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第三巻~オオカミ少年と国境の騎士団~ ①-3

      3
 
 赤い花びらが、はらりと足元に落ちた。
 枕元に飾られていたのは、ファーレスティーネの花。
 赤く気高く、誇らしく――と謳われた、故国の花だ。
 この花のような色を持つ髪と瞳を綺麗だと言ってくれたその人は、今はもう遠い存在。
 閉じられたまぶたが、ふたたび開くことはない。
 アージュは夢のなかで、花に手を伸ばした。
 指先で触れたとたん、はらはらと残っていた花びらが落ちて――。
 
「――!」
 アージュは目を覚ました。
 濡れタオルが額から滑り落ち、左耳をかすめる。
「ここは……?」
 カーテンを閉じた窓の隙間から差し込む、微かな光を頼りにアージュは目をこらす。
 薄暗い家の中を見渡して、ここがガントの家の離れであることに気づく。
 隣のベッドを見ると、空だった。
 ランとアルヒェはまたガントの船で漁に出たのだろう。
「……このまま本当に漁師になるつもりかしら」
 あの馬鹿は、と毒づき、アージュはベッドから降りた。
 テーブルを見ると、メモが一枚、置いてあった。
書かれた筆跡を見るのは初めてだが、定規で押さえているところを見ると、アルヒェからの伝言だろう。
 
『鍋にスープが入ってる』
 
 アージュが鍋を見ると、確かに野菜のスープが入っていた。
「これ、昨日の残り……?」
 つぶやいて、そばにあったスプーンで味見してみる。
 一晩寝かせたスープは野菜の旨みが出ていて、冷めていても充分おいしかった。
 アージュは窓に寄り、カーテンを開けた。
 朝の光が一気に射し込んで、まぶしさに思わず目を細める。
「……もう行かなきゃ」
 つぶやいて、アージュは鍋の前に戻った。
 旅に出る前に、まず食べなきゃ、と思ったからだ。
 
            


 
「今日も大漁だったなー、ぼうず」
「うん!」
「ランは本当に漁師の才能があるかもしれないな」
「そお? オレって、やっぱ、すごい?」
 こんな感じで、早朝の漁からガントおじさんと戻ってきたランとアルヒェを、アージュが港で出迎えた。
「おかえり」
「アージュ、もう大丈夫なの?」
 うれしそうに笑ったランに、アージュはすっきりした顔で、こう言った。
 
「さっさと仕度して。行くわよ」
 
 薬のおかげですっかりよくなったようだ。
 それはいいのだが、いきなり「仕度して」と言われて、ランはきょとんとしてしまった。
「行くって、どこに?」
「アーキスタに決まってるでしょう?」
「ええーっ、もう?」
 抗議の声を上げると、
「じゃあ、ランは置いてく」
 アージュはくるりと背を向けた。
「わわわ、ちょっと待って! オレも行く、行くってば」
「アージュ、元気になったのはいいけど、本当に大丈夫なのか?」
 アルヒェが訊くと、アージュは目をそらして答えた。
「海のそばにいるとロクなことがないから。それに、青蘭月の間に国境を越えないと」
「でも、なにも今日じゃなくても、いいんじゃないかな」
「そうだよ、オレ、もっと釣りしたい」
「じゃあ、あたしだけでも行くわ」
 アージュは、海のそばから離れたいのだろう。
 そう思ったランは渋々うなずいた。
「わかったよ、行けばいいんだろ、行けば」
「別に無理に一緒に来なくてもいいわよ」
「アージュ、強がり言っちゃいけないよ」
 ツンと顔をそらしたアージュの頭を、アルヒェがぽんとやさしく叩く。
 
「ちょ……! やめてよ、子ども扱いしないで」
 
 アージュは真っ赤な顔で、アルヒェの手を払いのける。
「なんだ、もう行くのか?」
 ガントおじさんが、さびしくなるなあ、とランたちを見た。
「すみません、ガントさん。あたしたち、紫蘭月になる前に国境を越えたいんです」
「そうかあ、そうだよなあ……魔の月になったら、大変だもんなあ」
 太い腕を組んで、ガントおじさんは「うんうん」と納得してくれた。
「今から出れば、陽が落ちる前にはセズの村に着くだろう。アーキスタに行くなら、そこから街道沿いにディスターナの都に向かうといい」
「ありがとうございます。お世話になりました」
 アージュが丁寧に頭を下げた。がさつなわりに、こういうところはしっかりしているというか、きちんとしているのだ。
 出発するときにまた改めてお礼を言いに、ガントおじさんの家に寄ることにし、ランたちは荷物をまとめるため、いったん離れに戻った。
「アージュ、なんでまた急に?」
「理由は、さっき言った通りよ。早いとこ、国境を越えなきゃ。そのほうがアルヒェも安心でしょ?」
「まあ、そうだけど……」
 ランとアルヒェはここでの暮らしが気に入ってたので、ちょっと名残惜しいのだ。
《旅はなにが起こるかわからないからな。アージュの言うとおり、少しでも早く進んでおいたほうがいいのではないか?》
「そうよ、こないだのあんたたちみたいに、海賊にさらわれないとも限らないしね」
 うー……と、張本人であるランとオードは小さく唸った。
 そんなふうに話しながら、離れに戻り、ドアを開けたとき。
 
「あれ?」
 
 ランは目をぱちくりさせた。
 なぜって、チェシルがいたからだ。
今朝は一緒に漁に出なかったので、どうしているのかと思っていたら……。
 
「ちょっと! あんた、なにやってんの?」
 
 アージュが鋭い声を上げた。


 皮袋の前に座っていたチェシルは、あわてて立ち上がった。
「あ、えっと……掃除してあげようと思って」
「だったら、なんで、あたしの荷物の口が開いてるのよ?」
 アージュが指摘したとおり、チェシルがランたちの荷物を漁っていたのは明らかだ。その証拠にランの皮袋も蓋が開いていた。
「チェシル……なんで」
「親切に宿を貸してくれたと思ったら、目的はこれ?」
「ち、違うの! これは……」
 青ざめたチェシルがふるふると首を振る。
「あたしたちが出発する前に、いただけるものはいただいておこうってこと? 残念だけど、金目のものなんかいっさい持ってないわよ」
(そこは、いばるところじゃないような気が……)
 と思ったが、オードがしゃべるわけにはいかない。
鍵がしゃべったりしたら、チェシルが混乱して、ますます話がややこしくなるだろう。
(まずは落ち着いて話を聞かないと……)
 オードがランの胸元でハラハラしていると、いちばん年上のアルヒェが口を開いた。
「落ち着いて、アージュ。チェシルは僕たちが今日出発することはまだ知らないはずだよ」
「あ……」
「そういえば」
 アージュとランが顔を見合わせる。
「チェシル、理由を話してくれるかい?」
 アルヒェがやさしく言うと、チェシルはこくりとうなずいた。
 
「……実は、あの赤い薬がほしかったの」
 
「赤い薬って、解熱剤のこと?」
 アージュのつぶやきに、チェシルはうつむいた。
「わたしのお母さん、身体が弱くて、しょっちゅう熱を出すの。でも、うちにある薬草だと治りが遅くて……」
 これを聞き、ランとオードとアルヒェは昨日のことを思い出した。チェシルの家にはたくさん薬草があると言っていたことを。
それに、二日間の滞在中、チェシルのお母さんには一度も会わなかった。
最初の晩に母親が作ったという煮物をもらったあと、アルヒェが母屋にあいさつに行ったときも、ガントおじさんが出てきただけで、姿を見なかったのだ。
 ランたちは、ホッとした。
チェシルのお母さんのことはもちろん心配だが、チェシルはやっぱりやさしい女の子なんだということが、改めてわかったからだ。
「言ってくれればよかったのに」
 水臭いなあとランが言うと、チェシルが申し訳なさそうに小さな声を出した。
「だって、とても高い薬なんでしょ? わたし、そんなにお金持ってないし……」
「じゃあ、こうしましょう」
 アージュは微笑んで、次のように提案した。
「あたしたち、お世話になったお礼に解熱剤を置いていくわ。それなら、問題ないでしょ?」
 
 小一時間後。
 ランたちはガントとチェシルに見送られて、セルチの町をあとにした。
 ガントおじさんは解熱剤のお礼にと、軒下で干した魚の干物と市場で魚と交換してきたばかりの野菜も持たせてくれた(チェシルが薬ほしさにランたちの荷物を漁っていたことは、もちろんガントおじさんには言わなかった)。
 海沿いの道を潮風に吹かれながら歩いていくと、だんだんと上り坂になってきた。
 ガントおじさんの話では、この峠を越えるとセズの村だそうだ。
「暑いわね……」
 昼近くなり、ますます強くなってきた夏の日射しに、アージュが立ち止まる。
 すると、なぜかアルヒェがアージュの頭をよしよしと撫でた。
「ちょっ、な、なにすんのよっ」
「アージュはやさしくていい子なんだなあ、と思って。さっき言い忘れたからさ、今、言ったんだ」
「い、いい子って……やめてよ、子ども扱いしないで!」
 
「いい子は僕が背負ってあげるよ、ほら」
 
 アルヒェはアージュの前で背を向けてしゃがんだ。病み上がりのアージュを気遣っての、行動なのだが。
(わわわ、そんなことしたら……)
(絶対、蹴飛ばされるぞ)
 ランとオードはヒヤヒヤした。
 そう、いつものアージュなら、まず間違いなく、背中をどかっとやっただろう。
 が――アージュは顔を真っ赤にしながら、アルヒェの横を通り過ぎ、ずかずかと歩いていく。
「あれれ、嫌われたかな」
 アルヒェが肩を軽くすくめ、立ち上がった。
「別に嫌ってなんかないわよ! 心配しなくてもひとりで歩けるからっ」
 前を行くアージュがなぜか怒鳴るように言う。
 ランは足を速め、アージュに追いついた。
「アージュ、無理しないほうがいいんじゃないの?」
《そうだ。せっかくの好意なのに》
 アージュはぴたっと足を止め、低い声でひとことつぶやいた。
 
「あんたたち、アルヒェにあたしの正体バラしたら、ただじゃおかないわよ」
 
 ランは目をぱちくりさせた。
 ランとオードが呪われた血を持つ者だということは、アルヒェは知っているが、そういえばアージュが赤蘭月になると吸血コウモリになってしまうことは話した記憶がなかった。
「なんで? 別にいいじゃん」
「よくない」
「えーっ、なんかずるいよ、アージュ」
 すると、アージュに聞こえないようにオードが小さな声で言った。
 
《ラン。乙女心というものだ》
 
「へ?」
 マヌケな声を出したランに、あきれた声音でオードが付け足す。
《……まあ、これ以上、追及しないほうが身のためだ》
 余計なことを言えば、頭を叩かれるどころか、回し蹴りを――いやいや、飛び蹴りを食らうかもしれない。
それも今まででいちばん強烈で、背中にブーツの形をした痣がくっきりとつくようなものを。
(オレ、やっぱアージュのこと、よくわかんないや)
 ランは大きくため息をついた。
 眼下に広がる大海原は、夏の太陽に照らされて、どこまでも青く広がっていた。

(第二話へ続く…)


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