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胡蝶と春紫苑

『胡蝶と春紫苑』

いつからだろう、
僕の瞳はずっと夢を見ている。

烏が鳴いている。
辛うじて荒く舗装されたアスファルトの下り坂。
道に沿って植えられた銀杏の枝には薄緑の葉が繁り、
ふと見上げた空には綿のような雲が夕明かりに照らされて、
うすく、細く、どこまでも続いていた。

僕はこの光景を知っている。

予感というよりもそれは刺すような既視感で。
促されるように目を向けた傍らには、

忘れもしない、君の小さな横顔があった。

喉元まで出かかった言葉は息と共に詰まり、
身を引き裂くような焦燥がただただ空回り、
そんな撹拌された思考のなかで僕は、
これが夢であることを自覚する。

僕たちは並んで、ゆるやかに長い坂道を下っていた。

ただただ平静を装いながら、
うっすらと西日に照らされた彼女の頬に目を落とす。

どうしたんですか。
顔を上げた彼女は、屈託もなく問う。
久しぶりだな、って思って。僕はただ一言、返す。

言いたいこと、言わなければならないこと、
伝えたいこと、ずっと伝えたいと思っていたこと。
それらすべてが喉の下で混ぜかえって、
叫びだしたいくらいの衝動に駆られる。

時間はいくらあっても足りないのに、
それが長くは続かないことは、何となく分かった。

だってこれは、ただの夢なのだから。

先輩は、
彼女はそこで一呼吸飲み、僕と目を合わせて言う。

先輩は、元気にしてましたか。

僕は、目の前で淡く揺れる小さな白い花が
春紫苑という名前だったことを思い出していた。

元気に、してたと思うよ。

喉の底が、つん、と痺れる。
元気じゃない時もあったけどね。
そう付け加える。じわり、とお腹の底が軋む。

そうですか。
彼女は顔を前に向けると、
その視線をどこか遠く、山のはるか先へ游がせる。

君はどうなの?
反射的に聞き返した事を僅に後悔する。

私は。
彼女がなにかを言いかけて、いや
或いは口に出したのかも知れない。
刹那、銀杏並木の影が唐突に僕らに落ちて
その言葉を口元と共に、はたりと隠した。

元気です。今も、ずっと。
言いかけた何かを自ら覆うように、
彼女がはっきりとした口調で言う。

その行間に思いを馳せながら、僕は短く
そっか。と呟くように言った。

坂道を下った僕たちは、
小さな神社の境内に差し掛かる。

神社と言っても大層なものではなく、
雑木林の開けた場所に、手入れのされていない祠と
石造りの鳥居がぽつりと佇むだけの、そんな場所だ。

少し休憩していきませんか。
僕が頷くと、彼女は肩に掛けた学生鞄を下ろし、
長く伸びる影とともに古ぼけたベンチに腰掛ける。
僕もそれに倣い、詰襟の首のボタンを一つ開いた。

草木が微かに擦れる音がする。
澄ました耳が、吸い込まれそうな位の静寂を聴く。

陽の光はさっきよりも確かに傾いていた。
宵闇が遥か遠くから様子を伺っているのが解る。

けれどその宵闇すら、僕らをどこか暖かく
斜陽とともに淡く照らしているような、
不思議な安心感がそこにあった。

目の前に咲いた春紫苑がうすく揺れる。

いつか言おうって思っていたんですけど、
いたずらっ子のように足と唇を突き出して、
放り投げるように、彼女は話し出す。

先輩が音楽をしている時が、いちばん。
彼女はここで勿体つけるように言葉を止める。

ああ、そうだ。この言葉がきっかけで
僕は、音楽が好きになったんだ。この言葉が嬉しくて。
嬉しくて、嬉しくて嬉しくてたまらなくて。

はじまりは、きっとここにあった。

いちばん、なんなの?
いたずらっぽく、僕が訊ねる。

ふふ、と吹き出しながら
なんでもないですよ、と彼女。きっと
僕が聞き返すのを予め予想していたんだろう。

楽しげに笑う彼女の切り揃えられた髪を、
通りすぎた空の吐息がはらりと揺らす。

茜色に染まる眼下の街並み。
その隙間を縫って、宵闇のインクがうっすらと滲む。
あたたかな暗がりが視界を薄く、薄く染めてゆく。

心が温かいスープに浸かって、
自分の境界線があやふやになって、
なにもかも解けてしまいそうになる。

そして、そんな呆漠たる感受たちが
瞬きの後には鮮烈な記憶になってゆく。

僕の目が、耳が、肌が、心が、すべてが。
今をいまとして認識する間も無く砂のように溢れるいまを
何一つを取り零すまいと、無音の絶叫を上げている。

嗚呼、この一瞬はきっと永遠だ。

たとえその形を変えたとしても。
この記憶はずっと消えない、きっと消せない。

僕の瞳はずっと夢を見ている。

風に吹かれて小さく揺れる、春紫苑の花の影が
まるでそこだけ切り取られたように、
いつまでも目蓋の裏側にこびりついている。

気付けば日がとうに暮れていた。
線路の上に渡された高架橋から辺りを見渡す。

下りの電車が駅前の街灯りに吸い込まれてゆく。
微かに聴こえる虫の鳴き声が宵闇に薄く染み込む。

電信柱の街灯をひとつひとつ辿りながら、
僕たちは駅前のロータリー、バスの停留所を目指す。

そこからバスに乗るのが、いつもの僕達の帰り道だった。

すっかり寒くなってきましたね。
そろそろマフラーが欲しいかも、と言った彼女は
その首をくっと竦める。澄んだ空気が肩を撫でる。

路端の自動販売機が視界の端を掠める。
僕は立ち止まって、ポケットから小銭を取り出す。
程無くして僕らの手に握られる、ホットココアとコーヒー。

いつまでも、いつまでも蓋を開けずに
ただそれを握っている彼女を見て。

折角の温みが冷めてしまうのではないかと、
そう思う僕の手に握られた缶もやはり、
その蓋は閉じられたままで。

蓋を開けて終うのが勿体無くて、
その小さな温もりに、ただただ体温を預けていた。

バスに揺られている。
真っ暗な海に浮かんだ僕らの船は、
赤信号と停留所を点々と結びながら
ゆるやかに国道を流れていた。

ふと隣の彼女を見遣る。
軽く俯いたその横顔からちいさな息遣い。
緩慢に揺れる座席に合わせて、
華奢な肩がかすかに船を漕いでいた。

視界の隅がほどけてゆく。
結んでいた像が、ほつれた糸を繰るように
少しずつ少しずつ、滲んでゆくのがわかる。

姿は霞んでゆく。もう、顔も見えない。
見えるけど見えない帳が、はっきりと世界を覆ってゆく。

声は出なかった。口も動かなかった。
手足も、指先のひとつも思うようにならなかった。

だからこそ、髪の先から爪の天辺までを駆け巡って。
喉の真下、微かでも確かに、焦点を結んだ思いが、
何も無くなった空間に、まるで稲妻のように駆け巡る。

それらは喜怒哀楽の全てであり、
またそのどれともまったく異なるもの。

もう決して触れられない
愛しいものに対する憧憬でもあり、
言葉にしようとすれはするほど
掛け離れてしまう程の畏れでもある。

焦点の合わない、断片的なものだけが
ただただ脳裏をチリチリと焦がし通り過ぎてゆく。

必死になって目を凝らす。
細めた目は辛うじて焦点を結ぶ。
小さく頭を擡げていた春紫苑が、
微かな揺れと共に僅かにこちらを向く。

これは、ただの泡沫の夢だ。
はじめから、疾うに解っていた。

目を醒ました向うには、恐らく
何一つとして持ち帰ることは出来ないだろう。

けれども、それでも。

置き去りにするには、余りにも愛惜しい欠片を
ほんのひと掬いだけでも、セロファンに包んで
記憶に留めて置くことが出来たなら。

そうして僕は思ったのだ。

既に喪った永遠でありながら、
これから先もずっと残り続けるこの刹那を。

アスファルトの下り坂と銀杏並木を、
夕明りに照らされた綿のような雲を、
神社の境内を、草木が微かに擦れる音を、
ホットココアとコーヒーを。

日溜りに小さく揺れる春紫苑を。
もしも、この手で描くことが出来たなら。
どれだけ素晴らしい事なのだろう、
どれだけ満たされる事なのだろう、

描きたい、描きたい、描きたい。
網膜にこびり付いたこの情景が褪せないうちに。
傍らに感じる温もりが冷めないうちに。
両手に掬った思い出が漏れ出さないうちに。

そうだ、僕はこの手で詩を書こう。
幾千の言の葉と、幾億の音符を費やして。
奏でる音によって、その面影を象ろう。

いつか寸分違わずに描き出す事が出来たなら、
嗚呼、その時にはきっともう思い残す事もない。

世界が溶け出す、全てが霧散する、
意識と身体が分かたれる、その刹那。
彼女の口元に浮かんでいたもの。

それは

小さいながらも確かに、微笑みのそれだった。

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