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今、扉の前。

重厚な鉄の扉の前に居る、まだ開いていない扉から圧力を感じる、この扉を開けたら何かが変わる気がしてノブに手を掛ける、すぐ鍵がかかっていることに気が付く、まだ開かない扉に「今じゃないよ」と言われた気がしてノックをすることも億劫にその場を立ち去る。

僕は珈琲が嫌いな喫茶店の店員、珈琲が嫌いな事に必要なら理由も並べるが確固として思うのが顔が歪むほどに苦いからに限る、それでも上司は「お客さんに出すものだからしっかり作れ!」と珈琲の淹れ方を教えてくれた、毎日淹れては上司に飲んでもらう珈琲に少しの指摘を加えられる「薄い」を言われすぎた時、上司の珈琲と比べても何が違うのかもわからなかった、淹れ方も真似をして再現するように珈琲を淹れてるのにそれを「違う!」と一蹴される、溜まりきったフラストレーションはまた段々と珈琲から好きを遠ざけていく。
毎日嫌いなものを一口、苦さに慣れ始めた時、上司は僕の珈琲を飲まなくなった。
『こんなのでいいのかな』
その不安を背負いながらまた珈琲を一口だけ飲んでわからないを繰り返していた、教えられた手法がハンドドリップひとつでしかも上司のやり方しかわからなくて、それがあってないんじゃないかと考えていた、お客さんには「美味しいよ」と言われさらに正しさがわからなくなっていく、でもお客さんから言われれば「それでいいのかも」と自分の毎日に妥協を置いた、それは自分の中でもふわふわした疑問と一緒に暮らしてるようにもやもやした不安は流れていく代わり映えしない同じ日々と共生していた。

ある日の事、カウンターに座る若い男の人と目があった、
「勝手に見学していました、ドリップお上手ですね」
「はぁ、ありがとうございます…?」
(上手?…喜んでいいのかな…?)
「私こういうものです」
渡された名刺には聞いたことのある珈琲屋さんの名前があった。
(まじすか…?)
「急に伺ってすいません、よかったらお話を聞いていただけませんか?」
話はこうだ、その人が会社で行う珈琲のセミナーにきてくれる人を集めていてそのお話をもってきてくれたのだ。僕にとって願ってもない話だった、珈琲の本や動画は見て勉強をしたつもりであったが実際に自分を測る機会が欲しいと常に思っていたのだ。

「よろしくお願いします。」
そう返事をした。

後日そのセミナーは開かれて、二部構成で一部は僕の他に2人と二部では合計で5人参加していた、通しで参加していたのは僕ともう一人だった、セミナーの内容というのは珈琲の基礎知識を学びながらカッピングといわれる珈琲豆の状態を知るという体験だった、わからないながらにわかろうと耳で聞いて香りを嗅いで舌を伝う珈琲によって違う部分を探った、それでも何かを掴んだかと言われると、自信が全くない。するとセミナーに通しで参加していた男の人が優しく声をかけてくれた、

「僕の知り合いに珈琲屋さんをやっている子がいるから興味があったら行ってみてよ」
聞くと週に一回、それも夜にしかやっていないお店だという。
限定的な営業にインスタグラムの写真のかっこよさが胸に刺さった。だからこの時の返事は「行きたいです!」だった。

珈琲屋さんの場所が繁華街という事もあって、あまりそういった場所に出向かない自分の性格が不幸した、いつ行こうか悩みながら月曜の夜は過ぎていく、普段通り生きていく中で沢山の扉とすれ違う、玄関を開けて職場に向かうまでもそれはもう沢山、でも興味があっても開こうとは思わない、変わらず職場の扉を開けて、終わったら帰って玄関を開くだけ。セミナーでお話してくれた人の言葉は珈琲屋さんへの鍵だった、手に持った鍵を見つめて、開けれるかもしれない扉をまた通りすぎる。生活なんてそんなものの繰り返しで何も変わらないというより何も変えようとせずいつもの扉しかくぐらないからなんだと。

その日は嫌なことがあった、歩いて帰っているとき鼻を掠めた珈琲の香り、僕は今、重厚な鉄の扉の前に立っていた。

(珈琲なんて…)

そんな事を思いながら手の甲で扉を叩いた、
「…はい」
中からスーツを着た雰囲気のある男の人が出てきた
「…当店はお酒は出してませんよ」
「は、はい、存じてます」
バーや高いレストランのようなそんな品格を感じて気圧される、もしかして僕は場違いなのではなんて思っていた。
「…どうぞ」
中に案内されるとカウンターだけの照明も暗くBGMもしっとりとゆっくりなまさに大人なお店だった、やはり緊張で頭が白くなる、
「ご注文は?」
メニューがなく、まだ雰囲気に飲まれている僕は
「何がありますか?」
と小さな声で聞いた、
「うちは珈琲だけですから、苦い系、酸味系、中間ってとこです」
困った、珈琲を教わるなかで最初に飲もうと選択したのは説明の文に「甘い」と表記されているものだった、蓋を開けてみると甘いと称された珈琲はとても苦くて説明の中の言葉を鵜呑みにしては駄目だと初めの頃に思った、だからこの3択に意味はあるのかとまた思考が止まる、何もわからない僕がだした答えは
「中間をお願いします」
「わかりました」
店主はステレンスの筒から珈琲豆を計量しミルにいれて豆を挽く、店はさほど広くなく香りが店内に強く充満した、僕がいつもミルで挽くときはこうはならない、業務用の換気扇が回って天井も広くキッチンからも別の匂いがして珈琲の香りを丹念に集中することができてなかったのだ、挽いた珈琲をもってきてくれた、

「香りをどうぞ。」
「あ、ありがとうございます」

フィルターに入った粉を手にもって、今からこれを飲むんだ、としっかり感じながら、鼻を近付ける、珈琲なんてわからない、そう思っていたけど、こんな体験がいつもの珈琲と違うことくらいわかる、体が絆されるように珈琲のアロマに癒される、先ほどとは意味合いの違う『今からこれを飲めるんだ』と心が喜んでいた。

フィルターを店主に戻して、店主は珈琲を淹れ始める。
不思議な体験をしていることに、隔離された世界にいることに、僕はまだ気付いていなかった、珈琲に湯を落とす、そんなことは僕もやってきた、店主の注ぐ湯は1滴1滴、その1滴が注がれる事で粉の表面に溜まったお湯は息をするように膨らみを見せる、時間がとまったように感じる中でお湯だけが滴で注がれていく、魅了されるなかで思考がとにかく走った、『何してるの?』『1滴ずつで作る…?』『え、濃そう』『苦いの苦手なのに』『まだここにくるの早かったかな』『でも全然目が離せない』。
丁寧に創られている珈琲の前で、過ぎ去った時間は沢山あったが、体感にして1分もないくらいで珈琲は完成した。

「すいません、お待たせして」
「い、いえ、そんなに待った感じがしてないです」
「…それはよかった」

珈琲は有名な陶磁器のカップに注がれた、注がれた珈琲の上の泡を匙で救い目の前に置いてくれた、僕はしていた指輪を外してカップを覗いた、綺麗な真っ黒、取っ手に触れたとき静かに珈琲の中で波紋が揺れた、また広く優しい香りが包む、その時僕は「飲めなかったらどうしよう」なんて気持ちが少しも無かった。

一口目でわかる、真物。

珈琲の嫌いな口に残る苦さと眉間に皺が寄るえぐさ、それというのが全く無い、強く苦味はあるのだが喉を通りながらスッとどこかに消えていく、それよりも香りに味覚が全部持ってかれて口の中から嗅覚の通りまで全部が心地がいい、

「どうですか?」
「あ、あの、僕も珈琲屋で働いてるんです、でもこんなの飲んだこと無いです、とても美味しいです」

少しの談笑をした、この珈琲を知りたいと思った、本や動画で知るレシピなんかに「珈琲」はいなくて、香りも味もしないのにわかった気でいるのは未熟そのものだった、もっと深く知りたくなって自分の店に戻って朝一で換気扇もつけずに香りを知った、ハンドドリップのなかにも色んなやり方があるのも知った、試行錯誤を繰り返して、初めて知った珈琲を何度も反復して気付いたら珈琲を好きになっていた。

あの頃、扉を開く選択をした。

慣れ親しんだ扉の往復だけが僕の選択、嫌いだと遠ざけていた珈琲がくれた僕の価値、今僕は珈琲屋さんにいる。
沢山の鍵を貰った、僕の選択はまだ扉の向こう側、もしも鍵を失くしてしまったらその扉はずっと開かないかもしれない、だから失くさないように持っている。

まだ僕は色んな扉を通りすぎてる、少し珈琲の匂いでもしたら開けてみようかな。


#あの選択をしたから

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