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短命

いつのまにか、8月が終わっていた。
まだすぐに汗ばんでしまうほどに暑くてたまらないのに、カレンダーは8月をあっけなく終わらせた。
いつのまにか蝉の鳴き声は聞こえなくなった。
高いところに綺麗な黄金色の三日月が輝く空に、もう花火なんて似合わない。
「何で夏の恋は短命って言うんだろうね」
目の前にいるくせにそうやって意味ありげに笑う彼女はいつのまにかノースリーブを着なくなった。
「何でも短命の方が切なくて綺麗だからだよ」彼女のほうを向かずに素っ気なく答えると、彼女は、ほぉーんと興味なさげに毛先の枝毛を探していた。
小さなアパートのベランダで並んで飲む缶ビールの水滴がポタポタと落ちて脚に冷たい雨を降らせる。
「もう夏も終わっちゃったね。」
夏の終わりの物悲しさは夏が残す最後の風物詩。
彼女が夏休み最終日の子供みたいに拗ねたように頬を膨らませた。
「綺麗に終わる恋と、跡がつくほどすがりついて苦しさにもがいて終わる恋。どっちが好き?」

『短命な夏の恋』がしてみたいと彼女を誘ったのは僕だった。
6月まで僕たちはお互いの名も知らないような他人だった。
長く鬱々とした梅雨の中で、僕はきっと美しい恋という幻想に躍起になっていた。
いつだって僕に上目遣いで好きだと囁くのは、僕を都合よく消費していく女の子。
それなのに人肌が恋しいだけの季節の恋は、溜息が出るほど長かった。
これ見よがしに纏ったパステルカラーは目にチカチカとうるさい。
それでも、1人っきりで眠って起きる朝を繰り返し続けるよりは随分とマシだった。
女の子は、消費期限付きのマカロンだ。はじめの一口だけすごく甘くて美味しそう、なだけ。
そのうちに纏わりつく甘さに身体中蝕まれてしまう。

恋なんて、したことはなかった。
心で痛みを感じたことなんて、なかった。
それなのに、6月に出会った彼女に初めて触れたとき、とてつもなくじんわりとした痛みが体中に広がって、思わず彼女の身体から離したはずの指先で、自分の頬を拭った。
「どうして泣いているの」と訊ねる彼女の声が耳の奥でじんと響いたまま、目をつむった。「好きだよ」なんて言葉は吐けなかった。
恋の始まりのお決まりの台詞を言ってしまえば、また、始まってしまう。
「夏の間だけ。短命な夏の恋をしてみたい」
朝が来る前に、ようやく絞り出した声で呟いた僕に「そういうの、好きだよ」と彼女は笑っていた。

夏がこんなにも早く過ぎ去るとは思わなかった。
8月の残りの日数を指折り数えて嘆いたのも、
風鈴のチリンという涼しい音に、まだ手の中にある夏に妙にホッとした感覚をおぼえたのも、いつぶりだろうか。
「わたし、短命の美しさが分かったよ。だって、そうやって綺麗すぎる涙で終わる恋なんて、無いよ。今までも、これからもね。」
とっくに飲み干してからりとした空気の中で乾ききったビール缶が手を滑り落ちた。
それなのに、ポタポタとサンダルには雫が落ち続ける。
「夏が終わるね」
彼女がふっと綺麗に笑って呟いた言葉は、「さよなら」よりも残酷で、切ない響きをしていた。

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