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煙草

灰色のビルの屋上で、流されるように飛んでいる鳥を見上げて、あぁ、いいなと思った。
このまま飛べば、今なら、あの色のない空に溶け込めるだろうか。
手すりに足をかけて重力に身を任せてしまえば、すべて終わる。
あぁ、心配をしたふりをして、でも非日常の光景への好奇心が隠しきれない黒光りの視線がどこからともなくわたしをとらえる。
面白いものを見せてあげようか。
とんでもないトリックをこれから披露するマジシャンの楽しそうな笑顔が少しだけ分かった気がした。
マジックを見た者の脳裏から一生絶対に離れることないトリックを。

荷物を全て運び出した空っぽの1LDKの真ん中に座り込むと、もう何もないはずなのに、いつもよりも狭く感じた。
無機質な灰色の四角い箱の中はおまけに真空空間になってしまったらしい。
あれだけ嫌で、いつも注意をしていたはずの、彼のドスドスとたてる足音ですら愛おしいと思ってしまった。
ごめん。もう、終わりにしよう。の一言で、長くて積もった思い出を全て片付けて持って出ていってしまった彼を追いかけていけたら間に合ったのだろうか。
まさか。もし、あのとき鳥になれたら君に追いついて、行かないでってなけただろうか。
そんな、よくある感傷に浸れるほど、純情じゃない自分をカラカラと嘲笑した。

いつもちょっと俯きながら遠い目をして、ずっと無言だった彼の隣に座る口実がただ欲しくて、彼の真似をして吸った煙草の味も
本当はそんなに好きじゃなかった。
そんな消してしまいたい思い出のはずなのに
今はもう吸うこともない煙草の味がふと喉の奥によみがえる。
あぁ、彼はなんていうものをわたしに残していったんだ。
わたしの脳裏から一生絶対離れることのないトリックを仕掛けたとき、彼は少し笑っていただろうか。
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