見出し画像

24歳、誕生日が特別じゃなくなってからが本番だ

24歳の誕生日を迎えた今日。朝起きると、兄と恩師と会社の社長と彼氏から誕生日おめでとうメッセージが届いていました。「おじさんばっかりだな」と思いながら、布団の中で感謝のお返事を書きつつ、いつからか自分の誕生日にそわそわすることもなくなったことを少し寂しく思っていました。

夕方になって仕事がひと段落すると、なんとなく誕生日らしいことがしたくなってケーキを買いに行こうかなあと母に声をかけました。
すると、
「あるよ、好きなお店のやつ買ってあるよ」
とキッチンに立ったまま母が言いました。
私はこの時点でとてもとても、嬉しい気持ちになったのですが、いい歳して誕生日を楽しみにしていたのも恥ずかしくて、「おでんとケーキ?組み合わせ変じゃない?」と母の手元に並ぶおでんセットを見ながら茶化しました。
「違う違う、おでんは明日の夜ね。食べたいって言ってたハンバーグ、もう準備してあるよ。内緒だったのに」
と笑いながら振り返る母。
私はこの時点で涙腺崩壊5秒前、目の前がにじむくらい涙が溜まっていました。

給食の前に誕生日の人として紹介されたり、誕生日プレゼントを学校で交換し合う文化があったりしたので、私はすっかり誕生日を面倒くさいものと記憶していたのですが、やはり覚えてもらえると嬉しいものですね。
病気をして、意識がおぼつかなかったおじいちゃんが私の名を呼んでくれた時のような嬉しさと感謝が混じった感動がありました。「あなたはあなたで、それを私はわかっている」という感じが、しがないサラリーマンの私には非常に響きました。

ある段階から、特別な人なんて誰もいなくて、いずれの人が死んでも別の誰かが加わって変わらずに社会は続いていくのだと実感を持って理解しはじめました。死にたいという気持ちを長い間消せずにいる私は、誰でも代替可能だということに希望を感じて生活していました。私が死んでしまっても大したことはないしその時はその時で気楽になれるな、と。
今も大方の考えは同じだと思います。けれども、100%すみからすみまで代替可能ではないのではないかと、最近は思います。似たような物語の形式でも、無数にあるバリエーションに魅了されるように、個別具体性はとても重要だと思うのです。

晩年の祖父の視力は良くはなかったと思います。認知症があったので具体的にどれくらい見えていたのかは判定できませんでした。記憶が入り乱れ、思い出の濁流の世界をふらふらと行き来していた祖父は、別の誰かを若い頃死別した恋人や、青年期の自分の娘、あるいは週一回来てくれる訪問看護師と間違えることはあっても、私のことだけは絶対に間違えませんでした。
おじいちゃんにたくさん可愛がられていたとはいえ、髪型や服の好みが激しく変わり、ましてや学生時代は親不孝で部屋にこもって勉強ばかりしていた私のことをなぜ判別できたのか、その理由は分かりません。
最後に祖父が私の名前を呼んでくれた時、私は確かに泣いていました。その時も誰にもみられぬよう、うれしさと寂しさと、懐かしさが混じった複雑な見えない心の代わりに、涙が込み上げました。

確かに誰かの代わりはいると思います。けれどもそれを言葉にするたびに、確かにこぼれ落ちる何かがあると思うのです。
100%代わりになれる者は広い意味ではいないのではないだろうか。では、何%なら変われるのか。そういったださい話では少しも面白い方向に想像が膨らまないのは言うまでありませんが、言葉にすればするほど謎が深まり、もやのような感情が残ります。
そういったことを考えながら今年も制作していけたらいいなと思っています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?