アパラチア山脈のふもと

「俺はアパラチア山脈の麓で生まれたからな」
 それが友人の口癖だった。どうやらそれは本当の話らしかったが、だからといってどうだと言うのかさっぱり分からなかった。その事実は彼のアイデンティティ形成に深く影響を与えているらしく、むしろ根本から規定しているといっても過言ではなかった。何しろそれは出自にまつわることなのだ。当然なのかもしれなかったが、しかしだから何なのかよく分からなかった。
 たとえば居酒屋でビールを頼むときに、彼は好んで外国の銘柄を飲んだ。
「みんなはキリン? じゃ俺は、レーベンブロイで。ほら、俺ってアパラチア山脈の麓で生まれてるからさ」
 しかしご存知の通り、レーベンブロイはドイツのビールなのだ。
 あるいは失恋した時もそうだった。大好きだった片思いの女の子に振られた夜、彼は居酒屋でやはり外国のビールを飲み、ひとしきり大号泣してから言った。
「でも……心配しないでくれ……だって、俺アパラチア山脈の麓で生まれてるからさ」
 大学を卒業して数年たって、彼が会社を辞めたらしいと風の噂を耳にした時も、彼に直接聞くまでもなく理由は分かった。その後ダンサーになったと聞いた時も、理由はすぐに分かった。
 そして最近、今度は彼は市議会議員選挙に出馬するという。しかし地元の友達は誰も驚かなかった。首を傾げもしなかった。なぜなら、理由はもう明らかだからだ。理由が分かっていることについては、人は誰も驚かないし不可解にも思わないのだ。

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