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感じ方

今読んでいる本に「だからさ、そこがママの問題なんだよ。形容詞をうまく使いこなせる力がないと、感じ方がわからない。」という一節がある。
感じ方…."そう感じた"、という感受性があっての言語化ではなく、
形容詞….言語と世界の結びつき
をいくら持っているかで、感じ方が変わってくるという考え方なのかしら。
確かにそうだ。


「虎柄」は「虎」を知らなければイメージできない。
「コーヒー」をのんだことがない人にコーヒーをいくら説明しても、のんだことがない人には、コーヒーを好んでのむ人のように味を感じることはできない。

それはきっとコーヒーの歴史や成分やあらゆるメカニズムを知り尽くした人がいても、

その人がもし、飲んだことがなければ味はわからない。
その人がもし、飲んだことがない人にいくらうまくプレゼンしても、言葉で味は共有できない。

「青」や「雲」を経験したことがない人に「空」を説明するには、説明ではなく、"その人が持っているもの"に働きかける表現が必要だと思う。


じゃあ自分の感じ方は、形容詞のための語彙があるから育まれたものだろうか?
恐らく正しいだろう。

けれど、形容できないものと出会した際に言語化を試みた回数もまた、形容詞を育んだはずだ。


僕たちは感受性があって人と接していけると思う。
感受性が想像力をつくって、想像力は優しさに発展する。
電子機器と様々なコンテンツの発展は、沢山のメリットと引き換えに想像する機会を奪っていく。自分が想像する前に答えをくれる。
自分から答えを探しに行ってしまう。
そうでなければ、人類はこの多忙で、不確定で、不安定で、異常なこの社会というコミュニティに追い付いていけない。
追い付いていけない者は、同時に社会に属して"は"いけないジャッジでもあり、
基本的に僕たちはこのジャッジから逃れたい。

日々をなるべく穏やかに、なるべくわかりやすく、なるべく安心して、それらを正常に暮らしていくために。


今確かに、沢山の人たちに形容詞が不足してると言えると思う(いや、形容詞だけでなく語彙全般に言えるかもしれない)。

すべてに形容詞が必要ではないけれど、あった方がいい場面は沢山ある。
それは、高い洋服とか、美味しいコーヒーとか、食べ物をのせるお皿とか食器とか。

「必要」ではないけれど、あ っ た 方 が い い。
今日の食事。
今日の綺麗な見た目の食事。
今日の美味しい食事。
今日の良い食事。
今日の愉しい食事。

素敵な背姿の人を見るだけで愉快な気持ちになったり、
コーヒーの香りが毎日の一瞬を快くしてくれたり、
いい見た目の食事というのは、同じ料理を適当に盛り付けるよりおいしく感じることはどこかがそういう論文を出してたと思う。

感受性の鍛え方が今までわからなかった。
なんとなく、多くのことを経験したり、考えたり想ったりすることかなぁって考えていたけど、その脳の筋力とか心の肺活量には個人差がある。

「普段使う形容詞を増やす」というのは、結構だれにでも難しくない感トレなんじゃないだろうか。
それは本を適当に開いて、中身を読まなくてもその時のページで目についたものを1日使いまわしたらいいし、
歌の歌詞をしれっと普段の会話に混ぜてもいいかもしれない。(勿論、バレても恥ずかしくない程度にね。)

さてどうかな、僕はどのくらい形容詞を持っているんだろう。
語彙の多さというのは感受性と2/3くらいで比例していると思っていて、
その値は、人生の幸福度や満足度を底上げしてくれると思っている。

お金を沢山持っていることと似ている。
感じ方が増えると、生き方の選択肢が増える。

だって、人生(及び一瞬、一瞬)の捉え方の選択肢が増えるわけだから。

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