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インテリアに個性をもたらす「コラージュ」のススメ 〜ヴィトラに息づくイームズのデザイン哲学〜

こんにちは!
暑い日が続いておりますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

今回の北欧デザインコラムでは、地域を少し南下して、Vitra(ヴィトラ)社が提案する「コラージュ」のコンセプトについて考えてみたいと思います。

(この記事の内容は公式の見解ではありませんので何卒ご留意ください。)

1. Vitraで働くことになりました

実は今年の頭に、フィンランドのガラスメーカーのiittala(イッタラ)から、同じくフィンランドのインテリアメーカーであるartek(アルテック)に転職しました。昔から大好きだったブランドをまさかハシゴすることになるなんて…

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アルテックは、現在Vitra(ヴィトラ)というスイスの家具メーカーがブランドを保有しています。ので、僕はヴィトラに所属しながら、オフィスでプロジェクトを進めたり、表参道のお店でお客さんと話したりと、柔軟に働かせてもらっています。

ヴィトラは日本だと知名度がまだまだ低いですが、ヨーロッパでは誰しもが知るインテリアメーカー。1950年の創業以来、チャールズ&レイ・イームズをはじめ、アレキサンダー・ジラードやジャン・プルーヴェ、ブルレック兄弟やジャスパー・モリソンなど、名だたるデザイナーたちと協働してきました。

「世界最大のデザイン・カンパニー」とも称されるヴィトラは、スイスとドイツの国境であるライン川のほとりにヘッドオフィス「Vitra Campus」を構えています。こちらもフランク・ゲーリーやザハ・ハディド、日本からは安藤忠雄という名だたる建築家たちが手がけた建物が並ぶ宝石箱みたいな場所です。コロナが落ち着いたら行ってみたい、。

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僕は現在はジャパンマーケットをほんの少しかじっているだけですが、今後は色んなプロジェクトに関わっていけたら面白いだろうなぁと思っています。

2. ヴィトラが提案する「コラージュ」の考え方

洗練されたデザインやプロジェクトはさることながら、僕が何より共鳴するのはヴィトラが提案する「コラージュ」というコンセプトです。ステートメントを引用してみます。

ー 住まい ー それは自分が自分らしくいられる特別な場所、その人の歴史やアイデンティティを映し出すものです。ヴィトラは魅力的な住まいを作り出すために、「コラージュ」という考え方を提案します。新しいものと受け継がれてきたもの、工業製品と民芸品、クラシックなものとモダンなもの、そして自分の好みに合わせて選んだ小物やテキスタイル、家具が混ざり合うことで、独自の個性と物語を映し出す「コラージュ」が完成します。(vitra. home)

一般的なインテリアの考え方って、スタイルや色合いのトーンを合わせる、いわば「外見の統一」が提案されますよね。例えばモダンだったらモダン、家具の色を合わせるとか、柔らかい雰囲気で統一するとか。だけど外見ベースの考え方をもとに構成されたインテリアは、なんとなくお手本どおりで血が通ってない感じがしてしまいます。なぜならそでは生活者一人ひとりの好みや個性が、全体の統一感を優先することで失われているからです。

一方で、ヴィトラが提案するのは、他人によって作られた世界観や外見による統一を「正解」として導入するのではなく、自分自身の手で組み合わせていこうよ!というインテリアです。つまり生活者の数だけ「正解」があるということ。この生活者の能動的な「創造(クリエイティビティ)」を促す考え方は、ヴィトラのあらゆるプロジェクトに通底しているように感じます。

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個人的に思うのは、たぶんヴィトラの根本には「一人ひとりの生活者を信じる」という考え方があるんじゃないかということ。お手本通りの組み合わせやスタイルを「完成形」として押し付けるのではなく、あくまでヴィトラが提供するのはコラージュのためのヒントや一要素でしかない。すなわちインテリアの「完成」を「生活者に委ねる」という態度です。

自分の「居心地の良さ」は自分自身が一番よく知っているはず。だからこそ、ヴィトラは「コラージュ」のコンセプトのもと、生活者自身の手で自分だけの空間を作り上げていくことを提案する。そのプロセスを経ることで、はじめてインテリアに個性が宿り、自分にとってもっとも心地良い空間が出来上がるというわけです。

3. ヴィトラに息づくイームズのデザイン哲学

ヴィトラが大きな躍進を遂げたのは、1957年にアメリカのハーマンミラー社と契約を結び、チャールズ&レイ・イームズのプロダクトをヨーロッパと中東で生産販売する権利を得たことがきっかけでした。

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イームズ夫妻との協働はヴィトラの考え方に大きな影響を与え、今日まで続くブランドの基盤をなしています。ヴィトラは彼らの存在を以下のように説明します。

彼らのデザインとの出会いが、什器メーカーであったヴィトラを家具メーカーへと転身させました。そして、彼らがヴィトラに残したもの、それは、製品はもちろんのこと、彼らのデザイン哲学が今日のヴィトラの活動指針として強く生き続けています。そのひとつの例として、ヴィトラでは、常に「チャールズとレイなら何と言うだろう?」と問いかけます。これに見て取れるとおり、彼らのデザイン哲学が今もヴィトラの重要な判断基準となっています。(vitra.  home)

日本のマーケットでは、イームズのアイテムの多くをハーマンミラー社が販売しているためヴィトラとの関係性は見えにくいのですが、二人の存在がヴィトラの土壌を作っていることが分かりますよね。

そんなイームズ夫妻のデザインの考え方、あるいは彼らの生き方は、まさに前述した「コラージュ」を体現するものでした。

例えば、自らデザインして暮らしたイームズハウス。そこには二人のモダンなデザインとともに、数多くの民芸品のほか、旅や日々の暮らしで見つけたさまざまなものが置かれていました。とりわけ二人が愛したのは、北米の名もなき民芸品。ホエールやバードのオブジェを見たことがある方も多いのではないのでしょうか。

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レイ・イームズは、イームズハウスに置かれた数々の「物」についてこのように語っています。

私達はコレクターとして何かを集めたことは一度もありません。しかし、集めてきた物たちを目にするだけでいつも良いアイデアが浮かんでくる、それはきっと何かを宿した物たちだからなのでしょう。(vitra. home)

イームズハウスに集められた一見なんの一貫性もないように見える物たちは、共通した「何か」を宿している…。その「何か」、すなわちイームズ夫妻の「コラージュ」を成り立たせているものとは一体なんなのでしょうか?

4.「必要(the need)」を見抜くこと

数多くの映像作品を手がけたチャールズ&レイ・イームズは、『デザインQ&A』という短い映像の中でこのような発言をしています。

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Q. 「デザインは誰に向けてなされているのですか?」
A. 「デザインは「必要」に向けて行われるのです。」

Q. 「デザインの実践と普及にとって、最重要の条件はなんだと思われますか?」
A. 「「必要」を認識することです。」

(『DESIGN Q&A』1972.)

こうした問答からも分かるように、イームズは「必要(the need)」という概念を非常に重要視していました。この概念について、孫のデミトリオス・イームズは次のように説明します。

「これがしたい」や「あれがしたい」よりも根本的ななにかである。誰でも自分に必要なものがなにか(本当は)分かっていて、それはいつでも、ほしいと思っているよりも少しばかり真剣なものである。(『An Eames Primer』2004.)

「〜がしたい = want to」という感覚はどちらかというと「願望」のニュアンスが強いけれども、「need」はもう少し「切実」で確信めいたニュアンスのある感覚です。つまり、目の前のものごとの核心を見つけ、「どうしてもなくてはならない」という切実さによって導かれる欲求に従うという態度が、イームズの軸にあるということなんですよね。

ただし、彼らの言う「必要」は「最低限の生活を成り立たせるための"必要"」ではないということに留意が必要です。それはイームズハウスに並ぶ数々の物たちや、彼らのプロジェクトのユニークさを見れば一目瞭然。言葉にするのが難しいのですが、彼らの言う「必要」とは、ものの背後にある「本質」にふれたときに湧き起こる、もっとポジティブで悦びのある個有の心の動きを指しているのだということです。

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孫のデミトリオスは、この「必要」の考え方こそが、イームズ夫妻の様々な仕事やプロジェクトに一貫性をもたらしていると指摘します。

チャールズは、これを「必要」という言葉で語った。…彼らのプロジェクトはあまりにも多彩で、ほとんど一貫性がないようにも思える。だが、ひとたび距離をとってこの種の「つながり」を見いだせば、そのすべてが網の目のように関係しあっている様子がはっきりと分かってくる。(『An Eames Primer』2004.)

この考え方は、前述したイームズハウスにおける「物」の選び方にもつながってきます。つまり、「北欧」とか「モダン」とか「民藝」とか「ブランド」といった<ラベル=外側の情報>を通してものの価値を判断するのではなく、「自分にとって本当に大切なもの」だとか「どうしても惹かれてしまうもの」という核心めいた個有の心の動き、あるいはそれと出会ったときの「悦び」の感覚を信じて選択し、「適切な場所」に配置し調和させてゆくこと。それらを見抜き、追求することがイームズの言う「必要」であり、自分自身を軸にしたコラージュを成り立たせる条件だということなのです。

5. インテリアを通して一人ひとりの創造性を促す

ここまで(かなりの駆け足で)見てきたように、ヴィトラが提案する「コラージュ」の考え方の背後には、<自分の感覚に基づいて「必要」を見抜き、適切な場所に配置する>というイームズのエッセンスがあるということが分かりました。

そう考えると、ヴィトラの考える「インテリア」というのは、一人ひとりの生活者たちがおのおのの「創造性(クリエイティビティ)」を自由に発揮する空間であると言えるように思います。どの椅子を買って、どのテーブルと組み合わせて、それをどこにどのように配置して…その思考と実践の繰り返しは、まぎれもなく生活空間における「必要」に基づいた一人ひとりのクリエイションに他なりません。

本来、僕たちは小さい頃、自分の思うままに画用紙に絵を描き、色を塗っていました。好きなように粘土をこね、レゴブロックを組み上げた。しかし、年を重ねるにつれ他人が考えた「モード」を信じるようになり、自分の感性の自由な発露を制限するようになってゆく。確かにモードに即したスタイルは整っていて美しく「見える」。しかしそこには「自分自身の要素」がすっぽり抜け落ちているから、全てがお手本どおり・規格どおりになり、はみだす部分を許せなくなる。そこには個性も愛も宿りません。

奇しくも「Living」という言葉には、「暮らし」と「生きる」という二つの意味が当てられています。思考停止的に「正解」を与える/与えられるのではなく、本来誰しもが持つクリエイティビティを刺激し、その豊かな「生」の発露を促すこと。その創造のプロセスに、自分達が魂を込めて作った家具が寄り添うこと。それがヴィトラの目指す"インテリア"だというような気がするのです。

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インテリアが個人の創造のプロセスであるとするならば、自分自身の考え方や世界の見え方が時とともに変化していくのと同じように、インテリアへの考え方もまた変わっていくものであるはずです。とするならば、インテリアとは静的で固定的なものではなく、むしろ自分自身の変化と共に変え・育ててゆくべきものなのかもしれません。

他人の「正解」に依存するのではなく、自分が本当に心惹かれ、「必要」だと思うものを選び取り、空間をクリエイトしていくこと。その絶え間ない繰り返しの中にこそ、インテリアの「個性」あるいは「楽しさ」が宿るのではないでしょうか。

では、そんなところで。

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