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(元)夫急死当日のことを記録するつもりが悲しくなった。でも彼のことを書いてる時は傍にいる気がする不思議

令和4年4月20日の夜夫が急死した。部屋で倒れており発見されたときには既に死後硬直が始まっていた。義父が救急車を呼んだ。救急車が到着してから「〇〇の心臓が動いてないんや。もう救急車に乗ってる」と私たちは知らされ、お風呂上がりだった私は髪がびしょ濡れのまんまスエット姿で救急車に飛び乗った。車内では救急隊は心臓マッサージをし続けていたし、死後硬直が始まていることをその時点で知らなかった私はさっき心臓が止まったのだと思っていたので、必死に夫の体をさすった。手の爪が真っ青なのと、足先が冷たいことが気になったけど、必死にさすり続けた。「パパ!パパー!パパ?!もう、パパ?!」と呼びつづけ、太ももやふくらはぎをさすって、足の裏を叩いたりもした。救命救急センターにつくと、コロナの関係で私は病院の外のパイプ椅子に座って待つように言われた。夫はカートにのって自動ドアの中に消えていった。それから私はガクガクと震えがとまらなくて実家の母に電話をした。が出ない。次に妹に電話したが出ない。3人妹がいて3人目でやっと繋がった。一番飛んでくるのが難しい遠くに住んでいる妹だ。
23時を過ぎていたのもあって小さい子供のいる妹はダルそうに「なぁに???」と出た。「〇〇君が、救急車で運ばれて。ほんで、ほんで・・・息してないねん。誰も電話でやんし。もうっ、どうしたええのよ!」過度な不安で私は半ギレだった。妹「わかった。お母さんにはこっちから連絡してみるから、落ち着きや。一回切るで」と。そのあと夫の一番の友達に電話した。もう何が何かわからず、どうしていいかもわからず、発狂寸前の状態で膝をガタガタ震わせて、意味の解らない状態にイライラソワソワしていた。10分ほどして小さなドアから呼ばれた。熱を測って消毒し名前を書いて待合室のようなところに通された。そこで5分ぐらい待ったのち処置室らしきドアから先生が出てきた。そして椅子に座る私に目線を合わせて何かを話し始めた。私は「生きているのか?死んでいるのか?」を早く教えてほしかったが、先生の話が回りくどくて何を話していたかあんまり覚えていない。「心臓が止まってから随分時間がっていて、ご主人にできる処置はなく・・・死亡の確認を取らせてもらうが、ご家族が揃ってからにしますか?」と聞かれたのは覚えている。「今で構いません」と答えると処置室に通された。夫は処置台の上に寝かされていた。さっきより冷たく固くなっていた。見た感じ処置された感じがしなかったので「何かしてくれたんですか?」と聞くと医師は「数値的にもう心臓が動くことはないのでね、あれこれするのはかわいそうでしょ?もう静かに寝かせてあげませんか?」みたいなことを言ってきて「旦那のことちゃんと診てくれたんですか?って聞いてるだけです。」とイライラしながら答えた。膝に力が入らなくて、旦那の手におでこをつけて嗚咽した。心臓がどきどきしていて現実なのか何なのか。まるでリレーで必死に走って転んでしまったときみたいに、脳みそがパニック状態だった。「コロナの関係で」とすぐに処置室から出された。しばらくしたら義父と子供たちがタクシーでやってきた。夫はもう死んでいる。なんて言おう、なんて伝えよう。入り口で検温や消毒をしてる3人を眺めながら深呼吸をした。まだ夫が死んでいないように冷静に・・・と。子供たちが近づいてきた。実は子供たちにどう伝えたのか覚えていない。記憶が飛んでいて全く思い出せないのだ。子供たちが泣いている姿は覚えている。義父には確か「さっき死亡確認しました」と伝えたきがする。義父は「え?」という顔で目を大きくして私の顔を覗き込んだ。そして結構な長さ待たされた後、再び4人で処置室に通された・・・
ああ辛い。今日はここまで。
さっきの事みたいにリアルに思い出す。でも何回も思い出すうちに記憶が書き換えられて実際とは違うことが書き足されそうでそれが嫌だ。実際にあったことだけを正確に記憶に留めておきたい。

この日(4月20日)の昼頃、私は仕事の途中で夫と待ち合わせて一緒に市役所に居た。子供たちに関するお金のことで別々の手続きだが一緒に連続してやったほうがスムーズだということがあり待ち合わせたのだ。私たちは婚姻届けも離婚届けもこの市役所で二人揃って一緒に出した。手続きを済ませ一緒に自転車で市役所を出発、夫は携帯の乗り換えをするといって近くのショッピングモールへ、私は職場へ。途中まで並走していたが目の前の青信号が点滅したので私はスピードを上げ、夫の気配を背中に感じながら「私仕事にもどるわーバイバ~イ!」と後ろに手を振った。「うん!バイバイ」夫の声がした。それが彼と過ごした最後だった。
その後、夕方仕事から帰宅すると息子がオムライスを作りたいというので、息子のオムライスなら夫も食べたいだろうと思い彼に電話をした。携帯乗り換えの件も聞きたかったのだが、電話には出なかった。それが19時頃。(トップ画像は夫が食べ損ねた息子作オムライス)
庭を挟んだ向こうにある旦那の部屋の電気がついてるのは見えていた。おるのになぁ。なにしてんのやろ??携帯乗り換えで疲れて寝てるんかな?とそんなに気にしなかった。実際よくお昼寝する人だったし、息子とも「パパ残念やな。せっかく誘ったろと思ったのになー」と話した。22時ごろいつもなら着信を見たら折り返してくれるのに電話がないのが気になった。新しい携帯を買ったら絶対に自慢しにくるのに変やなと思って「携帯変えたん?」とラインした。が既読にはならなかった。そして22時30分ごろ義父が「〇〇の心臓が動いていない」とやってきたのだ。(こうして冒頭に続く↑)

最後に彼としたのは子供のためのお金の手続きだった。しかも彼の方から(しなくても給付は受けられるが事務処理上タイムラグがでるので)しておいたほうがすぐに貰えて君も子供たちも助かるだろうと言われてした手続き。離婚直後、息子の骨折の退院にかかるガソリン代を請求してきたり、婚姻期間の子供手当を半分よこせと言ったり、彼はどうかしていた。発言はもはや父親でも私の知る夫でもなかった。が、ここ最近の彼は私の知ってる昔の優しい父親だった。私たちは離婚していた。けどとても仲のいい家族だった。離婚を後悔したことはない。離婚したからこそ再構築(まだスタートしたところだったが)できたのだと思っている。残念だけど人は失って初めて気づくことがある。離婚という夫婦の解散は私と夫に気づきをもたらした。物理的な距離は私たちを解放し、相手への束縛や依存や責任転嫁を手放させた。それぞれの経済的な独立は、再度私たちを自立させ、相手への遠慮と子供たちへの責任を自覚させた。相手のため息やイライラを目にせずに済むことで感じるストレスが減った。自分の時間と空間を遠慮なく確保できるようになった。こんなにしてやってるのに、こんなに我慢してるのにと思わずに済んだし、感謝を求めることもなくなった。どころか相手に感謝できるようになった。離婚して遠くに住んでいたらこうはならなかっただろう。隣に住んでいたからこそ、関わり合いの中でお互いの良さについて再確認できた気がしている。離婚した直後は私は夫を遠ざけていた。やり取りは事務的なことだけだったし、お金のことでもめたくないので極力一緒に行動しないようにしていた。(つまらないお金を請求されるとがっかりした気持ちになるから)いつからか家族でのお出かけは完全に割り勘!というルールができた。
近場ならガソリン代は請求してこない。私は時々彼を夕飯に招待し息子とお風呂に入ることを許した。それでウィンウィンだった。そのうち夫は夕飯に招待するとケーキやアイスを買ってくるようになった。私も休みの前なら「お泊りしていっていいよ」と言ったりした。夫は息子と一緒に寝ていた。家族でだけでなく二人で出かけることもちょこちょこ出てきた。はじめはカラオケだった。私はカラオケが大好きだがひとカラはできないので、断られるの覚悟で夫を誘ったのだ。そしたらオッケーしてくれた。それからは月に2回ぐらいカラオケに行きたくなったら手っ取り早く夫を誘った。先約が入ってる以外で断られたことは一度もない。運動不足だからとウォーキングも付き合ってくれたし、秋には紅葉が見たいというので(彼はカメラ趣味で写真を撮りたがって)二人で紅葉狩りに行った。私が部屋にグリーンを増やしたいと言ったら園芸センターにも連れて行ってくれた。お互いの予定については干渉しないようにしていたし、離婚当初は「昨日どこいってたの?」と聞いても「俺もいろいろあるねん」と言われていたが、最近ではこちらが聞きもしないのに「明日○○とご飯行くねん」と報告してきたり、カラオケに誘って「その日は無理やねん」と言った後「〇〇があって」と予定を教えてくれた。夏頃よく出かけていた彼に私が「もう彼女でもできた?」と聞いたら「そんなん答える義務もないけど・・・できてへんで」と答えた時があった。その時の私の心情に配慮して予定をあれこれ教えてくれてるのかな?と思ったりしていた。優しくて真面目な男なのだ。見た目はチャラチャラしてみえるが根は真面目で優しい人なのだ。人を必要以上に不安にさせないようにする人。遺品を整理していたら、私がお弁当とかお小遣いを渡すときに添えていた「いつもありがとう」「がんばってね」「応援してるよ」などと書いたメモが取ってあった。泣けた。そんなもん取っておくなよ。
元夫は亡くなった。しかも元夫のまま亡くなった。けどもう誰のものにもならない。彼はもう一生私と子供たちだけの「パパ」なのだ。あぁ会いたい。


おしまい

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