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宮沢賢治考:「ほんとうのさいわい」とは何か

今回は、『銀河鉄道の夜』『春と修羅<序>』『学者アラムハラドの見た着物』『マグノリアの木』の4つの作品を辿ることで、賢治の思想を5000字の駆け足で紐解いていこうと思う。


1.『銀河鉄道の夜』~<ほんとうのさいわい>を探す旅

賢治は生涯をかけて「<ほんとうのさいわい>とは何か」という問いを追求し続けた作家である。ジョバンニとカムパネルラの乗る列車が、神々しい光を宿すサウザンクロス(南十字)の駅に着くと、乗客たちは「ハレルヤ、ハレルヤ」と呟きながら幸福そうに列車を降りてゆく。しかし、ジョバンニが持っているのは「どこまでも行ける切符」だ。他の乗客がみないなくなり、カムパネルラが遠くに行ってしまっても、ジョバンニはその切符を握りしめて列車に乗り続けるのである。

言うまでもなく、サウザンクロスはキリスト教の隠喩である。列車で乗り合った女の子が「ここは天上に行くところだから降りきゃあいけない」とジョバンニの誘いを断るように、彼らの降車駅はあらかじめ決められている。そこで降りることが「正しい」とされているからだ。

このシーンで、女の子と同席している青年とジョバンニとの間で「神さま」についてのこんな問答が行われる。

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
青年は笑いながら言いました。
「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうの神さまです。」

青年は「ひとりの神々しい白いきものの人」という「神さま」のイメージを明確に思い描いている。一方でジョバンニにとっての<神さま>は明確なイメージを持たない。けれどもジョバンニは確かにその<神さま>の存在を感じているのである。ここでは賢治の宗教に対する立場が明確に描写されていると言えよう。

そして、ひとりぼっちになったジョバンニに向けて「セロのような声」がこのように語り掛ける。

「さあ、切符をしっかり持っておいで。おまえはもう夢の鉄道の中でなしに、ほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない。」

人間は「自分たちはどこからきて、自分たちは何者で、自分たちはどこへゆくのか」と、哲学するのを止められない生き物だ。しかし、その問いに対する明確な答えが存在しないがゆえに、人々は宗教や科学にその答えを求める。答えがないことへの不安を覆い隠すために。たしかに、そこでは「明るくたのしくみんなの声がひびく」サウザンクロス駅のような、人々の連帯が生じる。けれどもそこで得られる「安心感」は、<ほんとうのさいわい>を探す歩みを止めてしまうのだ。

ジョバンニの持つ切符は、宗教や科学では答えの出せない<ほんとうのさいわい>を探し続ける切符だ。彼が「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます」と宣言するように、銀河鉄道の旅を通して彼は<自分自身の道>を選択するのである。その決意を固くしたジョバンニは、身体の奥底から湧き出る衝動を抑えきれないかのように、叫び走り出す。

ジョバンニは叫んで走りました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集まってなんとも言えずかなしいような新しいような気がするのでした。

<自分自身の道>は孤独な歩みである。その心情は、既存の言葉では表現することができない。「かなしみ」という人間の根源的な感情と、「新しさ」という可能性への期待が同居しているというのだ。

では、賢治はなぜ<自分自身の道>が<ほんとうのさいわい>につながると考えていたのだろうか。そこには賢治の世界観が関係している。

2.『春と修羅<序>』~世界はこころの風物である

賢治は生前、自らの童話や詩を「心象スケッチ」と呼んでいた。その真意は、『春と修羅』という詩集の<序文>から読み取ることができる。

「わたくしという現象は」というものすごい一節からはじまるこの序文には、賢治「世界の見方」が描かれている。

人や銀河や修羅や海胆は 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論もかんがえましょうが それらも畢竟こころのひとつの風物です

すなわち、私が見ているこの世界は、自分の心が映し出す風景に他ならないと言うのだ。賢治はその論拠を、二千年前から二千年後の世界まで時間を跳躍した上で、「地理も歴史も、ぼくたちのからだだって考えだって、そのいろいろの根拠とともに変容していくものだ」と言い切る。なぜならこの世界は「ぼくたちがただそう感じているだけなのだから」と。

おそらくこれから二千年もたったころは それ相当のちがった地質学が流用され 相当した証拠もまた次々過去から現出し みんなは二千年ぐらい前には 青ぞらいっぱいの無色な孔雀がい居たとおもい 新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層 きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を発掘したり あるいは白亜紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を 発見するかもしれません

彼のこうした「主観」に基づいた世界観は、ジャック・デリダの「世界はテクストである」という命題や、マルクス・ガブリエルの「新実在論」と通底するものであるとも言えるだろう。

そして賢治はこう言い切る。

すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから

すなわち、この世界は主観であるがゆえ、宗教や科学といった「外側の世界」を探求したところで<ほんとうのさいわい>を見つけることはできない。むしろ自分の内側を掘って掘って掘り続けることで、はじめて私たちは<ほんとうのさいわい>に近づけるということなのだ。

宗教も科学も、歴史も目の前のあなたさえも、自分自身の心の風物でしかない。こうした世界観こそが、『銀河鉄道の夜』で結論された〈自分自身の道〉が孤独たるゆえんなのである。

では、孤独の道をゆくジョバンニが握りしめていた「天の川のなかでたった一つのほんとうのその切符」とは一体何なのだろうか。

3.『学者アラムハラドの見た着物』~人がなんとしてもそうしないでいられないこと

『学者アラムハラドの見た着物』は、賢治が亡くなった際に「この原稿だけ別の引き出しから」見つかった未完の短編である。この物語には賢治の思想の核心が描かれているように思う。

あるとき、学者のアラムハラドが生徒の子供たちにこう問いかける。

火がどうしても熱いように、水がどうしても下に落ちるように、小鳥が啼かずにいられないように、魚が泳がずにいられないように、人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういうことだろう?

大臣の子のタルラは「人は歩いたり物を言ったりしないでいられない」と答える。アラムハラドは「確かにそうだ、けれどももっと大切なものがないだろうか」ともう一度タルラに尋ねる。今度はタルラは飢饉のエピソードを出しながら「人がもっとしないでいられないのはいいことだ」と答える。

この「人はいいことをせずにはいられない」ことこそが、アラムハラドの想定していた答えだった。けれども、小さなセララバアドの何か言いたげな様子を見たアラムハラドが彼に意見を促す。するとセララバアドは「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」と答えるという内容だ。

この作品の凄みは、「人の性質」を「いいことをせずにはいられない」と言った上で、さらに「ほんとうのいいことが何だか考えずにいられない」と言うところである。

現実の世界で、大人たちは「いいことをしなさい」とか「いい子でいなさい」とは言うけれど、「いいことが何なのか自分で考えなさい」とは言わない。しかし、本当に大切なのは押し付けられた正しさに従うことではなくて、何が正しいのか、何がいいことなのか自分で考え続けることであると賢治は言うのだ。

この思想も、ここまで見てきた『銀河鉄道の夜』や『春と修羅』と通底するものであろう。すなわち、「ただしい答え」を外部に見出した人々はみなサウザンクロスの駅で降りてゆく。けれども、その「ただしさ」を自分で探し続ける者こそが銀河鉄道に乗り続けるというわけだ。

つまり、ジョバンニが握りしめていた「ほんとうの切符」とは、まさに「<ほんとうのさいわい>を自分で追求し続けること」であると言えるだろう。もしかすると、その答えにたどり着くことはできないかもしれない。けれどもその姿勢をこそ賢治は描き続けたのである。

しかし、である。答えのない問いを追い求める<孤独な道>は、もっとも険しくつらい道である。それゆえ人は宗教や科学、自己啓発や他人の解釈に安息の地を求める。そうした「苦しみ」を賢治はどのように考えていたのだろうか。

4.『マグノリアの木』~つらく険しく祝福された道をゆく

人間は<ほんとうのさいわい>を求め続ける生き物である。とするならば、本来的に人は「不安」や「悩み」を持ってしかるべきものだ。歴史的に、人は「不安」や「悩み」をネガティブなものとして捉え、その原因を解決しようと哲学を生み出し、宗教と科学を発展させ、自己啓発や自己肯定を礼讃してきた。しかし、「不安がない」などとという状態は本来あり得ない状態であり、むしろ「不安」や「悩み」のある状態が正常であると考えるべきなのではなかろうか。

すなわち、<ほんとうのさいわい>を求める行動に対して、つねに自己批判の視点を向けること。その視点は不安や悩みを生むけれども、不安や悩みを解消することが目的化しないように監視すること。なぜならそうした精神の孤独感こそが<ほんとうのさいわい>に向かっている証明であるからだ。

ではそうした「苦しみ」を賢治はどう考えていたのだろうか。

『マグノリアの木』という短編の主人公である諒安は、霧深く険しい山谷を一人で歩き渡っている。鋭い崖を登り、刻んだ峰を進むうち、「つやつや光る竜の髯のいちめん生えた少しのなだらに」とうとう疲れて倒れ込んでしまう。すると霧の中から声が聴こえてくる。

(これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色なのだよ。)
誰かが、或いは諒安自身が、耳の近くで何べんも斯う叫んでいました。
(そうです。そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕方がないのです。)

ここでは、諒安自身の言葉と、<神さま>とも解釈できる「誰か」の言葉が、境界線を失い同一のものとして描写されている。そして目を覚ました諒安がこれまで歩んできた道を振り返ると、その道いっぱいにマグノリアの花が咲き誇っているのだ。

「ほんとうにここは平らですね。」
「けれども、ここの平らかさはけわしさに対する平らさです。ほんとうの平らさではありません。」
「そうです。それは私がけわしい山谷を渡ったから平らなのです。」
「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲いています。」

ここに描かれる諒安は、『銀河鉄道の夜』で<孤独な道>を行くことを決意したジョバンニの二重写しである。「自分だけの切符」を握りしめ、険しく孤独な道を歩んできたジョバンニは、さいごに道いっぱいに咲くマグノリアの花に祝福されるというわけなのだ。

ここで重要なのは、<ほんとうのさいわい>を目指す旅の終着点に花が咲いていたのではなく、その道のりいっぱいに花が咲いていたということである。すなわち、悩みや不安を抱え、自己批判を繰り返しながら<ほんとうのさいわい>を探し続けてきたその過程そのものが祝福されていたということなのである。

つまりこの物語は、「自分だけの道を歩むべきだ」という賢治の「自己肯定」の表現に他ならないのだ。

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自分にとって「ほんとうにたいせつな問題」を、まっすぐに追求し続けること。その旅路は険しく、不安と悩みがつきものである。けれども、自分の信じる道をゆく旅路に不安や悩みがない状態はあり得ない。だからその状態をこそ肯定してあげること。なぜなら、その問題を追及することそれ自体が充実した年月なのだから。


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