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パフェの由来はパーフェクト

文を書くくらいしかすることがない。
例えるなら、空っぽのグラスに泥を纏った砂利が、コーティングを傷つけたり汚したりしながらずけずけと注がれて、あまつさえ居座っている。心がどうも悪い。いよいよたまらずパフェを食べに来た。

スマホをさわりすぎて指が疲労し始めてしばらくたっているのにも関わらず、ここにきてカフェの待ち時間で文章をスマホで打ち込もうという身体に対する愚行の極み。右手は一番親しみ深い商売道具だからなるべく癒してあげたいのに、こうやって一銭にもならない仕事をさせてしまう。
 競うということと比べることの違いや、戦うことと立ち向かうことの細かい違いに対して、まだ人間たちは明るくない。
生きてみて思うのは、月へ行っても法律がいくつ変わっても、哲学や道徳が、まだどことなく宙ぶらりんで、弱い人間はこの暮らしが落ち着かない。いつなんどきその無邪気な刃物が自分に飛んできてもおかしくない。
そうやっていくらでも傷ついたし、無自覚に僕も沢山の人を苦しめたことがあると思う。

技術や専門知識をつけるなどして、その道を歩む人々にも色んな種類がいると思う。
同じ道を通るけど、目的地が違う人で溢れかえっていて、同じ仕事をしている人が全く違うところを目指しているなんてザラにある。
『何のために学んで、何のために用いるのか』、それを学ばないまま僕らは年齢や事情や時の流れに促されて仕事を始める。
だからどんなに意識していても時々忘れそうになる。「技術や専門知識、ましてや哲学なんてものは、誰かを喜ばせたり自分が心地よく生きるための方法や知識であって、てらったり誰かを倒すためのものでは、本来ないのだ」

働く人間の中には、僕に限らずそうした価値観を失った専門職の人がまま存在していて、
「商売の本質は信頼だ」と謳いながら"生きることの本質"を見落としていたりする。
みんなもっと愛について真剣に考えないか。
熱くなっていいと思う。
根性論じゃなく、令和だからこそわかる新しい愛についての話をいっぱい聞きたい。
「そこに愛はあるんか?」
「それは愛か?」
「愛ってなにか?」

そんな話をもっといっぱいしてほしい。みんなの形で表現してほしいと願うカフェの待ち時間。
続いてケーキセットを注文。


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