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第二巻~オオカミ少年と伝説の秘宝~ ②-1・2・3

 第二話「霧の魔女と魅惑の歌声」-1・2・3
 
 
    
 
 古城をあとにしてから、七日。
 北グオール村経由でグオール山脈を越え、隣国デリアンに入るルートをあきらめたランたちは進路を南西に取り、野宿をしながら国境に位置するコイド村を目指していた。
「あーあ、あんなことさえなければ、今頃はまだあの古城でぬくぬくしてたはずなのにな~~」
 今日は薄曇りで、少し肌寒い。
太陽の光が射さない上に、標高の高い山の中にいるのだ。あの古城はちょっと湿っぽかったけど、屋根のあるところとベッドが恋しいと思うのは仕方ない。
「しつこいわよ、ラン。いいかげんに、あきらめなさい」
「だって~~、アージュのせいだよ」
「うるさい」
 例によって頭をはたかれ、ランは涙目になった。
《ラン、もうすぐ青蘭月だ。そうすればアージュも変身しなくなる。もう少しの辛抱だ》
「だね……」
 はたかれた頭をさすり、ランはうなずいた。
 ――と、そのときだった。
 
「おじいちゃん、大丈夫? おじいちゃんっ」
 
 木立の向こうから聞こえてきた声に、ランとアージュは立ち止まった。
 切羽つまったような声を頼りにそちらに進んでいくと、木々の間からランとあまり歳のかわらない少年と老人の姿が見えた。
 苦しげに腹をかかえてうめいている老人を、少年が必死で抱きかかえている。
《早く助けに行きたまえ》
 正義感の強いオードがふたりに言う。
「言われなくてもっ」
 ランとアージュは木の根に足をとられないようにしながらも、小走りに駆けて老人と少年のところに向かった。
「どうしたの?」
 突然現れた同じくらいの少年少女に、少年は目を丸くした。
「君たち誰? この国の人……じゃないよね?」
 警戒するのも無理はない。
この時期に森の中に人がいること自体、不自然だし、ましてやランとアージュの服にはグランザックの特徴である馬蹄形を模した刺繍が入っていないのだ。
「あたしたちは旅の者よ。コイド村を目指しているの」
 ローイのときのように噓をつくかと思ったら、あっさりと簡潔に本当のことを言って、アージュは膝を折り、老人の額に手をあてて容態をうかがった。
「熱は……ないみたいね」
「おじいちゃん、急におなかが痛いって苦しみだして……ど、どうしたら……」
「すまんな、サク。孫に心配かけるなんて……わしゃ、ダメなじじいだ」
 サクと呼ばれた少年は老人の節くれ立った手をしっかりと握った。
「おじいちゃん、しっかりして!」
 その様子を見ていたランは、ふと、クルリ村にいるじっちゃんのことを思い出した。
(じっちゃん……今頃、どうしてるかな? オレが呪われた血を持つ者になったことで村八分とかされてなきゃいいけど……)
 じっちゃんの顔が脳裏によみがえり、ランはふいに涙ぐんでしまった。じっちゃんは随分、心配しているに違いない。
 
(じっちゃんに会いたいなあ……)
 
 しかし、クルリ村に帰るためには、『白蘭月の白い丘に咲く白い蘭の朝露』を見つけて、まっとうな人間に戻らなくてはならないのだ。
「ちょっと、ラン! なに、ぼーっとしてんのよ、手伝って」
 ハッと我に返ると、サクとアージュが両脇から老人を支えて、立たせているところだった。
「ごめん!」
 ランはあわててアージュと交代し、老人の左腕を自分の肩に回したのだった。
 
         


 
 サクの案内で森を抜けた先にあったのは、グオール湖から流れている川だった。
 そこは木ぎれで申し訳程度に作られた船着き場があり、二艘の小舟が停めてあった。
 そして、それぞれの舟にはカゴに盛られた赤い木の実が載せてあった。
 サクと老人は下流にあるスンミ村の者で、この木の実を取るためにわざわざ舟を漕いで上流に登ってきたのだという。
「この赤い実を取りに、わざわざ?」
 アージュが訊くと、サクが答えた。
「ああ、そうか。君たちはこの国の人間じゃないから知らないんだね。この赤い実は赤蘭月にしか取れない貴重なものなんだ」
「これって、おいしいの?」
 小腹のすいたランが言うと、サクは少し笑った。
「違うよ。これは薬なんだ。すりつぶして練って丸薬にするんだよ」
《ああ、あの解熱剤か》
 オードはこの国の人間だから思い出すと同時に、うっかりつぶやいてしまったらしい。サクは「今の誰?」と不思議そうにあたりを見回す。
「ごめん、オレオレ。ちょっと風邪気味でさ」
 ランが喉を押さえて、「んんっ」と咳き込んでみせる。
「君、大丈夫? 村に帰ったら風邪薬をあげるよ」
「ごほごほ、ありがと」
 ランはわざと咳込んで、わざと低い声を出す。オードがうっかり口を開くたびにこれだ。ランがそのうち声変わりでもすれば、こんな苦労はなくなるかもしれないが……。
「おじいさんの腹痛、これで治らないかしら」
 アージュが小さなトランクを開けた。これにはフィアルーシェ王女からもらった干した薬草がたくさん入っているのだ。
「傷に効くものばかりだね」
 サクが残念そうに首を振ると、老人がすまなそうに声を絞り出した。
「すまんな……旅の人にまで心配かけて……」
「オレたち、送っていくよ」
 アージュがなにか言う前に、ランがそう提案した。じっちゃんのことを思い出し、他人事とは思えなくなっていたのだ。
「ちょっと、ラン。なに勝手に決めてんのよ」
「だってさ、サクだけじゃ大変そうだし、それに舟は二艘あるんだよ? オレたちがひとつ漕いで、サクとおじいさんが一生懸命採った赤い実を運べばいいじゃん」
「あ、ありがとう! そうしてくれると助かるよ!」
 ランの言葉を聞き、サクはホッとしたように笑った。どうやら今ランが言ったことをサクのほうから頼もうと思っていたらしい。
 しかし、アージュは眉根を寄せて、乗り気じゃない顔をしていた。
「アージュ、どうかした?」
「いえ、別にその……舟に乗るってことは川を下るってことよね? だ、大丈夫かしら?」
「なに当たり前のこと言ってんだよ?」
 ランは首を傾げた直後、アージュがなんとなく怯えたようにちらりと川を見たので、「あっ」とひらめいた。
「もしかして、アージュって……」
「わーっ、それ以上なにも言わないで! 言ったら、蹴飛ばすわよっ」
 しかし、ランが口をつぐんでも、
 
《ひょっとして、アージュは泳げないのか?》
 
 とオードが、またまたうっかり声を出してしまった。
 当たりだったらしい。とたんにアージュのブーツの先がランの背中に見舞われる。
「痛ぁ――っ! だから、なんでオレが……」
「あの! ごめん、急ぎたいんだけど……」
 老人を舟に乗せ終えたサクの声が困ったように割って入った。


 今は赤蘭月なので日が落ちる前に下流に着かなくては危険だ。
曇っているとはいえ、日が落ちたあとで雲が切れたら、赤い月明かりが地上に降り注ぐ。
そうなると、魔物たちにいつ何時襲われるかわからないのだ。
しかし、月が出たら困るのはランたちも同じだ。
川を下る途中でアージュがまた吸血コウモリに変身したら、サクと老人は驚いて舟をひっくり返しかねない。
「ごめん、行こう! 早く行こう!」
 ランはアージュの腕を引っ張って、サクの隣の小舟に乗り込んだ。
 
            



 
「そっかあ、アージュ泳げないんだあ」
 オールをあやつりながら、ランはにまにま笑った。
いつも「あんたバカ?」あつかいされて、アージュより上に立ったためしがないので、ちょっと優越感に浸っているのだ。クルリ村で川魚を釣ることをほぼ日課にしていたランは、当然のことながら泳ぎは得意だ。
《もしかして、カナヅチだから海側のルートで移動することを避けたのか?》
 オードがズバリ指摘し、アージュはムッとした。が、珍しく言い返せない。
「舟に乗ってれば、大丈夫だよ」
 肩越しにアージュを振り返ったランの笑顔は、本当にうれしそうだった。
「憎ったらしい……なによ、その顔」
 アージュは頬をふくらませた。
ぷいっとそっぽを向いたとたん、舟が波に乗り、水しぶきが跳ね、アージュはたちまち青い顔になった。
 と――前を行っていたサクの舟が下る速度を遅め、こちらの舟と並んだ。
「どうしたの?」
 老人の容態がまた悪化したのかと心配になったランが訊くと、サクが大きな声で、「言い忘れてたことがあるんだ」と言った。
「なに?」
「この先、二股に分かれているところがあるんだ。もし、はぐれた場合は、左に入って! 絶対、右に行っちゃだめだよ! そっちは滝につながってるんだ」
「滝!?」
 アージュの声がひっくり返った。カナヅチの彼女が滝壺に落ちたら……生きて土を踏むことはできないかもしれない。
「大丈夫だよ、アージュ。右に行かなきゃいいんだから」
 にまにま笑いながらランが言うと、アージュはキッとランをにらみつけてから、
「ねえ、サク。あとどのくらいでスンミ村に着くのかしらね」
 と平然さを繕って、話題を変えた。
「あと、一時間くらいかな」
「そ、そんなに!?」
「うん、でも上りより全然速いよ」
 そりゃそうだろうとは思ったが、アージュは口に出さず、ひきつった笑顔を浮かべた。
「そ、そうよね……フフフフ」
 本人は優雅に笑っているつもりでも、アージュの顔は目が吊って、口元がなんだか四角くなっている。
「アージュ、ヘンな顔になってる……」
《相当ダメージが大きいと見た》
 ランとオードは彼女に聞こえないように、こそこそとしゃべった。
「川を下ったらさ、やっぱり海沿いの道を行こうよ。突き落とすフリとかしたら、おとなしくなるかもよ」
《ラン……そんな意地悪なことを言っていると、あとで痛い目に遭うぞ》
「痛い目ならいつも遭ってるよ。少しくらいやり返さなくちゃ、おもしろくないじゃん」
《いや、おもしろいとかおもしろくないとかの問題ではなく……》
「ちょっとふたりとも! なに、こそこそ話してんのよっ!」
「い、いや、別に。今日はスンミ村で宿に泊まれるかな〜……なんて話してただけだよ」
 気がつけば、先ほど隣に並んでいたサクの舟は、また前を行っている。声を聞かれる心配がないため、オードもアージュに聞こえるように声を張り上げる。
《もしかしたら、この舟を運んだお礼に、サクがタダで泊めてくれるかもしれないな》
「そうね! っていうか、もちろん夕飯つきでしょ」
 タダという言葉に弱いアージュの顔が、たちまちゆるんだ。
「今日は月が出る心配もなさそうだし、久しぶりにベッドで寝られそうね〜」
 しかし――またというか、なんというか、やっぱり世の中は甘くないのであった。
 

       
    
 
 両岸から岩と岩がせり出す狭い川幅のところを下っているとき、異変は起きた。
 場所柄、舟の操舵に集中していたランは、いつのまにか霧が自分たちを包んでいることに気づいた。
「え……霧?」
 うっすらと、そして重たげに岩の合間から立ち上るように霧が発生している。
「ちょっと、なにこれ、やだ……」
 アージュが不安げにあたりを見回す。前を行く舟では、腹痛のため身を折るように座り込んでいた老人がハッとして顔を上げていた。
 そして、不安に陥った一行の耳に、どこからともなく歌声が聞こえてきた。
 不気味な霧のベールの向こうから届く、澄んだ女性の歌声。
 子守歌にも似たゆっくりとしたそのメロディに、
「きれいな歌声だね~~」
 なんて、ランがのんきに聞き惚れていると、
 
「霧の魔女だ……!」
 
 と、サクと老人が恐れおののく声が聞こえてきた。
「き、霧の魔女って?」
 ただならぬ様子にアージュが珍しく蒼白になる。
いかに普段、強気な彼女といえども、水の上では「怖くないわよ、そんなの」とは突っぱね切れないのだ。
 


「霧の魔女は魅惑的な歌声で船頭を誘い、舟を沈めるって言われてるんだ! どうしよう、どうしよう! 僕たち死んじゃうよ!」
「すまん、サク、わしの具合が悪くなったばかりに……」
 
 すっかり取り乱したふたりはおろおろとするばかりだ。しかし、それではなんにもならない。
 いち早く冷静になったオードが、
 
《耳を塞いで! 歌声を聞いてはいけない!》
 
と叫んだが――。
 時すでに遅し。
 オールを握るサクの手が、まるで誰かにあやつられているかのように動きはじめた。
 魔女の歌声は続いている。ゆったりと耳に優しく、心地好く。
「なによ、これ! ヘタクソな歌!」
 アージュが耳を塞ぎながら叫ぶ。
 が、霧の魔女には今の悪口は聞こえなかったらしい。
歌声はいっそう艶を増し、気を抜くとうっとりと聞き惚れてしまいそうなほど、魅惑的になっていく。
「ふわあ……」
 ランが感嘆のため息をつく。舟を漕ぐことも忘れ、オールはただ持っているだけという状態だ。
《いったい……どうしたら》
 鍵の姿であるオードは耳の塞ぎようがない。
 しかし、耳を塞いでも塞がなくても同じだった。魔女の歌声はしっとりと聴く者の耳朶を打ち、甘くなつかしいような感覚を胸に抱かせるのだ。
「じっちゃ……ん」
 ついにランが泣きはじめた。
先ほどから、じっちゃんのことを思っていただけに、余計に郷愁が募ったのだ。
 
「帰りたい……帰りたいよぉ」
 
《ラン、しっかりするんだ! アージュ! いつものようにランの頭を叩け! 今なら思いっきりやってもいい! 私は怒らないぞ!》
 が、アージュはアージュで、頭の芯が痺れるような感覚に襲われて動けないでいた。
「た、叩きたいのはやまやまなんだけど……きゃっ」
 船縁に跳ね上がった水しぶきにアージュが短い悲鳴を上げた。幸か不幸か、カナヅチであることがどうにかアージュを正常に保っているようだ。
「霧の魔女に舟を沈められたら、溺れちゃう! そんなの、イヤ――っ」
《心配する点が少しズレている気がするが……》
 元は騎士である誇りがそうさせるのか、オードはかなり強く気を保っている。
《こうなったら、歌には歌で対抗してはどうだ!?》
「じゃあ、オード歌ってよ!」
《私が?》
「……じっちゃあ――ん、ごめんよ、オレ、オレ……」
 ランがおいおい泣いている。見れば、もう一艘の舟でもサクと老人が抱き合って泣いていた。
「ほ、他に誰がいるっていうのよ! 早く!」
《わ、わかった……では》
 そして、一拍ののち――
 
  ♪ 祖国の栄光 背に受けて 国のために いざ進まん
   大空に羽ばたく大鷲のように雄々しく
   大地を駆ける駿馬のようにたくましく
 
「なに、その歌!」
 歌の途中でアージュが文句をぶつけた。
オードは意外と深みのあるいい声をしていたが、歌の内容が内容なだけに、霧の魔女の歌声にとらわれているランたちにはなにも変化はなかった。
《なにって……王立騎士隊の歌だが?》
「他にないの!?」
《――なら、アージュが歌いたまえ》
 オードはすねてしまった。
「ふふふ……」
 ランは今度はしあわせそうな笑顔になっている。
 魔女の歌声が霧のなかをふわふわと漂うように、心地好い気分にさせてくれているのだ。長い旅から戻ってきた我が子をやさしくいとおしむように。
 歌声に魅せられた者たちは、まるで母の腕に抱かれて、子守り歌を聴かされている幼子のように無垢な気持ちで目を閉じて――
「――ったく!」
 アージュは意を決して立ち上がった。
「いいじゃないの! 歌ってやるわ! そのかわり、よっく聴きなさいよ!」
 
  ♪ ファーレスティーネ  ファーレスティーネ
    うつくしい花よ 赤く気高く 誇らしく
 
《……なんと愛らしい》
 すねていたオードが素直に感想をもらす。
 いつもふたりに毒づいたり、きついことばかり言っているアージュからは想像もつかないような、可憐で愛らしい涼やかな歌声だったのだ。
 
  ♪ ファーレスティーネ  ファーレスティーネ
   故郷の花よ うるわしく いとおしい
   愛する人に想いを込めて そっと口づけを与えん
 
「あれ? オレ……?」
 ついにランが我に返った。
《やった! 作戦は成功だ。ラン、オールを》
 オードの声にランはオールを握る手に力を込めた。
 まだ霧の魔女の歌声は聞こえている。
 引き続き歌おうとしていたアージュは、薄い霧の向こうを見て悲鳴に近い声を上げた。
 
「大変よ! 右に流されてる!」
 
前方に大きな岩があり、川が二股に分かれているのがランにも見えた。
サクの言っていた分岐点だ。
右の支流に入ってしまうと、その先は――滝だ。
 自分たちより少し前を行くサクたちは我を失い、気づいていない。
「ラン! あんたもなにか歌いなさい! 歌って気を紛らわすのよっ」
《サクたちが危ない! 早く横につけるんだ》
 アージュとオードの指示が同時に飛び、ランは歌いながら、サクの舟に追いつこうと懸命に漕ぎはじめた。
 
  ♪ お月さま ぴかぴか 金の月
   おひさま にこにこ こんにちは!
   畑をたがやせ ざくざくざく
   働け 働け さあ種まきだ
 
「……なんか牧歌的な歌ね」
《元気がよくていいではないか》
 アージュとオードが微笑ましい感想をもらす。それだけふたりに余裕が出て来たということだ。
「♪ お月さま さわやか 緑色 おひさま 元気に……――サク!」
 歌の途中でサクの舟に追いついた。しかし、サクはうつろな目をしてランの声に反応しない。
 このままでは二艘とも、滝壺行きだ。そうなれば本当に――命はない。
「サク! おじいさん! くそっ!」
 大岩が迫ってくる。ランは舟を再び寄せると、オールを持ち上げ、サクの舟の横っ腹に突きだした!
 
「行っけぇぇ――っ!」
 
渾身の力を込めて、サクの舟を押し出す。
舟は流れを変え、大岩に当たる直前で左の本流に入っていった。
「や、やった……」
《えらいぞ、ラン。よくやった》
 が、三人がほっとしたのも束の間。
 
「ちょっと待って。あたしたち……もしかして」
 
 アージュは真っ青になった。
 もしかしなくても、三人の乗った舟は右の支流に入っていた。
しかも、川の流れがどんどん速くなっていくではないか。
《このまま行くと……》
「滝だよっ! どーしよー!」
 ランは流れに逆らおうと、逆に漕ぎ出す。
「ラン! はやく戻って!」
「そのつもりだって!」
《がんばれ、ラン!》
 が、速い流れには逆らえず……
「きゃーっ!?」
 霧の向こうに、薄ぼんやりと赤い月が見えたかと思った瞬間。
「うわああああ――――っ!」
 腰がふわっと浮いた感覚がランを襲った直後、舟はついに滝壺に向かって落下したのだった。
 
            


 
 けむるような、薄いベールをかけたような霧に包まれて、夕暮れから夜へと変わっていく過程の空に赤い月がほのかにその光を放っていた。
 ごうごうと激しい音を立てて落ちる滝の音に、オードは目を覚ました。ランは滝壺近くの岩の上にその身を横たえていた。オードはランの首から外れることなく、いっしょに落ちたのだ。
(助かったのか……)
 ほっとした次の瞬間、オードはぎくりとした。ランのそばに、ひとりの女性が座っていたからだ。


濡れたような緑の黒髪を長く垂らしたその女は、ランの顔を覗き込み、頬をなでると、血の気のない細い指先をそっとランの左腕にはわせた。
 
(いったいなにを……?)
 
 舟が落下したときに怪我をしたのだろう。
ランの左腕は――黒蘭月に魔物に嚙まれたところではないところが――傷つき、血を流していた。
(ありがたい、手当してくれるのか?)
 と思ったオードの目の前で、女は意外な行動に出た。
 気を失っているランの血を指先に取り、ぺろりとなめたのだ。
 
「……魔物の血……まずい」
 
 女は眉をしかめ、ぺっとランの血を吐き出すと去っていった。
《なんだったんだ……今のは》
 精神的にかなり疲れを感じたオードは、なにかひっかかるものを感じながら、急速に眠りに落ちていったのだった。
 
 それから、しばらくして――
 ――キーキキキキキッ!
「うわっぷ!?」
 吸血コウモリに顔面を踏みつけられ、ランは目を覚ました。
《アージュ、よかった。君も無事だったのだな》
 オードも目を覚まし、安堵の声をあげる。
アージュはそばに張り出している木の枝に飛んでいって、ぶらさがった。
 滝壺に落ちる直前、ぼんやりと見えた赤い月のおかげでアージュは変身し、おぼれることなく助かったのだ。
落下のときに投げ出されたらしく、ふたつの皮袋は近くの木の枝に引っかかっていた。トランクも岩と岩の間にはさまっていて無事だった。アージュは今、言葉をしゃべれないが、トランクがあったことをとても喜んでいるに違いない。なぜなら、フィアルーシェ王女がくれたお金のみならず、古城でせしめてきた宝石類を詰め込んであったからだ。
(テーブルクロスからトランクに移しておいて、ホントよかった……)
 お金とお宝をいっぺんに失ったときのアージュの不機嫌ぶりを想像すると、それだけで怖くて背筋が寒くなる。命が助かったことより、お金とお宝の無事の方を喜ぶなんて妙な話だが……。
 それからランはあちこち痛む身体をさすり、左腕の傷の手当をした。
《トランクの中に傷に効く薬草が入っていて助かったな》
「ん……それはよかっったんだけどさ、サクとおじいさんが集めた赤い実がひとつも……」
 赤い実を載せたカゴはどこにも見あたらなかった。そして、変身の際に脱げ落ちてしまったであろうアージュの服も。アージュは着替えをいくつか持っているからいいが……。
「サクたち、助かったかな……」
《きっと大丈夫だ。ランが命を張って守ったのだから――ところで、ランとアージュに聞いてほしいことがあるのだが》
 オードは先ほどの女性の件をふたりに話した。
 
《あの女性が霧の魔女だったのではないかと、私は思うのだが……》
 
 同意見なのだろう。吸血コウモリのアージュがうなずくようにキーキー鳴く。
 これにはお気楽なランもさすがに青ざめた。
「純粋な人間だったら、オレ、血を吸われてたってこと?」
 なんとも複雑な気分だった。呪われた血が自分の命を救ったのだ。
《ああ……それにもしかしたら、あの古城の吸血鬼伝説も本家本元は実はこちらでは? とふと思ったのだが……》
 またまたアージュがキキッと鳴いた。「そうかも!」と言っているようだ。
「じゃあ、例のアルなんとかって伯爵の血を吸ったのは、霧の魔女だったってこと?」
《そうかもしれないな》
「別に会いたくなかったのに~~」
 ランはトホホな気持ちで肩を落としたのだった。
 

     
 
 翌日は、からりとした晴れだった。
 舟を失ったランたちは仕方なく徒歩で下流を目指し、スンミ村にたどり着いた。サクたちがやっぱり心配で、無事に帰っているかどうか確かめに来たのだ。
 スンミ村は川沿いの小さな村だった。あちこちの家の軒先には、薬草やら例の赤い実やらが干してある。
「この村は薬で主に生計を立てているのね。あの赤い実で作った薬って、解熱剤なのよね。少し買っていこうかしら」
 アージュの提案で薬を買うときに、店の人にサクたちの安否を尋ねてみようということになり、ふたりは近くの薬屋の軒をくぐった。
 店の中には、調合された薬の瓶がずらりと棚に並んでいた。
瓶にはそれぞれラベルが貼ってあり、解熱剤に解毒剤、咳止め、胃薬、強壮剤などなど……ありとあらゆるものが取り扱われているのがわかった。
「いらっしゃい」
 ひとのよさそうな店のおばさんが、アージュとランを見て、にこにこと笑いかけた。
 他人の笑顔を久しぶりに見たような気がして、ランはなんとなくホッとした。
「あの、解熱剤と解毒剤が欲しいんですけど」
 アージュが希望の商品を口にすると、おばさんは「あいよ」と言って、棚からひとつひとつ手にとった。
「これでいいかい? あんたたち、よその国の人だろ。この解熱剤は高いよ。なんせ、赤蘭月にしか取れない赤い実を使っているからね」
「知ってます。これでいいですか」
 アージュがお金を差し出す。
おばさんは「おやまあ」と驚いて、お金を受け取り、薬を差しだした。
「スンミ村の解熱剤は国外でも有名なのかね」
 どうやら話し好きのおばさんらしい。しかし、世間話に花を咲かせるつもりがないアージュは薬を皮袋にしまうと自然に話の流れを切り替えた。
 
「昨日、森の中でサクって男の子に会ったときに聞いたんです。あの子、元気ですか?」
 
「おやまあ、そうだったのかい。サクは元気だよ。昨日、霧の魔女に襲われたらしいけど、無事に戻ってきてねえ。いっしょに行ったじいさんのほうは具合が悪くて寝てるけど。でも、この村の薬があればすぐにでも元気になるさ」
 アージュとランはホッとしたように顔を見合わせた。
サクたちは無事に村に流れ着いたのだ。
老人のほうはまだ寝込んでいるみたいだが……とにかくよかった。
「あれ? あんたたち、もしかして、サクを助けたっていう人たちじゃないのかい?」
 おばさんがふたりの顔をまじまじと見て、目を丸くした。
「そうだよ! 確か、赤い髪の女の子と金髪の男の子が助けてくれたって言ってた! いやだね、あたしゃ、なんですぐに気がつかなかったのかねえ!」
 おばさんは「サクに知らせてくるよ!」と言って、店を飛び出していった。
「サク、無事でよかったね」
「あれで死なれてちゃ、夢見が悪いったらないわよ」
 口は悪いがアージュらしい安堵の言葉だ。
「サクに会ったら、霧の魔女の真相を教えてあげなきゃ」
「あと、対抗策もよ」
 ふたりは店の外に出た。おばさんがサクを連れてくるのを、外で待っていようと思って、何気なく出ただけだった。
 が、それが思いがけない事態を生んだ。
「お、おまえらは……!?」
 悲鳴に近い男の声に、ランとアージュが「へ?」となってそちらを見やると。
「きゅきゅきゅきゅきゅきゅきゅっ」
「きゅきゅきゅ?」
 ランが「変な人だな」と思った瞬間、男がまともな言葉を発した。
「吸血鬼だあ――っ」
 
            


 
「失礼しちゃうわ! あたしは吸血鬼じゃなくて、人の生き血は絶対に吸わないって決めた善良な吸血コウモリなのに!」
 あのあと、スンミ村は大騒ぎになった。
アージュを見て叫んだ男は、北グオール村の者だったのだ。そう、ローイとともにランたちの様子を見にきた村人のひとりだったのである。
 結局、追い払われるようにスンミ村を出たランとアージュはサクに会うことはできなかった。
「なんで、スンミ村に北グオール村の人がいるのよっ」
《明日から青蘭月だから、薬の買い出しに出て来たのではないか》
「だったら、暦が変わってから来ればいいじゃない!」
《きっと舟だと速いのではないか。帰りは山道を登るにしても、青蘭月ならば魔物に襲われる心配はないだろうし》
「そんなことどうでもいいわ! もう二度と行かないし、あんな村!」
 アージュの頭からは湯気が立ちそうな勢いだ。
ランはなにげなく彼女から距離を取った。なにかの拍子に、頭を叩かれたり蹴られたりするのはイヤだからだ。
 ――と、そこへ。
 
「待って! 待って!」
 
 と聞き覚えのある声が追ってきた。振り返ると、駆け寄ってくるひとりの少年の姿が見えた。
「サク!」
 ランとアージュは立ち止まった。サクはふたりに追いつくと、肩で息をしながら、小さな袋を差し出した。
「これ、僕が作った風邪薬。ランは風邪引いてただろ? 持っていってよ」
 ランとアージュは驚いて顔を見合わせた。自分たちの噂は当然サクの耳にも入っているはずだ。
 それなのに――。
「サク。オレたちの噂、聞いたんだろ?」
 ランの言葉にサクはうなずき、アージュを見た。
「君が呪われた血を持つ者だって、北グオール村の人が言ってた。でも、君たちがいなかったら、僕とおじいちゃんは死んでたんだ」
 サクはぼんやりとだが、覚えていたらしい。
霧の魔女の魅惑的な歌声に混じって涼やかな少女の歌声が聞こえたこと、川が二股に分かれたところの大岩に迫った直前、ランがオールで自分たちの舟を左の本流に押し戻してくれたことを。
 
「ありがとう」
 
 サクは深々と頭を下げた。それはサクの心からのお礼の言葉だった。
「――どういたしまして」
 ランは少し微笑んで、サクの手から薬を受け取った。
「じゃあ、お礼に霧の魔女の正体を教えてあげるよ。実はオレ――」
 ランは霧の魔女が「舟を沈めたあと、人間の生き血を吸うらしい」という話をし、自分がなぜ助かったのかも話した。
 それを話すことはすなわち、ランとオードも『呪われた血を持つ者』であることを明かすことだったが――サクはたいして驚きもせずに、「そうだったんだ。助かってよかったね」と笑ってくれた。
《サク……君は私たちのことが気味悪くないのか》
 
「なんで? 君たちがいい人だってことは、僕にはちゃんとわかってるもん。そりゃ、鍵がしゃべるなんてちょっと驚いたけど」
 
「サク……」
 ランたちを見るサクの瞳に噓はなかった。
 フィアルーシェ王女と同じように、たとえ、呪われた血を持つ者でも、心まで汚されているわけではない――ということをわかってくれる人はちゃんといるんだと思い、ランはうれしかった。たまらなくうれしかった。
「ありがと、サク」
「お礼を言うのはこっちだって。どこに行くのか知らないけど、旅の途中なんだよね? 気をつけて。旅の安全を祈ってるよ。もう二度と、霧の魔女みたいなのに出くわさないように」
 ふたりの少年は笑いあって、握手を交わした。
「あ、そうだ。霧の魔女には歌声で対抗するのよ。来年の赤蘭月に赤い実を取りに行くときには歌の上手な人をいっしょに連れていくといいわ。あたしみたいな可憐な声の、ね」
 いたずらっぽくアージュが微笑む。
 ――それから、晴れた空の下、村はずれの街道まで三人はサクに送ってもらったのだった。

(第三話に続く…)





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