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詩を歌う

大学時代ラジオで犬養孝氏の万葉集の講義を聴いた。この放送で万葉の世界に誘われた人は多いのではないだろうか。私も犬養先生の節のついた歌の朗読、そして話しぶりに(勿論、内容にも)惹き付けられた。会社勤めとなって万葉集から遠ざかっていたが、2年ほど前、図書館でふとこの講座の内容を書き落とした書物に出会った。旧友に出会ったように非常に懐かしかった。そこで今度はYoutubeを検索すると、まさにそのラジオ講座の録音がアップロードされているではないか。その一つがここ。
犬養孝「万葉集~うたの心」1 (13'48")
(一応リンクを張っておくけれど、著作権の問題があれば消えるかも知れない。その場合は、「youtube 犬養孝」で検索してください。)

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも (志貴皇子)

この歌を題材にして犬養先生は、「うたは心の音楽」と説かれている。そう聞かされると、この歌も作られた当時、きっとある節で歌われたのだろうと想像する。先生の言われるように、歌自体に流れ、リズムがあるので、別に特別な節がなくても、やはり声を出して読まれたのだろうと思う。

現代の詩の鑑賞方法はどうだろう。詩は大抵紙の上に書かれ、紙の上で黙読されることが多いのではないだろうか。例えば宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」は、詩ではないかも知れないが、手帳に書いているとき、書きながら声を出して読んだのだろうか。読んだかもしれない、そうでないかもしれない。で、私たちはそれを普通目で読むだけだ。しかし、心のなかで、その詩に自分にとって理想的な声(調子)を附して、読んでいる。私は関西人なので、アナウンサーに「雨ニモ負ケズ」や万葉歌を標準語アクセントで読まれると、ちょっと違和感がある。自分が抱いていた調子と違うからだ。しかし、(その詩に合った)節をつけると違和感はなくなる。また、本当に心のこもった朗読には胸が打たれる。
長岡輝子さんの朗読(2'02")

詩というものは、本来歌われるべきものなのだろう。詩には形式が与えられ、形式が歌になる。少なくとも、古典的には歌と詩は一体であると思う。正信偈は唱えられ、コーランは歌われ、ホメーロスの叙事詩、アイヌの神謡は謡われる。

架空の世界でも詩は歌である。
J.R.R. Tolkien(指輪物語の作者)が創造したエルフの言葉、クェニャ語の詩Namárië (1'16")

(Ai, laurie lantar lassi surinen ... アィ、ラゥリエ ランタル ラッシ スーリネン
「嗚呼、黄金の葉は風に舞い散る」と云うような意味)
クェニャ語(Quenya)はフィンランド語の響きに、ラテン語風のアクセント位置を持っている。この朗読はイタリアの女性なのでイタリア語の響きがあるけれど、流れるような朗読で心地よく聞こえる。
(蛇足。フィンランド語といえば、民謡Ievan Polkkaを思い出した。
 ……口直しに吟詠「偶成」でもどうぞ…)

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