蘭月、赤蘭月、青蘭月、紫蘭月、白蘭月、黒蘭月――月の模様が蘭の花に似ているため、こう呼ばれている。
 このうち、「魔の月」と呼ばれるのは、赤蘭月、紫蘭月、黒蘭月。これらの月の下で魔物に襲われた者は「呪われた血」を持つ者となる。
 ランは黒蘭月に襲われたため、黄蘭月に銀色のオオカミに、オードは二年前の紫蘭月に襲われ、それ以来、紫蘭月以外は鍵の姿のまま――という宿命を背負ってしまったのである。
青蘭月の次は、紫蘭月。夜になると魔物が徘徊する魔の月に長旅は危険だ。昼間のうちに街から街へと移動できるならともかく――お金がなければ野宿するしかない。
「呪われた血」を持つランたちは魔の月を恐れることなく動くことができるが、普通の人間であるアルヒェは野宿でもしようものなら、あっという間に魔物の餌食になるだろう。
「ここからアーキスタって、どのくらいかかるのかなあ」
《アルヒェの話だと、大人の足で二十日もあればアーキスタの国内に入れるようだが》
 国境を越えてから、アーキスタの都までどのくらいの日数を要するのか。そういえば、アルヒェからまだ聞いてない。
《まあ、行き方はアルヒェにまかせておけばいいだろう》
「うん」
 問題は、そのための旅費がまったくないということだ。
 つい数日前まで、ランたちは海賊船に乗っていた。そして、海賊とともにゼーガント諸島にある古代遺跡を探検し、遺跡の番をしていた巨大な魔物雨や骸骨戦士と戦った。
 冒険の末、どんな扉でも開けられる魔法の鍵であるオードが扉を開け、遺跡の奥深くに眠る、古代アーキスタの王と王妃の棺を発見し、海賊たちは副葬品の宝飾品を、考古学者であるアルヒェも学術的、歴史的に見ても大きな発見をし、それぞれに大きな成果を手にしたのだった。――デリアンに向かっていたランたちが、針路を大きく外したことをのぞいては。
 海賊船から放り出され、二日前の朝、漁船に助けられたランたちは、ここ、セルデスタという小国のセルチという名の小さな港町に上陸した。
 アージェが海賊からくすねてきた指輪や宝石は、
「歴史的に貴重なものだから売っちゃダメ」
とすべてアルヒェが取り上げたため換金できず……なので、ランたちの所持金はない。
 お金がないなら、稼げばいい。
 ということで、アージェとアルヒェは昨日見つけた大衆食堂の給仕と皿洗いの仕事に行っている。ランは食事代を浮かすため、こうして釣りをしているのだ。魚を釣れば、食費はタダですむからだ。
「うう……」
 一度、海から引き上げた釣り糸の先を見て、ランは肩を落とした。
針が釣り上げたのは、紫色の海草だった。
昨日はクロダイが釣れたからいいが――なにも釣れなかった場合、今日の夕飯はなにも食べられないということになる。アージュとアルヒェが食堂の残り物をもらえればいいのだが。
「なにも釣れなかったら、どーしよー……」
 アージュに頭をはたかれるどころか、回し蹴りを食らうかもしれない。
 ただでさえ、最近のアージュは倹約傾向が強い。宿は素泊まり、食費は魚を釣ってタダ。そして、稼いだ日銭は少しでもこの先の旅費に回そうという寸法だ。
 宿代は実はかなり、精神的な負担となっていた。ランたちは野宿でかまわないといったのだが、アルヒェが反対したのだ。
理由は「女の子を地面に寝かせるなんてとんでもない」だった。
 アージュのたくましさを知っているランとオードは、「そんなの気にしなくていいよ」と言いたかったのだが、学者であるアルヒェはそれなりに紳士でもあるらしく、ちゃんと宿を取ることを主張したのだ。議論の的となったアージュが「野宿でいいわよ」と言っても、アルヒェは首を縦に振らなかった。


「よお、ぼうず。今日も釣りか?」
 その声に振り返ると、日焼けした肌にたくましい腕のおじさんが立っていた。
漁に使う網を肩に担いでいるところをみると、漁師なのだろう。生成りのシャツの襟元には、波を模したような刺繍が入っている。セルデスタの刺繍だ。
「昨日もここで釣り糸垂れてただろ? 狙いはなんだ?」
「んーと、とにかく、デカイやつ。巨大ダコとか巨大イカとかクジラとか」
 ランが客船の中で読んだ絵本の知識をもとに言うと、おじさんは肩をゆすって笑った。
「はーははははははっ! そりゃあ、大物だ。ぼうず、気に入った。名前は?」
「ラン。あ、ホントはラン」
 バートって名前なんだけど……と続けようとしたランの肩におじさんのたくましい手が、がしっと乗せられた。
「ラン。今から一緒に来いや。おまえさんをいいところに連れて行ってやるからよ」
「いいところ!? 行く行くっ」
(ラン、そんな簡単に……)
 とオードは思ったが、声を出すわけにはいかない。
鍵がしゃべるなんてことが知られたら、大変なことになるからだ。
(いざとなれば、声を出せばいい。悪い人には見えないし……)
 と考え、オードは成り行きを見守ることにしたのだった。
 
            *
 
 その夜。
 ランたちは宿を引き払い、漁師のおじさん――名前はガントという――の家の離れにいた。
 離れは小さいが、ベッドがふたつあり、台所もあった。なんでも、ガントおじさんが新婚の頃に住んでいたらしい。
「親切な人がいてよかったね」
「タダで貸してくれるなんてツイてるわ」
 アルヒェとアージュが中に入るなり、それぞれの感想を口にした。
「今日、稼いだお金は、ほとんどこれまでの宿代に消えちゃったから、助かったよ」
 部屋の隅に荷物を降ろし、アルヒェはベッドに腰かけた。
「でも、どうして貸してくれたの?」
 アージュが訊くと、
「ガントおじさんと友だちになったからだよ」
 と、ランが簡単に答え、オードがこう付け足した。
《ランはすっかりガントさんと意気投合してしまったんだ》
 
 ガントおじさんに連れられて行った先は、漁船だった。
 その漁船に乗って、ランたちは沖へ出た。
「ぼうず、男の仕事ってヤツを見せてやらあ」
 ガントおじさんは腕まくりすると、釣竿をひゅんと唸らせ、海に糸を垂らした。
 そうして、しばらくして――ぐいっと海面に引っ張られた釣り糸に手ごたえを感じ、ガントおじさんが一気に引き上げると。
 銀色に輝く大きな魚が、釣り上げられた。
「おおっ、すげーっ」
「これはカジキだ。うまいぞー」
「オレも釣りたい!」
「よぉーし、その意気だ、がんばれ、ぼうず。海に引きずりこまれないように気をつけろよ」
 そういうわけで、ランも釣竿を手に、海釣りに挑戦することになった。
 夏は暑くて餌の食いつきも悪くなるので、昼ごはんの時間に釣りは終了とあいなったのだが、ランはカジキ、イシダイ、シイラなど、初めてにしては大物ばかり釣ることができた。
「漁師って男の仕事だよな~~、カッコイイ!」
 ランは船の上で、瞳をきらきらさせ、ぐっと拳を握った。
 魚と奮闘し、そして、釣り上げたあとの爽快感。これがたまらない。
故郷のクルリ村ではよく川に釣りに出かけたけれど、海釣りは広々した海に船で繰り出すせいか豪快さを感じるのだ。
「ぼうず、話がわかるじゃねぇか。ますます気に入った!」
 
「オレ、漁師になってもいいかも~~っ」
 
「そうか? なら、ウチに来いや」
 ガントおじさんはニカっと笑って、ランの肩にがしっと手を置いたのだった。
 
《――というわけだ》
 オードが説明し終わった、とたん。
 がすっ! とアージュのひざ蹴りがランの腰にお見舞いした。
「だあ―――っ!」
 ランは蹴りを食らった勢いで壁際まで吹っ飛ばされ、床の上に転がった。
「な、なんだよっ、いきなり~~っ」
 涙目になったランが腰をさすりながら、身体を起こすと。
 仁王立ちになったアージュが、キッと目を吊り上げて、雷を落とした。
 
「ったく、お気楽すぎるわ! あんた、こないだも『海賊になってもいいかも~~』なんて言ってたでしょ? 簡単に影響受けるんじゃないわよっ」
 
「あー、でも、それって、ランがとても柔軟な発想を持っているってことだよね。好奇心旺盛なのはいいことだよ」
 おだやかな口調で、アルヒェが口をはさむ。
 アージュはこめかみをひきつらせながら、アルヒェをぎろりと睨んだ。
「あんたは黙ってて。口出ししたいなら、とっとと指輪売ってお金作ってきなさいよ」
「あは、ごめんね」
 全然悪いと思ってない顔で、アルヒェが頭をかく。
「もうっ、あんたがあのお宝を売ってくれたら、すぐにでもアーキスタに行けるのに」
「でも、ランのおかげでこうして屋根のあるところに泊まれたんだから、いいじゃないか」
「そうだよ、オレのおかげで宿代がタダになったんだから。魚も釣ったし、夕飯もタダだよ」
 次の瞬間、なぜかランの頭にゲンコツがお見舞いした。
「痛っ、なんで?」
《タダという言葉はアージュが好きな言葉なのに》
 ぽかっ。またまた、アージュがランの頭をはたく。
「だから、なんで~~?」
 オードの代わりにランの頭が犠牲になるのは、いつものことだが。
「うるさい」
「あ、アージュはね、今日、酔っぱらい客を張り飛ばして、クビになったんだ」
「へ?」
 ぽかんと口を開けたランに、アルヒェが「ついでに僕もクビになったよ」と続けた。
《アージュは相当、店のものを壊したとみえるな》
「なるほど……」
 アージュの暴れっぷりを想像し、ランはひきつった笑みを浮かべた。
「ちょっと、アルヒェ! あれはあっちが悪いんだからね」
「わかってるよ。あの客が君のお尻をさわったからだろう?」
「フン」
 アージュがツンと頭をそらした。思い出したくもないのだろう。
《だから機嫌が悪いのか》
 オードが指摘し、ランの頭がまたぽかりとやられたとき、
「ラン、いる?」
 外から、女の子の声がした。ちょっとハスキーだが、かわいらしい声だ。
 アルヒェが扉を開けると、髪の毛を後ろの高い位置で結わえた、元気のいい感じの、日に焼けた肌の女の子が外に立っていた。
「これ、おすそわけ。今日の夕飯、多く作りすぎちゃったから、よかったら、どうぞって、うちのお母さんが」
「うわあ、ありがと、チェシル」
ランはおかずの乗った皿を女の子――チェシルから受け取った。
 皿には、根菜と一緒に煮込んだ魚のぶつ切りが入っていて、いい匂いがした。
 アージュが皿をのぞきこみ、鼻をくんとやった。
「まあ、おいしそう。助かるわ~~」
「あ、あの?」
 いきなり割って入ったアージュに、チェシルが怪訝な目を向ける。
 
「あ、ごめんなさい。あたしはアージュ。ランの従姉よ。こっちは同じく従兄のアルヒェ」
 
 アージュの言葉にチェシルが、ランとアルヒェを見て、不思議そうな顔になった。
ランは金髪、アージュは深紅の髪、アルヒェは栗色――とまったく統一感がないからだ。
 
「みんな、髪の毛の色とか瞳の色がバラバラなのね」
 
 ついでに言うと、ランの服は鳥の羽を模した刺繍が、アージュのには炎を模した刺繍が、アルヒェのは一見すると双葉のようなナッツが――というように、お国柄もバラバラだ。
「うちのお祖父さん、何人も奥さんがいたから~~」
 またもアージュが適当なことを言う。
もちろん、この三人がイトコ同士だというのはウソだ。あちこちの旅先で事情を説明するのが面倒なので(特に説明する必要もないのだが、訊かれることもあるので)、こういう設定にしているのである。
「ふーん、そ、そうなの……」
 チェシルはちょっと微笑んだ。立ち入った事情を聞くのは悪いと思ったのだろう。
 すると、一同を代表して、いちばん年上のアルヒェがチェシルにあいさつした。
「こんばんは。君、ガントさんのお嬢さんだよね。僕はアルヒェ。離れを貸してくれて、ありがとう。君のお父さんにごあいさつしに行きたいんだけど、いいかな」
「ええ」
 チェシルはうなずき、ランを見た。
「じゃあ、ラン。明日、漁に出る前に迎えに来るわね」
「うん」
「漁かぁ。ねえ、僕も行っていいかい」
 アルヒェがそう言って、「これでも、海には慣れっこなんだ。この三年間、僕の寝床は船の上だったし」と続けた。
「別にいいわよ。アージュはどうする?」
「え? あたし」
「……アージュはカナヅチなんだよね」
 と、ランがぼそっとではあるが、余計なひとことを言い、アージュにぎろりとにらまれた。
 幸いにして、今のはチェシルには聞こえなかったらしい。
「アージュは都合が悪いの?」
「そ、そんなことないわよ。もちろん、一緒に行くわ」
 アージュはにっこり笑って、「無理しなくていいのに」とまた余計なひとことを言いかけたランの足をチェシルに見られないように軽く蹴っ飛ばす。
 アルヒェがチェシルと一緒に出ていくと、アージュはすかさずランの頭をぽかっとやった。
「痛てっ」
「余計なこと言うんじゃないわよ」
「だって、ホントのことじゃん。痛っ」
 またまた叩かれて、ランは頭を押さえた。
《今日はこれで五回目だな》
 今朝方のあくびの数に続き、頭を叩かれた数を律儀に数えていたらしいオードがつぶやいた。
(そのうちの二回はオードのせいなんだけどなー)
 と思いつつ、ランは頭をさする。
「あ、そうだ。チェシルは漁から帰ってきたあとで、友だちになったんだ」
 漁を終えたガントおじさんにチェシルがお昼のお弁当を持ってきたのだ。おまけのランもありがたくお昼ご飯をいただき、「おいしいおいしい」を連発して、ぱくぱく食べた。
「おおっ、ぼうず、食いっぷりもいいな、ますます気に入った!」
 ガントおじさんはバンバン背中を叩き、チェシルも楽しそうに笑った。
 そのあと、三人で一緒に市場に行って、釣ってきた魚を売った。
 ランは市場のおじさんたちにも「大物を釣ったなあ。初めてにしちゃ、たいしたもんだ」とほめられ、にこにこしっぱなしだった。ガントおじさんはランが釣った魚の代金もちゃんとくれたので、少しだけどお金もある。
 そんな感じで、食堂でとんでもない目にあっていたアージュと違い、ランは実に楽しい一日を過ごしたのである。
 しかし、不機嫌なアージュの手前、ランもオードもくわしい話をするのはやめた。
「チェシルもさ、ほめてくれたんだ。オレが釣った魚、大きくてすごいって」
 
「あっそ。あんた、誰とでも仲良くなるのね」
《そこがランのいいところだと思うが》
 
 とげとげしい声のアージュに、オードがフォローを入れる。
《――で、どうするんだ?》
「なにが? あ、ベッドはね、ひとつはあたし。もうひとつはアルヒェとランが使ってね」
《そうじゃなくて、本当に漁に行くのか?》
「い、行くわよ、船は平気よ。客船も海賊船も小舟も、もうなんでもオーケーよ」
 アージュは腰に手を置いて、偉そうに笑ったが――。
その笑顔がひきつっていることには、ランとオードはつっこまないでおいたのだった。
 
       2
 
 翌朝――ランたちはガントおじさんの船で漁へ出た。
 朝日が昇ってまもなくの、朝焼けに染まる海へと船は進む。
「んー、朝の潮風は涼しくて気持ちがいいね」
「よーし、今日もいっぱい釣るぞぉ!」
 が、はりきっているアルヒェとランとは反対に、船縁につかまって青い顔をしている者がひとりいた。アージュだ。
「……ふ、ふふ、ふふふふ」
「無理してついてこなくていいのに」
《アージュは負けず嫌いだからな》
 アルヒェのつぶやきに、オードがガントおじさんやチェシルに聞こえないように返す。
「じゃあ、ここらではじめるか」
 ガントおじさんが帆をたたんで、碇を下ろした。
 いよいよ、漁のはじまりだ。
「オレ、今日はクジラ釣ってみたいなー」
「おお、でっかい目標だなー、ぼうず」
 ランとガントおじさんがそろって、釣り糸を垂れる。
 反対側の船縁では、アルヒェとチェシルが並んで、釣りをはじめた。
「僕はおいしい魚がいいな。ヒラメとか。バター焼きにして食べたいな」
「あ、いいわね、バター焼き。わたしも食べたい。あら、アージュは?」
 アージュはみんなから離れたところで、青い顔で座り込んでいた。
「あ、あたしはなんでもいいわ……」
「アージュ? 大丈夫かい?」
「アルヒェ、あたしのことは気にしないで……いいから」
 アージュがしっしっと手を振ったので、アルヒェは軽くわかったと肩をすくめた。
一緒に旅するようになってから、まだ日の浅い彼ではあるが、海賊との冒険以来、アージュの性格はある程度、把握しているのだ。
「よっ! あったりー!」
 明るい声に振り返ると、ランが一匹の大きな魚を釣り上げたところだった。
 
「お、またカジキだ。ぼうず、おめぇ、漁師の才能あるぞ」
「ホント!?」
 
 お気楽なランがうれしそうに笑っていると、今度はガントおじさんの糸が引いた。
 釣り上げたのは、ヒラメだった。
「お、ヒラメだ。これも煮付けにすっか」
「お父さん、ダメよ、それはバター焼きにするんだから」
 肩越しにチェシルが大きな声で言う。
 そんなチェシルもすぐに引きがきて、ヒラメを釣り上げた。
「あ、オレも次はヒラメにしようかな」
「しようかな、って言っても、釣れる魚を選べるわけじゃないよ、ラン」
「あ、そっか、ははははっ」
 アルヒェとランが笑いあっているのをよそに、アージュはひとりで、ぐったりとしていた。
 
(やっぱり、船なんか乗るんじゃなかった……)
 
 頭がぐらぐらして、なんだか気分がよくない。潮風もさわやかというより、べたっとして気持ちが悪い気がする。
「……うっ」
 軽い吐き気を覚え、アージュは船縁から身を乗り出した。
 と、そのとき、船がぐらりと大きく揺れ――……
 
どぼんっ。
 
「へ?」
 大きな水音にランが振り返ると、人間の手が海から突き出ていた。
 次の瞬間、アージュの頭が海面から出て、ぷはっと息をつく。
 
「アージュが落ちた!」
 
 アルヒェが釣竿を放り出し、ランの隣に並んだ。
「……ぐぼっ、がっ……」
 カナヅチのアージュは必死でもがいている。
「アージュ!」
 船縁からランが腕を伸ばす。
 が、アージュは波に揺られ、どんどん遠ざかっていく。
「今、助けに行く!」
 眼鏡を外し、アルヒェはランに押し付けた。そうして、すぐさま海に飛び込む。
「……う……たすけ……だれか……」
 アージュが腕を振り回し、助けを求める。
 泳いでそばまでいったアルヒェが彼女の手をつかみ、自分の肩にしがみつかせた。
「…………し……死ぬかと思った……」
 アージュが必死でアルヒェの首に腕を回す。
 アルヒェはやさしくアージュの濡れた髪を撫でた。
「もう大丈夫だよ」
 
            *
 
 この日の漁をすぐに取りやめ、ランたちは陸に戻った。
 全身ずぶ濡れのアージュの着替えは、チェシルが手伝ってくれた。
チェシルと入れ替わりにランとアルヒェが中に入り、ランはベッドに寝ているアージュの枕元に座った。
 アージュの顔は赤く、苦しそうだった。
額に載せた水で濡らしたタオルも、すぐに熱を吸ってぬるくなってしまう。
《アージュが熱を出して寝込むとは……》
「うん、意外だよね」
「あ、あんたたち、失礼ね……」
 熱にうかされながら、アージュがランの頭をはたこうとして、手を伸ばす。
が、その手はランの頭に届くことなく、薄い掛け布の上にぱたんと落ちた。
「アージュ~~、しっかりして~~」
 ランはアージュの手を取り、自分の頭を近づけて、こん、と小突かせてやった。いつもは叩かれたくない頭でも、こういうときは叩かれてみたくなる。
「……あんた、馬鹿じゃないの?」
 アージュが憎まれ口を叩く。
けれど、それが弱々しくて、ランはうるうると瞳を潤ませた。
「いいよ、もう、なんとでも言ってよ」
《もしかして、昨日、機嫌が悪かったのは、具合が悪かったせいもあるのでは?》
 オードの言葉に、アージュはなにも言わなかった。
首を振らない、ということは、肯定なのだろう。いつも元気なアージュにも、疲れがたまっていたということだ。
《なら、言ってくれればよかったのに》
 変なところで意地を張ってどうする、とオードが軽く説教モードに突入した矢先、
「野菜のスープを作ったよ。これで元気出して」
 アルヒェがトレイにスープを入れた皿を載せて、運んできた。
「さ、いいかい? 起こすよ……よっと」
 アルヒェがアージュの背中を支え、半身を起こさせる。
 スプーンですくって、アルヒェが「ふーふー」と冷ましてから、アージュの口に運ぶ。


「ほら、お食べ」
「……こ、子ども扱いしないでよ」
「なに言ってるんだ。僕から見れば、君は充分子どもだ。具合の悪いときは、思いっきり甘えていいんだよ」
「……――ぐ……」
 アージュはふてくされた顔をした。熱があるため、思いっきり反論できないからだ。
 結局、アージュはおとなしく、スープをアルヒェに食べさせてもらった。
《食事が終わったら、薬を飲むといい。荷物の中に解熱剤があるはずだ》
「解熱剤?」
 
「うん、スンミ村で買ったんだ。赤蘭月にしか採れない貴重な木の実から作った薬だよ」
 
 言って、ランが荷物の中から、薬を取り出す。
 遮光のための茶色い瓶に入った丸薬を手のひらにひとつふたつ振り出し、アルヒェはしげしげと眺め回した。
「へえ……赤蘭月にしか採れない木の実から作った薬かあ、文化圏で言うと、古代グランガーデルの……」
《アルヒェ、考えるのはあとにして、早くアージュに薬を飲ませてやってくれないか》
「あ、ああ、ごめんね、つい」
 と――そこへ。
コンコンとドアをノックして、チェシルが顔を出した。
「薬草を持ってきたの。薄布でくるんで、首に巻くと楽になるから」
「ありがとう、チェシル」
 ランが受け取ると、チェシルはアージュが心配らしく、枕元へそっと近づいた。
「大丈夫? 他にもいろいろ持ってこようか? うち、薬草だけはたくさんあるのよ」
「ううん、大丈夫だよ。解熱剤を持ってるから」
 
「解熱剤?」
 
 きょとんとするチェシルに、ランが薬瓶を持って説明した。
「へえ……初めて聞いたわ。そんなものがあるのね」
 すると、アージュに薬を飲ませ終えたアルヒェが会話に加わった。
 
「おそらく、北の大陸でも、珍しい貴重なものだよ。古代アーキスタ文明を継ぐ、こちらの大陸にはないものだ」
 
「へえ……」
「そうだったのかー」
 チェシルとランは目を丸くした。
「そうすると、ランたちは北の大陸から来たの?」
「えっと……そうなるのかな?」
 ランは困ったようにアルヒェを見た。
なにせ、地図が読めないし、自分が生まれ育った国の名前もつい最近知ったくらい、ランはなにも知らないのだ。
「そうだよ。ランたちは北の大陸から来たんだ。アーキスタにある僕の家に、ふたりとも引き取るためにね」
 アルヒェが今、思いついた理由を口にした。
アージュの作った設定にのっとったものだ。
 
(噓の設定をさらりと口にするとは……アルヒェはやはり大人だな)
 
 オードが密かに感心する。今はチェシルがいるから、しゃべれないのだ。
「ランのお祖父さんって、なにやってる人なの?」
「え、えーと」
「商人だよ。海を渡って、いろんな国と貿易してたんだ。おかげで、あちこちに奥さんがいてね。困ったお祖父さんだよ、まったく」
 またもや、すらすらとアルヒェが説明する。
 チェシルは「きっとお祖父さんはうちの小さな漁船と違って、大きな船に乗っていたのね」と感心したように言い、出て行った。
 ドアが閉まってから、少しして、ランは「ふーっ」と大きく息をついた。
「アルヒェも、よくいろいろ思いつくよね」
《ああ、前にアージュにも言ったが、劇作家の才能があるのではないか》
「ははは、大げさだよ、それは。チェシルには悪いけど、こういう噓は楽しいね。違う自分になれるような気がするよ。次の町では、どんな設定にする? 旅役者の父親でもいることにするかい?」
「……ははは」
 アルヒェが何気なく言ったひとことに、ランはぎこちない笑みを返した。
 ランの父親が旅役者でクルリ村に立ち寄った際、ランの母親と結ばれて、それでランが生まれたことは――まだ、アージュとオードにも話してないのだ。
《どうした? ラン》
「あ、いや……新しいところに行くたびに、いろいろ設定ができるからさ、なんだか頭がごっちゃになりそうで……」
《そういえば、海賊船に乗る前は、デリアンの大農場の御曹司ということになっていたな》
「あー……そういえば、そうだったね」
 ランは半笑いを浮かべた。
まだひと月も経っていないのに、すっかり忘れていたのだ。
 アージュはと見ると、薬が効いたらしく、すでに眠っていた。
顔が赤いから、まだ熱はあるようだが、先ほど解熱剤を飲んだので、しばらくすれば呼吸も楽になるはずだ。
「オードから話は聞いてるけど、君たちは本当におもしろい組み合わせだよね」
 アルヒェが微笑み、台所に立った。
「さて、僕たちもなにか食べようか。せっかくだから、ヒラメのバター焼きにしよう」
「やったあ!」
 ランは客船で味わった白身魚のソテーを思い出し、両手を挙げて喜んだ。

(第一話・1-3へ続く…)

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