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謙虚な創造

今「ガウディとサグラダ・ファミリア展」と言うのが開催されているらしい。スペイン、バルセロナの未完の聖堂、サグラダ・ファミリアで有名なアントニ・ガウディ(Antoni Gaudí)の設計した建築…。
(名前をよく見るとGaudíの最後の“i”にアクセント符号がついている。つまり本場では最後の“dí”音節にアクセントを置いて発音する。)

りなるさんの紹介で知りました🙂

と言うことで、今回はガウディさんから想起された雑記です。(雑記なのでまとまりはありません。また引用多め。)

美と創造

そのポスターに、ガウディの言葉と思われる…
「人間は創造しない。人間は発見し、その発見から出発する」
と書かれている。こういう謙虚な態度は、
「自然はわたしの師だ」
というところから来ているのでしょう。

宮沢賢治も似たようなことを述べています。

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたしはそのとほり書いたまでです。

童話集「注文の多い料理店」の序 宮沢賢治

賢治の場合は、自然は「師」と言うよりも友人かもしれない。もらってきたものをその通り書いたというのですから、これもまた謙虚な態度です。

横道にそれるけれど、日本にガウディのような芸術家はいるのだろうか。建築家はよく知らないけれど、芸術家として個性の強さなら多分、岡本太郎が相当するかもしれない。もちろん芸術のタイプは全然違うだろう。「太陽の塔」や大壁画「明日の神話」をみて、皆さんはどう感じるでしょうか。ガウディと岡本太郎を比べること自体無茶なことだろうか、それとも、それも一興あるかもと言うだろうか。芸術に対する情熱はそれほど変わらないと思うけれども、感性についてはどうだろう。あるいは幻想芸術という視点からどうだろう。岡本太郎なら何ならピカソと比してもよいかもしれない🙂。しかしわたしには二人を比較できるほどの教養がないので皆さんにお任せます。(責任放棄😅)

冒頭に紹介したガウディ展公式サイトにこのように記されている。

ガウディの創造の源泉
ガウディの独創的な建築はどこから生まれてくるのでしょうか。「人間は創造しない。人間は発見し、その発見から出発する」とはガウディの言葉です。その言葉通り、ガウディは古今東西の建築や自然を丹念に研究することから革新的な造形の契機をつかんでいくのです。……(中略)……さらに「自然は私の師だ」と言うガウディは、徹底した自然観察から造形の原理を引き出し、有機的なフォルムの建築や什器をデザインする他、自然の中に潜む幾何学に注目し、それを建築造形へと応用する合理的精神の持ち主でもありました。

「ガウディとサグラダ・ファミリア展」公式サイト「見どころ」より

ガウディにとって創造という言葉が使えるのは自然(神?)であって人間ではないのだろう。人間はただ、この自然の中の法則や美を学び、そのハードウェアの枠組みの中でその応用〜造形という表現〜を探っているに過ぎない。しかし、その応用の可能性は無限であるけれども…。

謙虚な態度で美を探求する、いや探求するという思いもなく美を創作することもある。そこにはもう芸術家としての名前も必要なくなる。柳宗悦が提唱した民芸(民藝)がそれである。究極の謙虚さですね。

民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界。その価値を人々に紹介しようと、「民藝」という言葉を作ったのは1925年(大正14)のことであった。翌年には、民藝品の美しさを公に展示するための「日本民藝美術館設立趣旨」を発表。また、「民藝」の理論付けとして『工藝の道』(1928年刊)をあらわして、「工芸の美は健康の美である」、「用と美が結ばれるものが工芸である」、「器に見られる美は無心の美である」、「工芸の美は伝統の美である」と説き、民藝美論の骨子を集約した。

日本民藝協会「民藝運動の父、柳宗悦」
https://www.nihon-mingeikyoukai.jp/about/souetsu/

ところで「発見」と並んでよく使われる言葉に「発明」がある。しかし発明と発見は異るものなのだろうか。

発見・発明って言葉がある。発見は、何かを初めて見つけた、例えば、新種の生物を見つけた、とかの時に使う。発明は、何か新しいものを作った時に使われる、例えば、トランジスターを発明したとか。だから、一見違う概念と言える。でも、その概念をきちんと定義することができるだろうか。トランジスターを発明したと言っても、その原理はすでにあったものだ、なければ発明さえできない。基本原理を研究し追い求める道程(プロセス)のなかで応用の可能性を「見つけ」て、そして様々な技術を利用して「できた」ものだ。深い海底で何億年も生きていた生物を人が見つけたということも、潜水艦などの発明品や技術の発展の過程(プロセス)のなかで「生み出され」、「見つけ」られたものだ。

拙著note「存在すること − 意味」より

今日書いているこの記事自体、発見から出発したわたくしの人生という過程のなかで、見つけられ生み出された謙虚な創作に過ぎない。

■見出し画像の著作権
「Bernard Gagnon - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9029499による」


今日のおまけ

The Longing (Storm Seeker版)

英語歌詞はこちら


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