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幸福についての尺度 【短編小説】


窓から朝の光が差し込んでいる。その光で、僕は目を覚ました。長野へ来てから、自然光で目覚める、いかにも健康そうな生活を送っていた。それとは裏腹に、心は病み、僕と君は共依存で倒れそうだった。


できるだけSNSと離れた生活を送る。今はそうしよう。
僕と君の約束だった。スマートオフォンの電池は切れ、数日が経過していた。
(そろそろ充電するか・・・。)
僕はベッドから起きると、スマートフォンに充電器を差し込んだ。
別に何も急ぐことはないのだ。ゆっくり充電が終わるのを待つ間に、歯を磨いて朝食の準備でもしよう、と僕は思った。
米は昨日の夜タイマーをかけたから炊き上がっているはずだ。久しぶりに洋食にしようか迷ったが、和食のメニューを揃えることにした。
(そう言えば、朝ご飯は必ず和食だったな・・・。)
僕は、一年前の今頃、付き合っていった彼女のことを思い出した。彼女は、朝は頑として和食を譲らなかった、淑やかな女性だった。煌びやかなことは嫌い、ただ慎ましく、尽くしてくれる女性だった。彼女の作る朝食は豪華ではないがとても美味しかったのを覚えている。
(何で急にこんなこと、思い出してるんだ、僕は。)
僕はキッチンに向かうと、君の分と二人分、朝食を作り始めた。


卵は、少し甘めの卵焼きにする。これも彼女の教えてくれたレシピだ。上品な甘さのそれは、僕の大好物で、作り方を教えて貰い、ようやく作れるようになったのを覚えている。
『うん、美味しい。今日は合格ね。』
初めて認めてもらった時、彼女は何故か悲しそうにそれを褒めた。僕にはよく意味がわからなかったが、考え出しても答えが出ず、そっと胸にしまったのを思い出す。
冷蔵庫を覗いた。豆腐とわかめで味噌汁を作ることにする。後は焼き魚にでもしよう。納豆もあった方が君は喜ぶだろうか。丁度二パック残っているのを確認する。今日は買い物に行かなくてはダメかな、と僕は思った。
グリルに鮭の切り身を二つ入れると、豆腐を賽の目に、わかめを一口大に切った。味噌は長野に来てから信州味噌を使っていた。お湯を沸かし、出汁の素、豆腐とわかめを入れ、一煮立ち。味噌を溶かすと、味噌汁が完成する。僕はまた彼女のことを思い出す。彼女は、味噌汁はかならず出汁をきちんとひいて作る女性だった。丁寧な手さばきで作られる味噌汁も、とても美味しかったのを覚えている。
グリルを覗くと、丁度良く鮭が焼き上がっている。火を止め、皿に盛る。味噌汁は君を起こしてからにしよう。
(昨日は珍しく早くによく寝ていたけど・・・。)
出来るだけ早寝早起きをするのも約束をした。寝付きの悪い君は、部屋をそっと覗きに行くと苦しそうに動き回っていることも多かったが、昨日は夜中に部屋を覗いた際、穏やかに眠っていた。
(このまま君の心が穏やかになっていけばいい。今はそれでいい。)
自分のことを棚に上げ、僕は君の心配をした。僕も相当参っているのは間違いないが、自分の心の状態が君の心の状態より悪くないことぐらいはわかる。


時計の針は八時半を指している。そろそろ君を起こそうか、と思っていると、トントンと階段を降りる音がした。足音が近づいてくる。
「・・・。」
君は、リビングに入ってくると、キョロキョロと辺りを見回した。僕が起きているのがわかっているのだ。
「おはよう。よく眠れた?」
僕が声をかけると、君が僕に近づいてくる。
「おはよう。昨日は、珍しく、少し寝た。起きられた。」
「そう、良かった。朝ご飯、用意できてるけど?食べる?」
「うん。」
「じゃあ歯磨きでもして待ってて。」
味噌汁を火にかけ、温める。玄米を茶碗によそった。納豆はパックのままだ。彼女は必ず小綺麗な小鉢に出してくれたっけ。懐かしい。準備が整うと、君が洗面所から戻ってきた。
「支度できたよ。食べよう。」
「うん。いただきます。」
「いただきます。」
「いつにも増して、完璧だね。」
「それほどでも。」
僕らは無言で朝食を口にした。話すことはない。全てわかっている、特に口に出さずとも。
そしてほぼ同時に食事を終えた。食事のタイミングはいつもほぼ同じだった・・・無理に合わせることなく。僕は食事のペースが早く、いつも彼女のゆっくりとしたペースに合わせて食事をしていたな、と思った。君とは特に意識しなくても同じペースだ。お互い疲れない関係だ。
「俺が食器洗うよ。」
「ん?どうした?」
「たまには働かないと、ね。今日は少し気分がいいんだ。」
「じゃあお願いしようかな。」
君がキッチンに立つ姿は珍しい。何となく落ち着かない。皿を割って怪我をしないだろうか、そんな心配をしてしまうのは少し過保護だろうかと、僕はくすりと笑った。


そろそろスマートフォンの充電が完了している頃だろう。僕は確認し、久しぶりに電源を入れた。電源が入ったスマートフォンが着信音でやかましい。少しうんざりしながらメールを確認する。その中の一通に目がとまった。
何ヶ月振りだろう、今朝思い出した、昨年末別れた彼女からのメールだった。恐る恐るそれを開いてみる。
『久しぶり。元気?今東京に居るの?』
僕は返信をするか迷ったが、誠意を持って付き合っていた彼女に失礼な態度は取りたくなかった。
『元気だよ。そっちは?今は訳あって長野県にいるよ。』
すると、数分でメールが返ってきた。
『長野県?どうしてまた?彼女できた?』
短いメールだ。彼女ができて一緒に長野県に住んでいると思われたのだろうか?
『今は友達と一緒に住んでるよ。彼女は今いない。』
しばらく、メールが返って来なかった。すると、君の声がしたので、リビングに戻る。
「ちょっとふらっと読書に行ってくる。沢の方で。天気がいいから。」
「わかった。」
一冊の本を持ちふらふらと外へ出て行く君。
「あんまり遠くへ行くなよ。」
僕は声をかけた。
部屋に戻ると、メールが一通届いていた。先程やり取りしていた別れた彼女からだった。


『長野なら、車出すから、久しぶりに会わない?』


次の土曜、僕と君は、松本駅近くにいた。
僕が、彼女の提案を受け入れたのだ。
『友達も、一緒でいい?』
その提案を、彼女が受け入れてくれたから。

駅近くの駐車場に、車を止める。迎えに行く、という彼女の申し出は遠慮した。山奥で、車でも危ないような、わかりにくい所だ。松本駅で会おうと言う提案を、彼女は承諾してくれた。


待ち合わせの、駅前広場で待つ。待ち合わせした、午後二時近く。
「ごめん、待った?」
呼ぶ声が聞こえた。
手を振って、笑顔でこちらに走ってくる。
「久しぶり!彼がお友達?」
「初めまして。」
「初めまして。」
「こんなところまで遙々、悪かったね。今ちょっと、遠出ができなくて。」
「いいのよ。私が会いたいって言ったんだから。どっか、カフェかなんかある?」
「スタバでいい?」
「スタバ、あるんだ。案外都会じゃない。」
「松本はね。家の方は、田舎で。虫ばっかり出るよ。」
「虫は遠慮するわ。良かった、家に訪ねて行かなくて。」
僕たちは、駅ビルのスターバックスへと入った。
「アイスコーヒーでいい?おごるよ。来て貰ったし。」
「あら、ありがとう。」
「一緒に席で待ってて。」
「あ、うん。」
「あの奥の席にいるわ。行きましょ。」
順番を待って、僕はアイスコーヒーのトールサイズを三つオーダーした。
「こちらでご用意いたしますのでお待ちください。」
「はい。」
手際よくトレーの上に準備されたコーヒーを運ぶ。


席に向かうと、彼女に何か言われたのか、君がたじたじになっている。
「どうしたの?」
「ううん。何でも無いわ。」
「はい、コーヒー。」
「ありがとう。」
「どうぞ。」
僕は君にもコーヒーを手渡す。
「うん、ありがとう。」
席につくと、彼女はまじまじと僕を見た。
「な、何?」
「何か、変わったわね。何か大人びた。」
「それはね、最後に会って半年以上経つからね。でも、逆に全然変わらないように見える。」
「変わらないわよ、私は。私のまま。」
「何で、僕にまた会おうと?」
「お節介よ、お節介。ちょっと心配だったの。訳も言わず、別れたから。」
「彼、すごい引きずってて。」
「ちょ、ちょっと。」
「やっぱり。」
「指輪も全然、取らなくて。」
「今は二人でお揃いの指輪、してるのね。」
「あっ、これはちょっと、訳ありで。」
「えー、訳が聞きたいわね。」
君が慌てて言うと、彼女が突っ込んだ。
「彼が作ってくれたんだ。彼のは、僕が作った。ちょっと歪だけど。」
「ふうん。彼、貴方が守ってるそうだけど。」
「えっ。何?」
「貴方が今、完璧に守ってくれてるって。だから一緒に居るって。さっき、ちょっと話して。」

「完璧に、守ってる?」

「彼のことが、本気で好きなのね?」
「好き?そんなことはないよ。戦友、みたいなものだけど。」

「いいえ。貴方は、本気の人の前だと、完璧になろうとする。私のこと、本気だったでしょ?」
「それは、確かに。本気だったけど。」
「私の前で、貴方は常にパーフェクトだった。」


しばしの沈黙が訪れた。確かに、彼女の前でも、君の前でも、僕は常に完璧な存在であろうとした。それは間違いない。


「私が、貴方と、別れた訳、わかる?」
「・・・いや、正直、何がダメだったのか、わからないでいる。」


「私ね・・・ダメな人じゃないとダメなの。」


そんな・・・確かに、僕は、彼女の為に、常に完璧であろうとした。それが、彼女に愛想をつかされた理由などと、想像できただろうか。


あの時、完璧に作った卵焼きを、悲しそうに褒めたのは、そう言うことだったのか。


「僕はダメな男だよ・・・大切な人一人守れない。君のことも、結果的に守れなかった。」
「いいえ、貴方は私にとって、理想ではこの上ない人だったわよ。彼氏力は、百パーだった。でも、私にはダメだった。完璧すぎて。」

アイスコーヒーを飲み干し一息吐いた彼女は、続けた。

「私ね、彼ができたの。水商売で、何人もの女と関係を持ってるような、ダメな男よ。でもいいの。未来に幸せはなくとも、少なくとも今は幸せだって思う。彼を守らなきゃって、思うもの。」

僕は言葉を無くした。


「ありがとう。今日は会ってくれて。私、最後にちゃんと言いたかったの。お別れを。」
「・・・。」
「ねえ、彼は完璧だけど、完全じゃないの。それだけは分かって。彼をよろしく、お願いします。」
「あ・・・はい。」
「貴方のこと、好きだったわ。でも、もう会わない。さようなら。じゃ、私、行くね。コーヒーごちそうさま。」
「・・・待って!」
「ん?」
「色々と、世話になった。ありがとう、別れた理由を伝えに来てくれて。ずっと、引っかかってた。」
「そうだと思った。じゃあね。」
「気をつけて、帰れよ。」
「ありがとう。さようなら、私のスパダリ。」

そう言い残し、彼女は去って行った。そこには、僕と君が二人、残された。

「そっくりだね、彼女に。」
「どうして?」
不思議そうに、僕はたずねる。
「俺みたいなダメな人じゃないと、ダメになっちゃった。」
「何で?」
「俺、ダメな男の、典型じゃん。」
「ダメな男なんかじゃない。」
「ダメだよ。水商売で、何人もの男と関係を持ってるような、ダメな男だよ。」
「それは仕事で、遊びでやってるわけじゃないだろ?」
「そうかな。」
「そうだよ。」
「俺は、完璧なのが、好きだよ。完璧な人に、守ってもらいたいと思うから。彼女とは、違うよ。」
「僕は、完璧かな?」
「少なくとも、俺の前では、完璧だよ。」
「彼女も言ったろ?僕は完全じゃないんだ。」
「・・・ごめん。弱くてもいい。脆くてもいい。そんな君も、俺は知ってる。でも、俺の前では完璧であってよ。今度は俺のスパダリで居てよ。彼女さんから、託されたからさ。いつでも俺は側で在り続けるよ。」
「・・・ありがとう。」
「帰ろう、あんまり留守にすると虫が喜んじゃう。」
「虫は、勘弁。」
僕らは笑い合う。


今日は、忘れられない日になったなと、僕は思う。
その瞬間、アイスコーヒーの、最後の氷が、溶けて消えた。

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