本を読む、音を聴くー未完成3

坂口恭平さんの独立国家の作り方を引用します。

創造とは疑問を問いにすること というところで、大事なことは、何かに疑問を持ったかということだ。それがあれば生き延びられる。

続く 死ねない環境をつくる というところで、それでも見つけろ。納得するな。問いに結びつけろ、と。

保坂和志さんは、「三十歳までなんか生きるな」と思っていた、という本の前書きで、「書く」という行為には、対象を理解しようという力学のようなものが避けがたく潜んでいるのだが、その力学に飲み込まれずにその向こうにあるわからないことを出して、「考える」行為に踏み止まること。それが私にとっての「書く」ことだ。わかったと思ったら「考える」という行為はそこで終わってしまう。と書きます。

僕には坂口さんと保坂さんはまるで同じことを語っているように思います。

今日も引用を多くしましょう。それが作家の意図するところかどうかはわかりません。というより一冊の本のそれもほんの少しだけを切り取って引用する行為自体、誤読の可能性があることをまず書いておきます。

保坂和志さんの、小説、世界の奏でる音楽という本の、5 ここにある小説の希望から。

小説は「何かを書く」という最も単純な約束事にのって書かれている。その何かが書く以前にしっかり決まっていれば、作者は確定した事実のようにそれを書く。

例えば僕はDJをしています。例えばライブをするミュージシャンの前に、ライブハウスの会場からライブが始まるまでの1時間と、ライブが終わってからの数時間。ときには一人で2時間やときには6時間のロングセット。あらかじめセットリストを組んでいた時期が一瞬だけあります。数回。だけれど、DJを現場でやるにあたって、僕にはセットリストがある段階で不要になりました。むしろ必要になったのは、CDでDJをしているときにはCD、レコードでDJをするようになってからはレコードの、量です。同時にその量も、僕はクラシック、現代音楽以外のクラシックはCD、レコードを持っていませんが、メインのブルースからジャズ、ファンク、ロックにクラブミュージック(主にテクノやハウス、アンビエント、ダウンテンポにヒップホップも少々)、スカやロックステディ、レゲエにダブ、アフリカの音楽…ショーロにはじまるブラジル音楽、サルサという大雑把なくくりのワールドミュージックを、一つのイベントに多いときは1000枚、少なくとも200枚のレコードとCDを持っていきます。それはその場の雰囲気に合わせて、セレクトのためにバンドのリハーサルから現場にいて、最初の1曲をイベントオープンの10分前にはかけ始めます。お客さんはまだいません。そしてライブが始まるまで、ある程度の知識と勘で、その場の雰囲気に合わせて曲はきっちりイントロからアウトロまでかけますが、セレクトはどんどんと変わっていきます。ブルースのイベントでも、必要とあらば、ロックをかけ、ファンクをかけ、テディ・バンをかけたらアーネスト・ラングリンをかけるといった風に、あるいはブルースでもカントリーブルースをたっぷりかける時もあれば、ジャイヴをかける時もあります。その日の雰囲気で、曲はどんどんと変わっていきます。雰囲気、といっても、お客さんの顔はもちろんですが、もっとフロアの空(くう)に音を投げていきます。そしてそれが成功しているかどうかは別にして、予めきっちりと決めておいたセットリストをかけていくよりは、僕にとっては即興でかける音を変えていくほうが楽しい。


そして今僕が書き始めているこのnoteでも、実はオチを決めないほうが書くこと自体楽しく、自分の思ってみない方向へと進んでいきます。マガジンのなかの小説でも、早くいま・現在にたどり着くための鍛錬をしているのかもしれません。いや、この文章自体が。焦ってはいません。でも、確かに1度だけ、完璧なDJをしたことがあります。少なくとも自分の中では、そうやって即興で1曲目を決めて初めて、最後の1曲をかけるまで、ミスもなく、美しいDJをしました。それはそれで良い記憶です。でも、それは全く同じセレクトをしても、場所、お客さん、季節や時間が同じでも、できないのです。一回性。

実は僕は本を読むとき、最初から最後の頁まで読み通すのが苦手です。あるいは映画も然り、音楽でさえ。苦手とはいえ、入っていける時もあれば、途中で断念する時もある。それはこちらの体調に大きく拠るのだと思いますが、だから特にいまは買っても、ぱらっと一通り目を通して、気になった場所の端を折っては置いておき、ある瞬間にまた手を伸ばし、その瞬間にそれまで読んでいた場所とは違う、読み飛ばしていたはずの言葉やフレーズや段落が、突如として目の前に現れてくるような、そんな本をいまは、読んでいます。あるいは突如として、それまで難しく読んでいてわからなかった部分が、ああこういう意味なのかな?と気付く発見もあります。もしかしたら、起承転結のある物語は書けないし、読めないかもしれません。それでいいのだと思います。ただ、一つだけ書きたいものがあるとしたら、意識の変化そのものを書きたい。いま浮かんだのはそういうことばでした。変化していく意識。それは日常生活を送るなかでのおはなしかもしれません。書き始めたDJについての私小説も結論はまったく見えません。書きたいことより、書き連なっていくうちに出てくることば。例えばそれはそもそも生活のひとつひとつが即興だから、という理由もあります。それだけではないとも思うのだけれど。散漫になってしまいました。

本来引きたいと思っていた引用文もここには置いておきます。

坂口恭平さんの独立国家の作り方から。

やりたいことは無視して、自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。

あるいは保坂和志さんの、小説、世界の奏でる音楽から。

私たちは「自分自身による以外には、世界への通路を持っていない」にもかかわらず、自分自身をを世界への通路として使うことの難しさを書き手として痛感するような文章を書くこと。

まとまりを欠いた、この文章を一旦、閉じて、少し考えてみます。

普段から考えていることしか咄嗟に口に、手に、ことばがでないとしたら。もちろんそれは大前提です。だけれど、昨日不意に呟いたことばを。

ひとは考えていることではなく、ことばによって引っ張られる。

その意味をもう一度、考えながら、この散漫な文章を一度、区切ります。

読んでいただいてありがとうございました。


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