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その敏感さがわたしは好きだよ

「あなたはとても敏感で繊細な心をもっています。心が疲れやすいと感じてしまうことがあるでしょう。休日には仲のいい友人と動物園や公園に出かけたりして心のリフレッシュをするのがいいでしょう。」
わたしの通っていた公立中学校では毎年4月にクレペリン検査を行なっていた。クレペリン検査とは、用紙いっぱいに羅列されている数字を制限時間内にひたすら足し算していくという地味かつ疲れる作業をすることで、その答案用紙からその人の性格を分析するテストだ。
その結果は、5月の家庭訪問の際に担任の先生から結果を踏まえた話を少しされながら手渡された。
数字を計算するだけの作業でわたしのことが分かってたまるか、と思っていたけど、このクレペリン検査の結果は本当によく当たる。もしかして、スパイがいて常にわたしの行動を見てるんじゃないのかって思うくらいに見透かされている。しかも、友達みんな一人一人違うことが書かれていたから、多分用意されているパターンは何十種類もあるんだろう。
でもこのクレペリン検査、実はめちゃくちゃ毒舌かつストレートな物言いで心にナイフを刺してくる。中学一年生の時のクレペリン検査の結果は散々で、「あなたはとても内向的でネガティブに物事を考えてしまうことがあります。人付き合いや友人を作るのは得意な方ではないでしょう。」って書かれているのを見たとき、いや、当たってるけど、当たってるけども、家庭訪問でこれを親に見せられる子供相手にそこまで書かなくてよくない?って、絶対クレペリン検査作ってる人とは友達にはならないわって思った。今のわたしだったらそうやってはっきり言ってくる人は清々しくて好きだから是非友達になりたいんだけど、それにしてもクレペリンちゃん絶対毒舌でしょ。

 だいぶ話が逸れたけど、このクレペリン検査には定型文がある。
そう知ったのは、3年間全く同じ結果が記入されていたからだ。それが冒頭に書いた文章。
わたしの心は敏感で繊細らしい。
そういえば、小さい時から親にも先生にも言われていた。「あなたは考えすぎなのよ」とか「繊細すぎるからすぐ傷つく」とか。
でも、いつだってそれを言われる時は、わたしがすぐに泣いたり落ちこんだりする姿にイライラした時で、マイナスな意味だ。だから、繊細というのはずっと克服しなきゃいけない弱点だと思っていた。
心が敏感だというのは、例えば、朝起きた瞬間、真っ暗な部屋の中で締め切ったカーテンの向こうの天気が分かるようなものだ。何となく気圧の重さだったり、空気の匂いや質感で空模様が分かってしまう。しかも、その天気にやたら心の機嫌が連動しやすい。雨でどんよりとした天気の日には何となく身体がいつもの2倍くらいの重さに感じるし、朝の身支度に流す選曲は爽やかな曲よりも重くて激しい曲を選びたくなる。
窓の外の天気と同じように、誰かの心の様子も何となく分かってしまう。はっきりと色で見えるわけでもないけど、その人の周りに漂うオーラの軽さや重さだったり、目の曇り具合、微妙な表情の変化だったり、息遣いや所作の違いで、その人がどんな気分なのかが何となく分かる。
怒っている時や機嫌が悪い時は顕著だけど、体調が少し悪いのを隠していたりちょっとした心配事を抱えている時も、何となく察するのだ。
誰かが近くで怒られてると、自分が怒られてる気分になるし、誰かが恥ずかしい思いをするとその人以上に恥ずかしくなって目を覆いたくなる。
悲しい話を聞いたり読んだりするとそれが頭から離れなくなってしばらく引きずってしまう。

 しかも、それは自分の心でも同じなのだ。
自分の中の些細な気付いて、変化に影響されてしまう。あ、今日は何となく体調が悪くなる日だなと思ったらお腹が痛くなるし、不安やストレスはすぐに胃にくる。誰かの態度がちょっと冷たく感じただけで、嫌われたのかなとか何か悪いことをしたのかなってついつい心配になることがある。
自分のコンディションはミリ単位でコントロールをしている気分だ。
そのコントロールが上手くいかない日が続くとだんだん気持ちが沈みやすくなってきて、普段なら平気なはずのほんとに些細な失敗や嫌なことで泣きたくなる。
だから、心が繊細だと打たれ弱くて損だから、強くなりなさいと言われ続けたんだ。

「あの子はメンタルが強い」と言われている人のタイプはおよそ2種類だと思う。本当は傷付いたりしているけどそれをうまく隠せる人、もう一方は、いい意味で感情が鈍い人。
わたしは後者になりたかった。
誰かの表情や言葉の裏に隠れた本音や空気の意味を考えたり、感じ取れなくて済むのなら無意味に傷つかなくてすむ。周りの誰かの暗いオーラが見えないのならそれに取り込まれなくてすむ。世の中には、知らない方が幸せなことが溢れているんだ。
でも後者にはなりきれないわたしは「メンタルが強い人」になるために、感情をグレーにすることを覚えた。
そのグレーの状態のことを、白でもなく黒でもない、「ニュートラルモード」と呼んでいる。
コップの水が大きく左側から漏れそうになったら、急いで右側に傾けて、しれっとした顔で水平に保つことをイメージしながら、何を言われても興味ないふりをする。
これがだいぶ板についたおかげで、ある程度ハッピーに生きられるし、昔みたいにめちゃくちゃ病むことは無くなった。
とにかくメンタルが強くなきゃ生き残れないと言われているストレス社会に、「そう言えば、あの人もこれを食べてたなぁ。最近ストレス溜まってるのかな…大丈夫かな…」って思いつつも自分もGABAのチョコレートを頬張りながら闘っている気になる。GABAのチョコレートは美味しいだけでちっともわたしのぐるぐる回る思考を止めてくれないからついつい食べ過ぎちゃうんだけど。

 自分がHSPなのだと知ったのは最近だ。
HSPとは簡単に言うと、人一倍繊細さをもっているという性質のことだ。それゆえ大きな音が苦手だったり刺激的なものが苦手だったり、周りの環境の変化に心がついていけないこともある。些細なことが気になって生き辛いと感じてしまう人もいる。でも、その分ほとんどの人が気付かないような周りの些細な変化に気付けたり、味覚や聴覚が他の人よりも優れているため芸術家にはHSPの人が多いと言われている。
そんな心の敏感さに名前がついたのはいつからなんだろうか。
そもそも、HSPというれっきとした名前と症例があることも、わたしみたいに心が敏感だったり繊細ゆえで悩む人もかなり多いことも知らなかった。
しかも、特に珍しいわけでもなく日本人の3割程度はHSPらしい。
なんだ。心が敏感で繊細なことって、わたしが変なんじゃなくて、普通なんじゃん。悪いことでもないし特別治さなきゃいけないことでもないんじゃん。
ずっとコンプレックスだと信じ込んでいたことに名前があることに気が付いたとき、すごく安心した。これって、心が弱いんじゃなくて、性格のひとつなんだって。

  わたしは自分の心が繊細で敏感に生まれてきたこと、今ではちょっと嬉しい。
だって、悩み事がなさそうに見える人の笑顔の下にも時々、不安や悲しみが見えることがある。いつも笑顔の人だって、毎日変わらないように見える笑顔だけど、創り笑顔を貼りつけてる日だってある。
誰かのそんな日に気付けるからだ。
何かをあげるとか声をかけるとか、特別なことは何もできないし、あえてしないかもしれないけど、気持ちを汲んで優しくそっとすることはできる。
あと、「エモい」が言いたくなくなる。多分、エモいエモい言う人だって心が敏感な人なんだと思うんだけど、夕焼けとか工場夜景とか、恋人が残していったタバコとかあの人が好きって言ってたコンビニのお菓子とかそんな「エモい」の代名詞。でも、そのひとつひとつの微妙な温度の違いに気付くから、「エモい」の三文字で表現したくなくなる。そして、アイスコーヒーの透き通った茶色とか、夏の風より冬の風の方がちょっと音が高いとか、5月と6月の夕方の風の湿り具合とか、多くの人が気に留めない日常のちょっとしたことが、ひどく心を揺さぶるから毎日ドラマティックに生きられる。
だから、敏感で繊細な心も悪くないって思うんだよ。

新しい魅力的な世界を教えてくれるのは、誰かのその敏感な心から見えた景色だ。
敏感で繊細な分たくさん傷つくたびに、誰かの傷ついた心に寄り添える人が好きだ。
だから、わたしは敏感さを誇りに思って生きていく。

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