香水物語

思い出のカプセル

【ゲラン】アクア アレゴリア グラナダ サルヴィア

 僕の高校の美術室が新しくなったのは、3年生の秋だった。みんな、いよいよ受験から逃げられなくなり、嘆きながら勉強していた頃。僕もご多分に漏れず、ヒーヒー言いながら過去問を解いていた。だから、美術なんてどうでも良かった。
 しかし、どうでも良くない人もいたようだ。丁度良い気温の、秋晴れの日、登校すると、女子たちがワイワイと騒いでいた。特に興味を持たず、自分の席に行こうとしたが、彼女たちの声が大きいので、どうしても話が耳に入ってきてしまう。
「瀬田さん、美術室新しくなるの待ってたよね、絶対」
「今まで引きこもりだったくせにね」
「保健室登校じゃなくて美術室登校とか、何かむかつく。図々しい」
「わかる。まぁ、そういう感じの見た目だもんね」
「どうせ授業には出ないんでしょ、人目避けてコソコソ絵を描くだけだよ」
 チッ、と僕は心の中で舌打ちした。人の悪口なんか、言うものではない。お前らが鬱陶しいから引きこもってたんじゃないのか?瀬田 祐子は。別に彼女と親しいわけでも何でもないが、判官贔屓というか、不利な方を助けたくなる。とはいえ、行動に出せるわけでなし。僕はおとなしく鞄を置いて、席に座った。

 2日ほど経った日、美術の授業があった。ピカピカの美術室は、綺麗すぎて落ち着かない。新築の臭いが、画材の臭いと混ざり合って、くさい、とまでは行かなくても、どうにも気になる。そんな環境で、だるい授業をこなし、放課後。帰ろうと鞄の整理をしていたら、ハンカチがないことに気づいた。あれ?と思って記憶をたぐる。美術室の水場で使った覚えがある。面倒だが、見に行こうと決めて教室を出た。あれは亡くなった父の形見なのだ。放ってはおけない。
 美術室のドア前まで来て、電気がついているのが見えた。先生がいるのかな、と思いながらドアを開けると、部屋の真ん中で、瀬田さんがこちらを見ていた。何か、絵でも描いていたようだ。絵筆を持っている。
「あ、あの、忘れ物。すぐ帰るから」
 意味もなくオドオドしながら、水場へ行く。
「あれ、ハンカチないな……」
 見当たらない。と、突然、肩を叩かれた。びっくりして振り返ると、瀬田さんが至近距離にいた。
「ハンカチ探してる?」
 少しハスキーな声で僕に尋ねた。
「う、うん。黒っぽくて、チェックみたいな柄の、」
「これ?」
 スッと差し出された。それはまさに、僕のものだった。
「あ、これ!ありがとう、拾ってくれたの?」
 受け取りながら問うと、うん、と頷いた。
「濡れそうなところにあったから、移動させた」
「そっか。ホントにありがとう、助かった。父の形見なんだ」
「そうなの。お父様、亡くなったの?」
「うん。去年」
「そう」
 瀬田さんは、ボブヘアーをさらっと耳に掛けてから、
「じゃ、私、絵描いてるから」
 と僕に告げて、迷いのないまっすぐな姿勢で、スタスタと元いた場所に帰っていった。絵か、と僕は興味が湧いた。不登校で、ほとんど顔を合わせたことのない瀬田さん。彼女はどんな絵を描くのか。抽象画が似合う気がするが、果たしてどうか。僕は彼女の方へ近づく。
「見せてもらっていい?」
 問うと、瀬田さんはパレットを絵筆で突きながら、うん、と頷いた。
「どうぞ」
「じゃ失礼して……」
 彼女の横に立ち、絵を見る。絵は、ザクロの絵だった。完成しているものと、描きかけのものがある。
「ザクロか。模写してるの?」
「うん」
 左側を指さす。
「これ、私の曾祖父が描いたの。日本画だよ」
「へー。え、でも、瀬田さん今使ってるの、水彩絵の具だよね?」
「うん。面白いでしょ、その方が」
「まぁ、そうかな」
 ちょっと僕にはわからない感覚だ。
「このツブツブ感、カプセルみたいだね」
 精一杯、センスを働かせて言ってみる。アハハ、と瀬田さんは笑った。
「何が入ってるの?」
 切れ長の目で僕を見つめる。もうネタ切れである。僕は呻くしかない。
「うぅん……」
「きっと初恋だよ」
「は!?」
 予想だにしない発言である。
「初恋、入ってるの?」
「赤いし、甘酸っぱいし、なんかそんな感じ」
「はぁ……」
「ねぇ、中澤君」
 瀬田さんは、絵筆にほんのり赤い色を含ませて、ザクロの粒を描く。慎重に、丁寧に。
「中澤君の初恋っていつ?」
「え、えっと……経験ないかなぁ……」
「ホント?」
「うん」
「そっか。実はね、私も。興味ないの、他人に」
「そう……なの?」
「うん。でもね、絵は好き。美大受けて、合格して、早く高校卒業して、自分の好きなことで頑張りたい。今の環境は嫌い」
 スパン!と言い切った。芯があるなぁ、と僕は思った。僕に彼女のような、一本通った筋というか、揺るがないものはない。流されてばかりだ。
「時間、いいの?」
 唐突に、現実に引き戻されたような気がした。
「あ、母親帰ってくるな……行くよ」
 夕飯に間に合わなくなる。
「気をつけて帰って」
 瀬田さんは僕に、クールな笑みを見せて、絵に没頭し始めた。僕は、うん、とだけ言って、その場を後にした。

 それから時は流れて、僕は大学生になり、社会人になった。早々と結婚して、娘と息子もできた。そんな、ある秋の日、学校のイベントで山登りをしてきた子供たちが、お父さん!と叫びながら、仕事から帰ってきた僕に絡みついた。大いに興奮して、今日の山登りの報告をしてくれる。そうか、すごいね、と繰り返しリアクションしながらリビングへ行く。ドアを開け、食卓テーブルを視た途端、僕はハッとした。籠にザクロが入っていたのである。急に、僕はあの日のことを思い出した。高校の美術室、ちょっと風変わりな、芯の強い瀬田さんと交わした会話。
「お父さん、これ、あたしが採ってきたの!」
 娘が胸を張る。
「僕も手伝った!ザクロ、っていうの!知ってた!?」
 息子も負けじと偉そうに言う。僕は、ザクロの赤い粒から目が離せない。あの体験は、今目の前にある。ザクロの中身が、僕の中でこぼれ落ちている。カプセルが開いた。と、そのとき。
「お父さん?」
 娘が不思議そうに僕を見上げた。
「どうかした?」
「何でもないよ。大丈夫」
 僕は瀬田さんとの思い出を、もう一度、あの赤い、甘酸っぱいカプセルにそっとしまい込んだ。しまい込んだ思い出は、かつて彼女が言ったように、淡い初恋だったのだろう。叶うことのない、歯がゆい思い。
「ご飯の準備してー」
 妻が呼んでいる。はーい、と子供たちが飛んでいく。僕はザクロに背を向けて、自室へ着替えに行った。
 瀬田さんが今、幸せであることを、願ってやまない。

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